【月蝕の花嫁】 契約から愛へ、月に誓う幻想恋譚

星乃和花

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第四話 揺らぐ心

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 満ちの夜を一つ手前に置いた翌夕、庭はやわらかな薄明りに包まれていた。
 日と夜の境いがほどけ、白い花弁がゆっくりと形を開く。石畳は昼の熱を手放し、代わりに水の匂いが近づく。東庭の小径は、低い生垣に沿って曲がり、池のほとりへと続いていた。

 花嫁は、ひとりでそこを歩いていた。
 儀式のあとの胸のざわめきは、まだ言葉の形を持たない。形がないのに重さだけは確かで、呼吸の奥に静かに沈んでいる。
 ——夜に咲く花は、夜を恐れぬ。
 巫女の言葉と、王子の「強い、か」という短い呟きが、交互に響いては遠ざかった。

 池の縁に立つと、風が濃くなる。
 水面の皺が重なり、月が砕け、また継ぎ合わさる。白い花はその割れ目に星を落としたように浮かび、触れれば溶けそうな光をたたえていた。

 「……ここにいたのか」

 低い声が背から届いた。
 花嫁は振り返る。生垣の影から現れたのは王子だった。黒い外套の縁が夕風を受けてわずかに揺れ、輪郭が薄暮に溶ける。王子は距離を測るように一瞬立ち止まり、池のほとりまで歩み寄った。

 花嫁は礼を取り、視線を落とす。
 王子はすぐには言葉を持たず、池の向こうを見た。
 沈黙は硬くなりすぎない程度に伸び、やがてほどける。

 「人の世では、これを何と呼ぶ」
 王子は水面に漂う白い花を顎で示した。

 「夜香草と呼ぶところもあります」
 花嫁は声を整えた。「夜にだけ大きく開いて、香りが濃くなるのです。昼間は固く閉じたまま……まるで、夜を待って息をしているみたいだと、母が」

 そこで言葉を切り、花嫁は胸の奥で小さく謝った。ここで家族の話を長くするのは礼に反する。
 王子は否むでも許すでもなく、水面を見つめ続ける。
 「夜しか開かぬ花がある一方で、夜に閉ざされる者もいる」

 それが自分のことだと分かるほど、花嫁はこの宮の言葉に慣れてはいない。
 ただ、胸の内側が小さく応じた。
 「閉ざされているように見えても……」花嫁は意を決し、言葉を一つ足した。「根は、生きています。土の下で水を引いて。見えなくても」

 王子の横顔が、わずかに動く。
 薄明の白が頬の角度を撫で、瞳に淡い反射を置いた。
 「見えぬものに意味はあるか」

 問いは冷ややかに整っていたが、刃の向きは外ではなく内へ向いているように花嫁には思えた。

 「あると、わたくしは思います」
 息をゆっくり整え、花嫁は続けた。「見えぬ根が折れないように、夜のあいだ、花は自分を閉じます。弱いから閉じるのではなく、朝にひらくために閉じるのだと」

 王子は短く息を吐いた。嘲りにも諦めにも聞こえない、音の薄い吐息。
 「お前は、夜を恐れぬのだな」

 花嫁は首を横に振る。
 「恐れます」
 正直に言葉が出た。「恐れております。けれど——恐れたまま、立つことはできます」

 沈黙が小さく揺れ、池の水音がその隙間を埋めた。
 王子は視線を落として花嫁の手元を見た。指先は薄い冷えで白く、袖口の布が小さく緊張を持っている。
 「……夜は冷える」
 王子は外套の内側へ手を入れ、細い包みを取り出した。
 「これを」

 渡されたのは、薄く編まれた手袋だった。
 白ではなく、淡い灰。光をはね返すのではなく吸いとって、温度を留める色。花嫁は一瞬ためらい、それから深く礼を取って受け取った。

