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第8話 恩返しの核心(ちら見せ)と、戸惑い笑いの裏側
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猫騒動のあと、訓練場は何事もなかったように包帯が舞い、団員がわちゃわちゃし、副団長が胃を押さえ、第三王子が満足げに去っていった。
……何事もなかったように、は嘘だ。
私の中だけが、ずっと“未遂”のままだった。
「君に、恋人に――」
その続きが、耳に貼りついて取れない。
でも同時に、もう一つ、貼りつくものが増えた。
団長の「恩返しだ」という言葉。
恩返し。
私は、そんな大きなこと、した覚えがない。
私は、事務をして、お茶を淹れて、手当をして。
ただ、それだけ。
それなのに団長は、まるで“命を救われた”みたいな顔をする時がある。
怖い。嬉しい。わからない。
その日の夕方、事務室は珍しく静かだった。
団員たちは訓練に戻り、副団長は書類の山と格闘している。
私は帳簿を閉じ、机の引き出しを開けて、備蓄された菓子を見た。
菓子があるだけで、なぜか“休んでいい”気持ちになる。
団長のせいだ。
……いや、団長のおかげ、かもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっとする。
“おかげ”なんて、言い慣れていない。
扉が開いて、団長が入ってきた。
いつも通り、無表情で、静かで、まっすぐにこちらへ来る。
でも今日は、少しだけ……疲れて見えた。
「お疲れさまです、団長」
「お疲れ」
団長は私の斜め後ろ――ではなく、少し離れた位置に立った。
最近覚えた“加減”だ。
それが、なぜか胸に染みる。
「……今日は、忙しかったですね」
「通常だ」
「通常の範囲が広いです」
「……そうか」
団長は少しだけ黙った。
そして、ぽつりと言った。
「君」
「はい」
「昨日、怖くないと言ったな」
「……はい」
私の心臓が跳ねる。
団長は淡々と続ける。
「なら、もう一つ確認したい」
「確認……」
「俺が、君に何を返しているか」
……何を返しているか。
私は息を止めた。
団長は机の端に、古い紙片をそっと置いた。
いつもの“恋愛情報紙”じゃない。
紙の端が少し擦れていて、文字も少しだけ薄い。
それは、騎士団の正式な書類――事故報告書の写しだった。
副団長が顔を上げる。
「団長、それ……」
「昔の記録だ」
私は恐る恐る覗き込んだ。
『訓練中の事故により、当時の新兵(団長)が負傷。
応急手当は――』
その先の行に、私の名前があった。
……嘘。
「……え」
声が出なかった。
頭の中が真っ白になった。
副団長が、気まずそうに視線を逸らした。
「姉さん、覚えてないの?」
「……覚えて……ない」
団長は淡々と説明する。
「俺は昔、訓練で倒れた」
「……」
「手当を受ける前に、意識が遠のいた」
「……」
「その時、君が来た」
私の中で、忘れていた何かが、薄い膜みたいに揺れた。
――血の匂い。
砂埃。
熱い日差し。
誰かの“怖い”って声。
そして。
『大丈夫ですよ』
声だけが、はっきり聞こえた。
「……私、そんなこと、言いました?」
私はかすれた声で聞いた。
団長は頷いた。
「言った」
「……」
「君は、泣きそうな顔で、笑った」
「……戸惑った、みたいに?」
「そうだ」
胸が、ぎゅっと締まる。
そんな顔を、昔から私はしていたのか。
困った時に、笑って。
自分の怖さを、誤魔化すみたいに。
団長は淡々と続けた。
「俺はあの時、救われた」
「救われた……?」
「手当ではない」
「……」
「君の言葉だ」
副団長が小さく呟く。
「団長、姉さんの“それ”、昔からなんだよ。姉さん、自分が怖いと笑うんだ」
私は、紙片を見つめたまま動けなかった。
私がしたことは、応急手当と、励ましの一言。
誰でもできること。
――そう思っていた。
でも団長は、それを“救い”と言った。
胸の奥が、怖くなる。
こんなに大事にされる理由が、私には重すぎる。
受け取れない。
返せない。
釣り合わない。
言葉が勝手に出る。
「……団長、そんな……」
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「そんなに大したことじゃ……」
「大したことだ」
団長の声が、いつもより少しだけ強い。
否定を、許さない強さ。
「君は、自分を低く見積もる」
「……」
「それは、危険だ」
「また危険……」
私は小さく呟いて、目を逸らした。
目が熱くなる。
団長は、少しだけ言い方を変えた。
たぶん、困らせない(重要)を思い出したのだと思う。
「……君がそう言うと、俺は困る」
「団長が……困る?」
「俺の恩返しが、成立しない」
恩返し。
成立。
やっぱり、団長は真面目だ。
全て、業務みたいに扱う。
でも。
その“困る”が、胸に刺さる。
私が自分を小さくすると、団長が困る。
そんな世界が、私の中にはなかった。
