【月蝕の花嫁】 契約から愛へ、月に誓う幻想恋譚

星乃和花

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第二話 月光の下の契約生活

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 与えられた部屋は、東庭に面していた。
 窓を開ければ、夜にだけ匂い立つ白い花々が、しずかに息をしているのが分かる。薄い香りが室内の石壁にやわらかく触れては離れ、見知らぬ寝台と、磨かれた机と、まだ馴染まぬ椅子の輪郭を、月の粉で縁取っていく。

 花嫁は衣の帯を解き、ゆっくりと腰を下ろした。
 体は疲れているのに、眠りは遠かった。耳を澄ませば、遠い回廊で鈴の音が一つ、二つ。知らない時刻の合図が、知らない生活の始まりを告げている。

 扉が叩かれる小さな音。
 入室の許しを与えると、若い侍女が一礼し、盆を机に置いた。温い茶と、薄い蜂蜜の香り。
 「夜気は冷えます。喉を傷められぬように——」
 侍女の声はよく整っていた。そこに同情も嘲りもなく、ただ職務の温度だけがあった。

 茶を一口含む。
 甘さは控えめで、喉の緊張が少しほどける。花嫁は茶碗を両手で包み、窓辺に立った。庭の白が、月に溶けながら、少しずつ濃淡を変える。こんな夜を、家では何度見ただろう。母と並んで座り、花のつぼみの膨らみを待った。思い出は温かく、今の部屋は静かだ。

 ——ここで息をしていく。
 そのための呼吸の仕方を、今夜から覚えなければならない。

 *

 翌刻、影の従者が訪れた。
 痩せた背に濃い外套をまとう男は、深々と礼を取ると、手短に告げた。

 「以後の生活についてお伝えします。
  起床の鈴は三つ、就寝の鈴は一つ。御膳は回廊南の小間にて。
  入室と出仕の規は、従者の案内に従われよ。
  ——立入の禁、幾つか」

 紙片が差し出される。
 “西塔最上層”“地下の回廊”“泉の祭室”——知らない文字列の並びが、地図の上の黒線のように世界を狭めていく。

 「御身は契約において保護されます。しかし、御身が契約を越えることはない」
 従者は抑揚なく言った。「それが掟です」

 花嫁は頷いた。
 頷けば、胸のどこかがきしむのは、昨夜と同じだ。

 従者は去り際に、ほんのわずか目を伏せた。
 それは礼法の形であり、個の感情ではない。けれど花嫁には、そこに翳りのようなものが見えた。誰のものかは分からない翳り——王宮の石に沈んでいる長い影の一部。

 *

 回廊を歩く練習をした。
 足運びは静かに、衣の裾は音を立てず、角では一拍。教えられた通りに形に身を入れていくと、人の噂は遠のく代わりに、石の冷たさが近くなる。
 途中、侍女ふたりが視線を交わすのを見た。目元には微笑、口元は礼、そして声は蜂蜜より薄く甘かった。

 「人間の娘」
 風の音にまぎれて、言葉の輪郭だけが届く。「契約の……」

 花嫁は歩調を乱さなかった。
 乱さないことが、ここでの最初の誇りだと思った。

 南の小間で昼の膳を取り、与えられた書庫で王宮の礼式を学ぶ。
 “目を合わせ過ぎぬこと”“名を問わぬこと”“問われねば己の来歴を語らぬこと”。
 文字を追うほど、世界は狭まり、呼吸は細くなる。だが、知れば恐れは形を持つ。形のある恐れは、形通りに避けられる。そう教え込むように、紙片は平らに並んでいた。

 *

 夜が降りた。
 窓を細く開けると、庭の白が朝よりも明るく見えた。月が満ちつつある。花嫁は掌で胸元を押さえ、規則正しい鼓動を数えた。
 ——初めての夜は、なるべく静かに過ぎてほしい。
 そう願っても、心は容易に言うことを聞かない。