 「宮の備えだ」
 王子は先に釘を打つように言う。「礼は不要」

 花嫁はうなずき、指先を布へ滑らせた。思ったよりも柔らかい。糸の締め具合は密で、編み目は均一。以前、部屋に置かれていたショールと同じ手が選んだものかもしれない——そう思う自分に気づき、胸の奥で言葉をたたむ。確かめることは、今は礼から外れる。

 手袋に包まれた指先が、遅れて温まっていく。
 王子は視線を水へ戻し、短く問う。

 「人の世では、夜に歌うのか」

 「歌います」
 花嫁は少し驚き、それから微笑を浮かべた。「眠れない夜に、小さな声で。母が歌ってくれました。言葉は……古い歌で、意味は半分も分かりませんでしたが、それで十分でした」

 「意味は半分で足りるのか」

 「はい。半分は、聞く側の胸にあるので」

 王子の瞼が、わずかに降りた。
 それは眠気ではなく、記憶を透かす仕草に見えた。遠い場所に触れ、すぐに手を離すような短さで。
 「——夜にしか届かぬものがあるのは、確かだ」

 池の向こうで風が変わり、花の列がいっせいに揺れた。香りが濃くなる。
 王子は一歩、池の縁から離れた。花嫁も後に続く。

 「お前の在り方は、宮に馴染む」
 歩き出しながら王子は言った。「形を守るのが早い」

 褒め言葉には聞こえない。
 けれど、咎めでもない。
 花嫁は足音を整え、「ありがとうございます」とだけ答えた。
 胸の内側で、知られたくない熱が小さく灯る。
 ——見ている。
 どこまでかは分からないが、確かに、見ている。

 回廊に戻る手前で、王子は足を止めた。
 「ひとつ、守れ」
 声は低いが、明瞭だった。「呼ばれぬ場所には、行くな。誘いがあっても、従者以外の言葉は信じるな」

 花嫁は顔を上げずに答える。
 「承知いたしました」

 王子はそれ以上、何も言わない。
 けれど背を向ける直前、その横顔がほんの瞬きほどの長さで花嫁を掠め、目元に見たことのない陰影を置いた。心配——と名づけてしまえば軽くなりすぎる。心配の手前、もしくはその後ろにある別のもの。花嫁は名を与えず、胸にそっとしまった。

 *

 部屋に戻ると、窓の外はすでに夜の色だった。
 手袋を外して机に置き、花嫁は窓を少しだけ押し上げる。冷たい空気が、手袋に囲われていた指先の温度を確かめるように撫で、東庭の香りを運ぶ。
 机の引き出しには、紙片と、先日のショール。並べると色の調子がよく似合った。

 ——守れ。呼ばれぬ場所には行くな。
 言い回しは命令だが、言葉の重みは鎖ではない。
 鎖ではなく、細い綱。夜の川に張られた、渡るための一本。

 寝台に身を横たえ、花嫁はまぶたを閉じる。
 耳の内側で、水音と足音が交互に響いた。
 意味の半分は、胸の中にある。
 ならば、残り半分は——いつか、あの人の口から。

 名前の空白を抱いたまま、眠りはゆっくりと訪れた。
 夢の手前で、花嫁はもう一度だけ思う。
 ——恐れたまま、立てる。
 その小さな確かさが、今夜の灯だった。

 *

 同じ頃、王子は西の高みに立っていた。
 回廊を渡る風の癖を読むように、塔の窓から庭の白を見下ろす。ひとたび視線を外せば、世界はすぐに硬い形に戻る。掟、系譜、儀。
 ——呼ばれぬ場所には行くな。
 言い渡した言葉が、自分の喉の温度をまだ保っている。必要なための言葉。だが、必要の中には、他にも言い換えの効かない何かが混ざっていた。

 「強い、か」
 塔の石に落ちる声は、夜気にほどけてすぐ消える。
 夜にしか開かぬもの。夜に閉ざされるもの。見えない根。
 見えないもののために、今夜はそれで足りる。
 王子は外套の裾を払って背を向けた。
 満ちゆく月は窓の外で輪郭を濃くし、庭の白は、またひとつ多くの花弁をひらいた。
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