副団長がそっと言った。
「姉さん、団長、恩返しって言ってるけどさ……それ、たぶん……」
「副団長」
団長が静かに止めた。
「言うのは、俺だ」
副団長が口をつぐむ。
私の心臓がまた跳ねる。
団長は、紙片をそっと引き寄せ、丁寧にたたんだ。
そして言った。
「君に返したいのは――」
そこで、団長は一瞬だけ言葉を探すように黙った。
こんな沈黙、珍しい。
私は息を止めた。
団長は、低い声で言った。
「――君が、君を大切にすることだ」
「……え」
意味がすぐに理解できなくて、私はただ呟いた。
団長は淡々と続ける。
「君が無理をすると、あの時の言葉が嘘になる」
「……」
「『大丈夫』が、嘘になる」
「……」
胸が、ぎゅっと痛い。
私は、あの時の自分が言った言葉を、守れていないのかもしれない。
団長は、いつもの当たり前の顔で言った。
「だから、俺は止める」
「……」
「止めさせてほしい」
――してほしい。
第三王子の紙にあった語尾。
団長が、覚えている。
私は戸惑って笑いそうになって、でも笑えなくて、代わりに小さく息を吐いた。
「……止めてください」
声が震える。
「私、たぶん……止めてもらわないと、わからないです」
団長の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「承知した」
「承知って……」
「俺は、約束を守る」
副団長が小さく笑った。
「団長、姉さんにだけは“承知”が重いんだよ」
「副団長」
「はいはい、黙ります」
私は目を拭うふりをして、机の端を整えた。
自分の涙をごまかす癖は、簡単には消えない。
でも。
紙片の名前が、私の中でずっと鳴っている。
あの時、私が言った「大丈夫ですよ」が、
今、私の番になって返ってきたみたいで。
胸の奥が、少しだけ温かい。
……怖いけど。
私は小さく言った。
「団長……恩返しって……重いです」
「重くない」
「重いです」
「なら、軽くする」
「軽くできるんですか」
「努力する」
努力って言葉が、団長から出るだけで、なぜか可笑しくて。
私は、やっと笑えた。
戸惑ったような、いつもの笑い。
団長が、低い声で言う。
「その顔は、良い」
「またそれ……」
「覚えている」
「何を?」
「昔から」
私は笑って、引き出しの菓子を一つ取り出した。
団長が淹れたお茶はないけれど、甘いものならある。
「……団長、これ、よかったら」
差し出すと、団長が一瞬だけ固まった。
そして、ゆっくり受け取る。
「受け取るの、練習」
団長が、ほんの少しだけ頷く。
「……君も、上達が早い」
「また評価」
「褒めだ」
――ほんの少しだけ、甘い。
でも、今日はそれで十分だった。
……何事もなかったように、は嘘だ。
私の中だけが、ずっと“未遂”のままだった。
「君に、恋人に――」
その続きが、耳に貼りついて取れない。
でも同時に、もう一つ、貼りつくものが増えた。
団長の「恩返しだ」という言葉。
恩返し。
私は、そんな大きなこと、した覚えがない。
私は、事務をして、お茶を淹れて、手当をして。
ただ、それだけ。
それなのに団長は、まるで“命を救われた”みたいな顔をする時がある。
怖い。嬉しい。わからない。
その日の夕方、事務室は珍しく静かだった。
団員たちは訓練に戻り、副団長は書類の山と格闘している。
私は帳簿を閉じ、机の引き出しを開けて、備蓄された菓子を見た。
菓子があるだけで、なぜか“休んでいい”気持ちになる。
団長のせいだ。
……いや、団長のおかげ、かもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっとする。
“おかげ”なんて、言い慣れていない。
扉が開いて、団長が入ってきた。
いつも通り、無表情で、静かで、まっすぐにこちらへ来る。
でも今日は、少しだけ……疲れて見えた。
「お疲れさまです、団長」
「お疲れ」
団長は私の斜め後ろ――ではなく、少し離れた位置に立った。
最近覚えた“加減”だ。
それが、なぜか胸に染みる。
「……今日は、忙しかったですね」
「通常だ」
「通常の範囲が広いです」
「……そうか」
団長は少しだけ黙った。
そして、ぽつりと言った。
「君」
「はい」
「昨日、怖くないと言ったな」
「……はい」
私の心臓が跳ねる。
団長は淡々と続ける。
「なら、もう一つ確認したい」
「確認……」
「俺が、君に何を返しているか」
……何を返しているか。
私は息を止めた。
団長は机の端に、古い紙片をそっと置いた。
いつもの“恋愛情報紙”じゃない。
紙の端が少し擦れていて、文字も少しだけ薄い。
それは、騎士団の正式な書類――事故報告書の写しだった。
副団長が顔を上げる。
「団長、それ……」
「昔の記録だ」
私は恐る恐る覗き込んだ。
『訓練中の事故により、当時の新兵(団長)が負傷。
応急手当は――』
その先の行に、私の名前があった。
……嘘。
「……え」
声が出なかった。
頭の中が真っ白になった。
副団長が、気まずそうに視線を逸らした。
「姉さん、覚えてないの?」