 「……寒くはないのか」

 背に、低い声。
 振り返ると、扉の影に王子が立っていた。いつからいたのか分からない。気配は薄く、声だけが確かだった。

 「だ、大丈夫です」
 花嫁は慌てて身を正した。喉が乾く。言葉は短く、礼は深く。

 王子は窓外へ視線を逸らした。
 「ならばいい」

 それだけを告げ、踵を返す。
 行き過ぎる気配に、花嫁は思わず言葉を追った。

 「……庭の花が、とてもきれいで」

 王子の足が、ほとんど分からぬほどわずかに止まる。
 「夜に咲く花は、淋しく見えても、強いのです。——人間界でも」

 沈黙。
 やがて、短い息の音。

 「強い、か」

 窓辺に差す月が、王子の横顔を一瞬だけ白く洗った。
 冷たさの下、触れれば崩れそうな脆さの色が、ほんの刹那だけ浮かぶ。花嫁は言葉を足しそうになる自分を、両の掌でそっと押しとどめた。踏み込み過ぎれば、礼を失う。礼を失えば、ここに在れない。

 王子は何も言わずに去った。
 扉が閉まる音は静かで、その静けさがかえって胸に残る。

 卓上に、いつのまにか置かれていた薄いショールがあった。
 朝見た記憶はない。侍女が気を利かせたのかもしれない。
 花嫁はそれを肩に掛け、布の温度に身を沈めた。
 ——誰の意図であれ、今夜の冷えには充分だ。
 そう思って、布端を指でつまむ。指先に、石の冷たさとは違う、柔らかな感触。

 *

 数日が過ぎると、王宮の音の配置が分かってきた。
 朝の鈴は小刻みに三つ、昼の合図は中庭の噴水、夕暮れには巡回の靴音が回廊を渡る。夜深くに一度だけ響く重い鐘は、西塔の最上層。——紙片に記された“禁”の文字が、音でありありと立ち上がる。

 花嫁は規の内側で動き、決められた場所に現れ、決められた言葉を使った。
 すると、囁きは薄れ、視線の角は丸くなった。
 形を守ることは、息を保つことだった。

 その間も、王子の姿は時折、影のように現れては消えた。
 距離は保たれ、言葉は少なく、視線は短い。
 けれど、たしかに一度だけ——廊下の角で侍女に呼び止められた時、王子の気配が先に現れ、侍女の言葉が礼に変わったことがある。
 「お支度の時刻を誤りました。失礼を」
 侍女は頭を垂れ、花嫁は首を横に振った。
 王子は何も言わず、ただ通り過ぎた。通り過ぎる一瞬、月の光が肩で揺れて、影が花嫁の足元に落ちた。

 ——守られた、のだろうか。
 そう思った自分を叱る。期待は、ここでは刃だ。
 けれど、胸の奥に灯った小さな火は、簡単には消えなかった。

 *

 夜。
 書庫から戻ると、扉の前に細い包みが置かれていた。
 中には乾いた白い花弁が数輪と、短い紙片。
 “東庭の二列目、月の入の頃に香りが濃くなる。眠れぬ時は窓を開けよ”

 文字は整っていて、癖がない。
 誰の手かは書かれていない。
 花嫁は花弁に顔を寄せ、微かな香りを吸い込んだ。母の庭で嗅いだ香りよりも、わずかに冷たく、澄んでいる。

 紙片を畳み、机の引き出しにしまう。
 扉の向こうで足音は遠ざかり、夜の鈴がひとつ鳴った。

 ——眠れぬ時は、窓を開けよ。
 言葉の通りに、窓を押し上げる。
 月は昨夜よりも丸く、東庭の白を照らしていた。
 香りは確かに濃い。息を吸うと、胸の内側の冷えが少し和らぐ。

 その時、回廊の方から足音がし、影の従者が姿を見せた。
 「お呼びです、花嫁様」
 従者は深く礼をとる。「満ちの前夜、巫女がお言葉を。——明夜、泉へ」

 胸が高鳴る。
 紙片にあった“泉の祭室”の文字が脳裏をよぎる。禁ではない。今度は、招きだ。

 「承知いたしました」

 言い交わす声は静かだが、手のひらには汗が滲んでいた。
 扉が閉まり、夜が戻る。
 花嫁は窓辺で、白い花の列を見つめた。
 夜にだけ開き、冷えをものともせず咲くもの。
 ——強いのだ、と、あの声は言った。

 部屋の灯を落とす。
 暗がりに目が慣れると、寝台の向こう、壁に月が薄く映っていた。
 形は、今夜も、少しずつ満ちていく。
 花嫁は手を胸に置き、鼓動と鈴の間を数えた。
 まだ名前のない距離の向こうで、同じ月が誰かの影を白く縁取っている。
 そのことだけが、不思議に心を安らげた。

 明夜、泉へ。
 深く息を吸い、吐く。
 これから始まる何かの気配が、夜気の中で、微かにきらめいた。
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