冷徹と噂の堅物騎士団長、恩返しのつもりが彼氏面で騎士団の運用規定になりました(副団長の胃が先に限界)

星乃和花

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第9話 恋愛アプローチ情報その4「名前で呼ぶと距離が縮まる」(騎士団、尊死多発)

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 次の日の朝。

 私は“危険”を予感していた。

 団長が、昨日――私の差し出した菓子を受け取った。
 しかも、食べた。
 ほんのわずかに、咀嚼した。

 その時の団長の顔は、いつも通り無表情だった。
 でも、目だけが、少しだけ、丸くなった気がした。

 ……たぶん、気のせい。
 そう思いたい。

 そして今、事務室の机の端に、新しい紙片が置かれている。

 嫌だ。紙が嫌だ。
 第三王子め。

『恋愛アプローチ情報④:名前で呼ぶ(距離:縮)』
・呼び捨ては上級
・まずは下の名前
・相手が嫌がったら撤退(重要)

 距離:縮って何。
 単語を括弧に入れるのやめて。
 もはや符号だよ。

 副団長が紙を見て、白目になりかけた。
「姉さん……今日は……やばいです」
「うん、わかる……」
「団長の“下の名前呼び”が来ます」
「来なくていい!」

 団員たちが、朝からそわそわしている。
 そわそわの方向が明らかに不純。

「姉さん、今日の団長、息してますか?」
「息はしてると思うよ」
「してないかもしれません」
「そういうのやめて」

 その時、扉が開いた。

 空気が整う。

 団長が入ってきた。

 いつも通り無表情。
 いつも通り静か。
 ――でも、歩幅が微妙に不自然。

 団長が歩幅を不自然にするなんて、世界のバグだ。

「おはようございます、団長」
「おはよう」

 返事は通常。
 なのに、団長は私の机の斜め後ろに立たず、少し横に立った。
 その位置が――妙に“対話”の位置だ。

 副団長が小声で言う。
「……来ます」
「来ないで……」

 私は書類を手に取った。
「今日の回覧は――」

 団長が、私の名前を呼ぼうとした。

 ……たぶん。

 口が、開いた。
 でも声が出ない。

「……」

 団長の沈黙。
 団員たちが息を止める。
 副団長が机を握りしめる。

 団長は、喉を一回だけ鳴らした。
 そして、言った。

「……君」

 君に戻った。

 団員たちが一斉に肩を落とした。
「だめだった……」
「団長、上級すぎる……」
「上級って何!? 恋愛の段位!?」

 副団長が安堵しかけた、その瞬間。

 団長がもう一度、言い直した。

「……いや」

 そして。

「――リナ」

 私は、固まった。

 下の名前で呼ばれた。
 呼ばれたのに、声がいつも通りで、表情もいつも通りで、
 なのに――私の心臓だけが、勝手に暴走する。

「……は、はい」

 返事が、間抜け。

 団員たちが、静かに崩れ落ちた。

「尊死……」
「尊死、出た……」
「姉さんの心臓が……」

 副団長が叫んだ。
「尊死って言うな!! 職場で死ぬな!!」
「副団長、姉さんの心臓、今……」
「言うな!!」

 団長は淡々と続ける。
「回覧を確認したい」
「は、はい……」

 私は書類を差し出す。
 団長が受け取る。
 距離が近い。

 近いのに、団長は“彼氏面”の時みたいに堂々と近づかない。
 少しだけ、慎重。
 ……それが逆に、効く。

 私は思わず、昨日の団長の言葉を思い出した。

『相手が嫌がったら撤退(重要)』

 団長、たぶん、今、私の反応を見てる。

 私は慌てて、笑ってしまった。
 戸惑った笑い。
 癖。

「……すみません」
「謝る必要はない」
「えっと……びっくりして……」
「嫌か」
「えっ」

 団長の声が、少しだけ低くなる。
 真面目な確認。
 逃げ道を塞がない、確認。

 私は首を振った。
