夢を継ぐ王子は、朝鐘の君に帰る

星乃和花

文字の大きさ
21 / 21

終章 四打目の余韻

しおりを挟む
朝の鐘は、正しく朝に鳴った。
一打目が空を割り、二打目が肩へ落ち、三打目が胸の底に沈む。
そして四つ目——四打目のあとに広がる薄い余韻が、町じゅうの表札をそっと撫でて通る。
手すり/踊り場/灯/木戸/大階段。
どの家の札も、朝の面が上だ。

港の帆は今日も鳴らない音で応える。
粉屋の店先ではミナが札を磨き、学校では子どもたちが具体を声に出して読む。
「踊り場は、泣いてよい場所」
先生が言うと、しばらくの沈黙ののち、小さな“はい”がいくつも揺れた。
医師は診療室の壁に帰還の作法を貼り、香草屋の棚には“今朝の天気を喉で読む配合”が並ぶ。
夜の見張り番は枕元で拍を数え、行ってきます/お帰りが路地の端から端まで薄く往復する。

反響王は、遠い。
名を渡さない町では、束は束でいられない。
北の湿原の国境庭では、風向きを示す木戸が矢羽のまま立ち、門は閉じる必要を知らない顔で開いている。
誰かが来て、門柱の浅い刻みを指でなぞる。
——ただいま/おかえり。
言葉は石へ、石は方向へ、方向は帰還へ。

鐘楼の裏の薄明の庭でも、同じことが起きる。
銀糸の垣は風で整うだけ、花壇では醒香草と薄荷花が静かに香り、柑の皮は細い線になって喉で読める高さにある。
石の縁はいつも体温を保ち、布ごしに掌を置けば、名前を通さない温かさが指へ返る。
門は開いたまま——通るために。
私はそこで一拍置き、まだ誰にも要られない理由を鳴らす前の余白にそっと置いておく。

彼は、黒衣の襟の第一の釦をやはり外したまま、朝の回廊を歩く。
夢痕は袖口のかげで浅く呼吸し、助けたいと怖いを両方抱えた目で、けれど今を見る。
私たちは布ごしに指を重ね、余韻鈴を鳴らさずに呼吸の高さへ上げる。
音・香・体温、それから言葉。
——作法は、もう祈りではなく、生活になった。

それでも、夜は時々、深くなる。
川が思い出したように広がり、扉が列をなし、遠くで返せの反響が薄く寄せてくる。
そのたびに、私たちは越えない。
十五分を二つ。縁の手前で止め、呼び交わす言葉を先に置く。
「行ってきます」
「お帰り」
名は所有のためではなく、呼ぶためだけに。
王は追わない。追えない。
名の置かれた場所には、束は来られない。

祖母の記録帳は、今日も新しい頁を受け入れてくれる。
古い字の下に、私の細い字。
“押し返さず停止。改変なし。帰還。”
欄外にはいつも、ちいさなよくできたこと。

怖いまま、戻った。
朝を正しく朝に鳴らした。
“行ってきます/お帰り”が、今日も町を渡った。

父はその頁を眺め、短く笑う。
「良い軽さだ」
老臣は巻物を軽く叩いて「橋にせよ」と繰り返し、香草屋の娘は配合札の角を丸くしていく。
楽師は胸の拍で音のない音楽を組み立て、船員は凍る夜に灯の位置を言葉で置く。
ミナは“木戸”の字を上手に書き、大階段の絵に小さな踊り場を描き足した。

私たち自身の婚礼も、式の一日で終わらない。
指には鳴らない指輪——内側の拍が、時々ふいに四打目の余韻を思い出させる。
禁を越えたあの夜の一瞬は、記録の頁に置いたまま、倫理へ戻って息をしている。
越えるのはもう一度もない。
越えずに通すための幅を、私たちは町に、庭に、胸に増やしていく。

季節はめぐり、睡蓮はまた薄い光を水面に置いた。
銀糸の回廊はいつでも乾いた床を見せ、手すりは肘の高さ、灯は足もと、木戸は風のほうへ、大階段は上へ。
——抽象はいくらでもあとでできる。
先に具体を置けば、戻る道は薄明の中でも失われない。

ある朝、彼は私の前で短く言った。
「行ってきます」
それは仕事のためで、政のためで、誰かの夜のためで、同時に自分のためでもあった。
私はうなずき、布ごしに指を握り返す。
「お帰り」
言葉は合図になる。合図は場所になる。
場所は、所有ではなく、帰還のために置かれる。

——鳴らす前の余白は、いつでもある。
そこへ、私たちは理由を置く。
音と、香と、体温。そして、言葉。
四打目の余韻が町を歩き、家々の表札に方向を刻み、遠い国境の門まで届く。
反響は消えない。けれど、良い軽さは手に入った。
恋は、所有ではなく、赦し合う帰還の形で息をする。

明日も、鐘は正しく朝に鳴る。
そして私たちは、鳴らす前の余白にまたひとつ、
——**「お帰り」**を置いておく。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる

若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ! 数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。 跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。 両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。 ――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう! エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。 彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。 ――結婚の約束、しただろう? 昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。 (わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?) 記憶がない。記憶にない。 姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない! 都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。 若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。 後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。 (そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?) ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。 エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。 だから。 この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し? 弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに? ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。

看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全36話⭐︎ 倒れた当主を看病する役目を振られた使用人リィナは、彼の部屋へ通うことになる。 栄養、灯り、静かな時間、話し相手――“眠れる夜”を整えていく。そして、回復していく当主アレクシス。けれど彼は、ある夜そっと手を握り返し、低い声で囁く。 「責任、取って?」 噂が燃える屋敷で、ふたりが守るのは“枠(ルール)”。 手だけ、時間だけ、理由にしない――鍵はリィナが握ったまま。 けれど、守ろうとするほど情は育ち、合図の灯りはいつしか「帰る」ではなく「眠る」へ変わっていく。 看病から始まった優しい夜は、静かな執着に捕まっていく。 それでも、捕獲の鍵は彼ではなく――彼女の手にある。

処理中です...