「……覚えて……ない」
団長は淡々と説明する。
「俺は昔、訓練で倒れた」
「……」
「手当を受ける前に、意識が遠のいた」
「……」
「その時、君が来た」
私の中で、忘れていた何かが、薄い膜みたいに揺れた。
――血の匂い。
砂埃。
熱い日差し。
誰かの“怖い”って声。
そして。
『大丈夫ですよ』
声だけが、はっきり聞こえた。
「……私、そんなこと、言いました?」
私はかすれた声で聞いた。
団長は頷いた。
「言った」
「……」
「君は、泣きそうな顔で、笑った」
「……戸惑った、みたいに?」
「そうだ」
胸が、ぎゅっと締まる。
そんな顔を、昔から私はしていたのか。
困った時に、笑って。
自分の怖さを、誤魔化すみたいに。
団長は淡々と続けた。
「俺はあの時、救われた」
「救われた……?」
「手当ではない」
「……」
「君の言葉だ」
副団長が小さく呟く。
「団長、姉さんの“それ”、昔からなんだよ。姉さん、自分が怖いと笑うんだ」
私は、紙片を見つめたまま動けなかった。
私がしたことは、応急手当と、励ましの一言。
誰でもできること。
――そう思っていた。
でも団長は、それを“救い”と言った。
胸の奥が、怖くなる。
こんなに大事にされる理由が、私には重すぎる。
受け取れない。
返せない。
釣り合わない。
言葉が勝手に出る。
「……団長、そんな……」
私は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「そんなに大したことじゃ……」
「大したことだ」
団長の声が、いつもより少しだけ強い。
否定を、許さない強さ。
「君は、自分を低く見積もる」
「……」
「それは、危険だ」
「また危険……」
私は小さく呟いて、目を逸らした。
目が熱くなる。
団長は、少しだけ言い方を変えた。
たぶん、困らせない(重要)を思い出したのだと思う。
「……君がそう言うと、俺は困る」
「団長が……困る?」
「俺の恩返しが、成立しない」
恩返し。
成立。
やっぱり、団長は真面目だ。
全て、業務みたいに扱う。
でも。
その“困る”が、胸に刺さる。
私が自分を小さくすると、団長が困る。
そんな世界が、私の中にはなかった。
副団長がそっと言った。
「姉さん、団長、恩返しって言ってるけどさ……それ、たぶん……」
「副団長」
団長が静かに止めた。
「言うのは、俺だ」
副団長が口をつぐむ。
私の心臓がまた跳ねる。
団長は、紙片をそっと引き寄せ、丁寧にたたんだ。
そして言った。
「君に返したいのは――」
そこで、団長は一瞬だけ言葉を探すように黙った。
こんな沈黙、珍しい。
私は息を止めた。
団長は、低い声で言った。
「――君が、君を大切にすることだ」
「……え」
意味がすぐに理解できなくて、私はただ呟いた。
団長は淡々と続ける。
「君が無理をすると、あの時の言葉が嘘になる」
「……」
「『大丈夫』が、嘘になる」
「……」
胸が、ぎゅっと痛い。
私は、あの時の自分が言った言葉を、守れていないのかもしれない。
団長は、いつもの当たり前の顔で言った。
「だから、俺は止める」
「……」
「止めさせてほしい」
――してほしい。
第三王子の紙にあった語尾。
団長が、覚えている。
私は戸惑って笑いそうになって、でも笑えなくて、代わりに小さく息を吐いた。
「……止めてください」
声が震える。
「私、たぶん……止めてもらわないと、わからないです」
団長の目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「承知した」
「承知って……」
「俺は、約束を守る」
副団長が小さく笑った。
「団長、姉さんにだけは“承知”が重いんだよ」
「副団長」
「はいはい、黙ります」
私は目を拭うふりをして、机の端を整えた。
自分の涙をごまかす癖は、簡単には消えない。
でも。
紙片の名前が、私の中でずっと鳴っている。
あの時、私が言った「大丈夫ですよ」が、
今、私の番になって返ってきたみたいで。
胸の奥が、少しだけ温かい。
……怖いけど。
私は小さく言った。
「団長……恩返しって……重いです」
「重くない」
「重いです」
「なら、軽くする」
「軽くできるんですか」
「努力する」
努力って言葉が、団長から出るだけで、なぜか可笑しくて。
私は、やっと笑えた。
戸惑ったような、いつもの笑い。
団長が、低い声で言う。
「その顔は、良い」
「またそれ……」
「覚えている」
「何を?」
「昔から」
私は笑って、引き出しの菓子を一つ取り出した。
団長が淹れたお茶はないけれど、甘いものならある。
「……団長、これ、よかったら」
差し出すと、団長が一瞬だけ固まった。
そして、ゆっくり受け取る。
「受け取るの、練習」
団長が、ほんの少しだけ頷く。
「……君も、上達が早い」
「また評価」
「褒めだ」
――ほんの少しだけ、甘い。
でも、今日はそれで十分だった。
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