夢を継ぐ王子は、朝鐘の君に帰る

星乃和花

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夢幕間D 薄明の庭

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薄明は、音の前ぶれだった。
まだ鐘は鳴らないのに、空気は合図の形を思い出してゆく。
闇の色が一段うすまったところで、私は庭に出た。ここはずっと前からあったのに、名を与えられないまま視界の端で霞んでいた場所——帰る門の内側。

礫は乾いている。足裏の感触で、それがまず確かめられる。
小径の脇には低い杭石が四つ並び、それぞれの面に薄く文字が彫られていた。
手すり/踊り場/灯/木戸。
さらに少し離れた石には、新しい刻み——大階段。
文字は音ではないのに、読むと胸の三打目の位置が温度を持つ。

垣は銀糸の蔓で編まれている。触れると微かに震え、その震えは余韻鈴のように鳴らずに整える。
花壇には醒香草と薄荷花、そして細く削いだ柑の皮が干され、朝の匂いが喉で読める高さで満ちていた。
庭の真ん中に置かれた石の縁は、夜のあいだ誰かが温めていたみたいに体温を保っている。布ごしに掌を置くと、温度だけが指へ返る。名前は渡らない。

門は小さい。
鐘楼の輪郭を反転させたみたいな、素朴な木戸だ。
蝶番は錆びない仕組みで、鍵は最初から向こう側に置かれている。開けるのではなく、通るためにある門。私はようやく、その設計のやさしさを理解する。

垣の陰で、いちど影が動き、すぐ霧になった。
——反響王の残り火。
名を受け取らない場所では、束は束でいられない。
霧は睡蓮の鉢の上を渡り、露になって落ちた。助けられなかった夜の返礼は、今朝ここでは水に変わる。飲み干せる重さに。

私は鳴らない指輪を指で転がし、垣の銀糸にそっと掛けた。
指輪は音を持たないが、風が通ると拍の形で揺れる。
——行ってきます。
——お帰り。
二つの言葉が門柱の内側に刻まれていることに気づく。彫りは浅いのに、読むと方向がはっきりする。

庭の石卓の上に、薄い板が置いてあった。
祖母の書体に似た細い字。

夢は所有物ではない。
ここも、所有しない。
置くのは、合図だけ。
——帰る場所は、消えない。

私は椅子に坐り、拍をひとつ整える。
音はまだ来ないから、香を先に、体温を続けて、最後に言葉を。
抽象ではない具体——手すり/踊り場/灯/木戸。
言えば、庭のどこかが答える。
手すりの代わりに蔓がたわみ、踊り場の代わりに石畳が一段だけ広くなる。灯は火ではなく、薄明そのもの。木戸は風の向きを示す矢羽になる。

私は門の向こうを見た。
回廊の硝子は乾いている。
遠くの塔で、まだ鳴らされない朝が、息を潜めている。
呼ばれなくても、上へ。
呼ばれたら、もっと速く。

指の腹に、布ごしの温度が戻った気がした。
ここには誰もいないのに、温度だけが先に届く。
——あなたの帰る場所になる。
言葉は声にならず、表札のように門の内側にそっと貼りつく。
所有ではなく、帰還のための表札。

庭の果てに、細い大階段の影が伸びていた。
上へ向かう階は夢の中にだけ見えて、現のほうからは見えない。
私はその一段目に足をのせ、すぐ降りた。
今は行かない。今は、ここを置く。
戻る場所を先に作るのが、私のやり方になった。

風が変わり、余韻鈴が鳴らないまま強く整う。
私は門に手をかけ、試しに半歩、外へ通ってみる。
鍵は要らない。誓いが鍵の代わりをする。
胸の三打目が静かに落ち、外の光が庭の石を一枚ぶん明るくする。

振り返る。
門は開いたまま、閉じる必要を知らない顔をしている。
垣の銀糸には水滴が並び、ひとつずつが小さな鐘の形にふるえる。
鳴らす前の余白は、ここにもある。
私はその余白に、短い理由を置いた。

——怖いままで助けるため。
——助けられてよいと、言えるため。
——所有ではなく、帰還を選ぶため。

薄明がもう一段、朝へ近づく。
遠い塔が正しく朝に鳴る直前、庭のどこかで拍がひとつ、私の胸と揃った。
私は門をまたぎ、外へ出る。
呼ばれなくても、上へ。
呼ばれたら、もっと速く。

そして歩き出す前に、振り向いて小さく言った。
「ただいま」
庭は静かに答える。
鳴らないのに、確かな**「おかえり」**で。
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