「嫌じゃないです」
「……そうか」

 団長が、ほんの少しだけ息を吐いた。
 安堵の息だ。
 そう思っただけで、胸の奥がまた熱くなる。

 副団長が机に突っ伏した。
「……団長、真面目にやるな……」
「副団長?」
「いえ……こっちの話です……」

 団員たちがざわざわし始める。

「団長、姉さんを下の名前で呼んだ……」
「やばい、噂が……」
「噂って何を言う気!?」
「“団長、姉さんにだけ優しい”が加速します」
「加速しないで!」

 団長が視線だけで団員たちを制した。
 団員たちが一瞬で黙る。

 ……黙るのに、顔がニヤけてる。
 黙ってニヤけるのやめて。

 その時、扉が軽快に開いた。

「おはよー! あ、今の下の名前呼び、聞こえた!」

 第三王子が、最悪のタイミングで入ってきた。

 副団長が叫ぶ。
「殿下!! 盗み聞き!!」
「盗み聞きじゃないよ、廊下に響いてた」
「響くように言わせたの誰ですか!!」

 王子は満足そうに頷いた。
「団長、偉い。下の名前呼び、第一段階クリア」
「採点するな」
「採点しないと成長しないでしょ?」
「成長は必要ない」
「必要だよ。距離:縮」

「その符号みたいな言い方をするな」
 団長が珍しくツッコんだ。

 副団長が呆然とする。
「……団長、ツッコミ覚えたんですか」
「覚えていない」
「覚えてます」

 王子が私に向かって、にやにや言う。
「事務さん、どう? ドキドキした?」
「し、してません」
「してるね」
「してません!」
「耳が赤い」
「赤くないです!」

 副団長が、私の耳を見るなり呻いた。
「……赤い」
「見ないで!」
「姉さん、すみません……俺、味方なのに……今日は敵に見える」
「敵にならないで!」

 団長が低い声で言う。
「見るな」
「団長!?」
「彼女が困る」

「彼女って言い方、戻ってますけど!?」
 副団長が叫ぶ。

 団長は一度咳払いをして、淡々と言った。
「……リナ。休憩だ」
「……はい」

 また呼ばれた。

 団員たちが倒れる。
「二回目……」
「耐えられない……」
「尊死……」
「尊死って言うな!!」

 副団長のツッコミが、完全に息切れしている。

 王子が拍手した。
「うん。二回呼び、偉い」
「褒めるな」
「褒めは毎時でしょ?」
「対象を選ぶ」
「じゃあ今日は事務さんだけ褒めるね」
「殿下、やめてください!!」

 私は椅子から立ち上がり、机の引き出しを開けて、備蓄菓子を一つ取り出した。
 指が少し震える。

「……団長、これ……今日も、よければ……」
 差し出すと、団長が一瞬だけ固まった。

 そして、ゆっくり受け取る。

「受け取るの、練習」
 団長が小さく頷いた。
「……継続する」

 継続って。
 契約更新みたいに。

 王子がニヤニヤした。
「ほら、事務さん。団長、今、“続ける”って言った」
「殿下、言わせないでください」
「言わせてないよ。団長が勝手に……」
「勝手に……」

 私の胸の奥に、昨日の紙片の言葉がよぎる。

 距離:縮。

 確かに、縮んでる。
 縮んでるのに、怖くない。

 ただ――恥ずかしい。

 私は戸惑って笑ってしまった。
 団長が、それを見て低い声で言う。

「その顔は、良い」
「またそれ……」
「覚えている」
「……昔から?」
「そうだ」

 副団長が机に突っ伏して、かすれた声で言った。
「……姉さん。これ、噂、爆発します」
「爆発しないで……」
「殿下が今から加速させます」
「やめて!」

 王子がにこにこ言った。
「じゃあね、みんな。今日の噂の題名は――」
「題名をつけるな!!」

 事務室は今日も平和だった。

 平和すぎて、心臓が忙しい。

 そして私は今日も、
 下の名前を呼ばれるたびに、
 少しずつ“受け取る”練習をしてしまう。

 悔しい。
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