【月蝕の花嫁】 契約から愛へ、月に誓う幻想恋譚

星乃和花

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第六話 遠ざかる距離

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 北の回廊の灯は、夜でも高い。
 炎の背丈を整えた燭台が一定の間隔で並び、光は石の目地を白く縁取っていた。五日のあいだ、花嫁は王宮の呼吸に合わせて動き、形を守った。呼ばれぬ場所へは行かず、従者以外の案内には従わない。
 それでも胸の奥では、あの夜の影の感触が、薄い痛みとして残っている。

 ——守られた。
 そう思ってしまう自分を、夜ごとに叱りなおす。
 けれど、叱る言葉は薄れ、残るのは問いばかりだ。

 どうして、王子は——。

 問いは形を持たぬまま、日々の隙間に滞留した。
 やがてそれは、言葉へ変わる時を得る。

 *

 その夕刻、影の従者が告げた。
 「今宵、広間の窓辺にて、灯の整えを。花嫁様も手伝いを仰せつかりました」

 定められた務め。
 花嫁は頷き、袖口を正す。北の広間は大窓が高く、東庭と西塔の影が同時に映る。そこは声がよく響くが、長く残りすぎはしない。言葉の重さを確認するには、ちょうどよい。

 燭台の芯を短く切り、炎を揃えて回ると、足音が一つ、広間の入口へ落ちた。
 王子だった。黒い外套は肩でゆるやかに落ち、歩むたびに布の陰影が移ろう。影の従者が下がり、灯の揺れが落ち着く。

 花嫁は礼を取り、視線を落とした。
 王子は大窓の前に立ち、外の白い庭に目をやる。沈黙は短く、花嫁は決めていた言葉を持ち上げる。

 「——ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

 王子の視線が、わずかにこちらへ返る。
 花嫁は喉の渇きを飲み込むようにして続けた。

 「あの夜、わたくしをお守りくださったのは、どうして……」

 言い切る前に、答えは落ちた。

 「契約だからだ」

 石に落ちた刃のような、揺るぎのない音。
 花嫁の指先に、遅れて冷たさが走る。王子は視線を外し、淡々と重ねた。

 「花嫁を守るのは義務だ。お前がどう思おうと、それ以上の意味はない」

 炎が一つ、かすかに身をよじる。
 花嫁は息を深く吸い、吐いた。言葉を足せば、礼を失う。沈黙は、ここでは盾だ。
 胸の奥で、鋭い音がして、何かが細くひび割れる。
 ——契約だから。
 その一言で、すべては整えられ、同時に、すべてが遠のいていく。

 「……承知いたしました」

 声が震えなかったのは、形の力だ。
 花嫁は深く頭を下げ、燭台の芯をもう一本だけ整えた。必要な所作だけを置いて、広間を下がる。背を向ける刹那、窓の外の白い花が視界をかすめた。夜を待って息をする花——その強さのことを思い出す。強さとは、傷まないことではない。傷んだまま、ひらくことだ。

 *

 回廊は、広間よりも暗かった。
 足音に自分の体重が戻り、胸の奥のひびに冷気が入り込む。
 影の従者が一歩、横に出る。
 「お部屋まで」

 花嫁は首を横に振った。
 「歩きます。ひとりで」

 従者は一礼し、距離を取って後方へ移る。
 石の壁に沿って歩くと、東庭の香りが薄く寄ってきた。窓の外、白い列は今夜も同じ位置で揺れている。強さの仕方まで、毎夜同じではないというのに、形はよく似て見える。

 部屋に戻ると、机の上に皿が置かれていた。
 温い湯と、蜂蜜を落とした茶。侍女が置いたのだろう。
 花嫁は椅子に腰を下ろし、両手で碗を包む。温度が、掌から遅れて腕へ昇ってくる。
 ——契約だから。
 言葉は胸の中央に居座ったまま、少しも動かない。

 窓をわずかに開ける。
 夜の香りが入り、灯が揺れる。
 花嫁は目を閉じ、数を数えた。鈴の音の間、呼吸の数、鼓動の数。数は守れる。数を守っている間は、心が崩れにくい。
 やがて、碗の湯気が細くなる。花嫁は碗を置き、机に額を預けた。

 ——わたしは、この人にとってただの役割なのだろうか。
 名前すら呼ばれず、名で呼ぶことも許されず、形だけを置いていく。
 それでも、遠ざかった距離の上に残る細い綱を、指先で探してしまう。

 *

 同じ夜、王子は別の回廊にいた。
 窓の外に東庭。白い列は、遠くからでも見分けがつく。
 先ほどの広間で落とした言葉が、喉の内側に刃の形で残っていた。
 ——契約だからだ。
 それは正しい。正しさは壁になる。壁は守る。だが、壁は、内側のものも冷やす。

 影の従者が現れ、無言で一礼する。
 「先ほどの件」
 王子は低く問う。「広間の灯の整えに、花嫁を向かわせたのは、お前か」

 「はい」
 だが、従者はすぐに続けた。「花嫁様が尋ねるであろうことも、承知しておりました」

 王子は目を細める。
 「なぜ、言葉を先に置かなかった」

 「殿下の言葉しか、答えにならぬゆえ」

 短い沈黙。
 王子は窓外へ視線を流し、息を一つ落とした。
 「……線は保て」

 「は」

 従者は身を引き、足音を残さず去った。
 王子はしばらく窓辺に立ち尽くす。
 広間で花嫁が灯を整える手元は、確かだった。芯を切る角度、炎の高さを揃える間(ま)。形に身を置くことで、崩れずにいる——その術を、短いあいだに覚えたのだろう。

 強い、か。
 今度の声は、胸の内側でだけ鳴った。
 強さは、近づけばこちらをも温める。だが、近づくほどに呪いは鋭くなる。
 王子は指先を握り、爪の痛みで考えを切った。

 *

 夜更け、花嫁は灯を落とし、寝台に身を沈めた。
 目を閉じると、広間の光と石の冷えが、まぶたの裏に薄く残る。
 ——契約だから。
 言葉は硬い。だが、硬さに触れ続けるうち、別の感覚が生まれてくる。
 離されたはずの距離の上に、細い綱の手触り。
 もしもそれが錯覚であっても、今夜を越えるための助けにはなる。

 窓の外、東庭の白は静かに揺れている。
 夜の花は、夜を恐れる。恐れたまま、開く。
 花嫁はゆっくり息を吸い、その長さのぶんだけ吐いた。

 遠ざかる距離がある。
 けれど、心は離れたがらない。
 その事実だけを胸の中央に置いて、花嫁は目を閉じた。

 眠りの手前、遠くで鈴が一つ鳴った。
 満ちゆく月の足音が、石をすべる。
 次の夜に備えるように、王宮は深く息を吸い、吐いた。
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