氷の参謀、うっかり拾った天使に勝てない——おやつと陽だまりで国が回る恋。

星乃和花

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第1話 氷室に差し込む午后

 王宮政務棟の地下、石造りの厚い扉に囲まれた作戦室は、いつも冷えている。
 戦況図、交易路、派閥の票読み。盤上の駒を指で弾けば、ひとつ先の凪とその先の荒波が見える。アークト・ヘルムにとって、そこは体温よりも思考が優先される場所だった。

「——港湾派の譲歩案は三行で足りる。余計な修飾を削れ」

 副官ヨナスが小さく返事をしたところで、扉がこん、と無邪気に叩かれた。
 この階層の扉は、だいたい“叩かない”。叩く者は大抵、ここを知らない。

「失礼しま——す? あ、わ……」

 開いた隙間から、陽の匂いがふわりと入り込む。
 薄いエプロンに土色の指先。肩からは草束がのぞき、腕には菓子箱。場違いな、けれど妙に馴染む色彩がひとり分だけ持ち込まれた。

「誰だ」
「王立温室の見習いです。ええと、納品で……。財務監査室は角を曲がってすぐの扉、って言われたんですけど……」

 視線が一斉に彼女へ向かう。作戦室の空気は、それだけで更に冷えたように感じられる。
 ヨナスが眉を上げ、アークトは短く顎を動かした。「続きを」

「は、はい。……でも箱の底に“作戦室へ”って書いてあって。間違ってたら、すみません!」

 彼女は慌てて箱の封紙をぺらりとめくって見せる。確かに、走り書きの炭筆で「作戦室」。
 誰のいたずらだ、とアークトは思ったが、扉の向こうから台車を押す厨房の小姓の顔がのぞく。

「温室からの蜂蜜レモンクッキー、でございます! 厨房が受け取って、監査室経由でって……あれ、ここじゃなかったです?」

 経路が二転三転している。アークトはヨナスに視線をやる。副官は肩をすくめた。
 場違いの箱ひとつで会議は止まった。止まったが、奇妙に刺々しさも止まった。

「アークト参謀、どうされます?」
「開けろ」

 開封の合図を出した自分に、アークトは内心少し驚く。
 ヨナスが手際よく蓋を外すと、丸いクッキーが現れた。焼き色は淡く、表面に角のとれた砂糖がひと筋だけ光る。温室の蜂と柑橘でつくる季節のものだ、と小姓が得意げに付け足した。

 香りが立つ。
 冷えた石の壁に、午後の温度が一滴、落ちたようだった。

「……会議は続ける。各自、手短に取れ」

 配られた一枚を無意識に摘む。口に入れれば、ほろりと崩れて柑橘の酸が追いつき、蜂蜜のやわらかさが後ろから広がる。
 ——舌が、緩む。舌が緩めば、言葉も少しだけ丸くなる。

 港湾派と沿岸警備の摩擦の件は、いつもなら語尾が角張る議題だ。今日に限って、誰も声を尖らせない。
 アークトは、妙だ、と思った。糖分の供給が、これほど露骨に議論の曲率を変えるものか。

「参謀、第二案の文言、三行にまとまりました」
「見せろ」

 ヨナスが差し出した紙は、確かに余白が美しい。アークトはうなずき、即座に承認印を押した。
 視線の端で、入口に立ち尽くしていた見習いが安堵の息をつき、胸の前で小さく両手を合わせるのが見える。

 会議は予定より早く終わった。
 散り始める人々の間を縫って、アークトは彼女の前に立つ。

「温室の見習いと言ったな。名は」
「ソ、ソラナ・ベルです。ソラナで大丈夫です」

 近くで見ると、彼女の瞳は茶色の中に金のそばかすが散っているみたいだ。土の色をした指先は、しかし丁寧に爪が整えられている。
 アークトは自分の言葉が少し遅れるのを感じた。

「この箱の経路は混乱している。誰の指示で作戦室行きになった」
「……わたし、です。監査室の方が難しい顔をされてたので、“甘いものを、冷たい部屋に”って。で、いちばん冷たいって噂の……ここが、作戦室」

 ヨナスがむせた。「噂……」
 アークトはほんのわずか、眉の角度をゆるめた。

「規則としては推奨できない判断だが、結果として会議の効率は上がった。以後は事前通達を通せ」
「通達……わかりました。通達さんは、どこのお部屋にいるんでしょう?」

「通達は人の名ではない」
「あっ、ですよね。ごめんなさい」

 彼女はぺこりと頭を下げ、また箱の縁を抱き直した。その拍子に、袖口から細い傷跡がのぞく。温室の棘か、とアークトは目で追う。

「怪我だ」
「バラの手入れです。ちょっとだけ刺さりました。でも、いい香りでした」

 好きなものに刺されるのは平気、という顔だ。
 なぜか、その言い方がアークトの胸のどこかを軽く叩いた。理屈を探す間もなく、彼は思わぬことを口にしていた。

「……痛まないか」

 自分でも唐突だと思った。
 ソラナはぱちぱちと瞬きをして、彼の顔を覗き込む。彼女の視線は人を値踏みしない。単純に“心配の形”だけをしている。

「参謀こそ、痛みます? 難しい顔をしてたから……」

 そう言うなり、彼女はそっと手を伸ばして、彼のこめかみに人差し指と中指を並べて当てた。
 作戦室の空気が一瞬、止まる。ヨナスが「お、おい」と半歩踏み出すのが見えた。

「こうやって、ちょっとだけ押すと楽になるときありませんか。うちの温室長が、よくしてくれて……」

 柔らかい圧。香りが近い。蜂蜜と柑橘と、外の光の匂い。
 アークトは思わず息をついた。——たしかに、眉間の強張りが少しだけ解ける。

「……砂糖は、こわいほど効く」
「ですよね? でも、効いてよかった」

 彼女は指を離すと、安心したように笑った。
 笑いは、氷の壁を傷つけない。けれど壁の内側だけ、じわりと温度を上げる。

「ソラナ・ベル」
「はい」

「次回からは、王女の許可を——」

「許可なら、いま私が出すわ」

 柔らかくもよく通る声。振り向けば、扉のところにレア王女が立っていた。いつ来た、とヨナスが目を剥く。
 王女は作戦室の空気を一瞥し、蜂蜜と柑橘の香りに目を細める。

「この部屋に必要なのは、言葉を丸くする“温度”よ。作戦室付園芸係、臨時任命。明日から議題前五分、配膳と“温度調律”を担当してちょうだい、ソラナ」
「お、王女さま!? は、はいっ」

 ソラナが慌てて深い礼をする横で、ヨナスが小声で「温度調律……新設職務ですか?」と問う。
 レアは肩をすくめた。

「名付けは後からでもいいわ。大事なのは、皆が早く穏やかに合意点へ辿りつけること。アークト、異論は?」

 アークトは王女とソラナを順に見た。理屈は既に手元にある。臨時任命の権限、作戦室の機密、動線の調整——。
 けれど、こめかみに残る微かな余熱が、反論の言葉の角を、どうにも鈍くする。

「異論は……ない。安全手順は私が整える」

 王女は満足げに頷くと、ソラナに片目をつぶって見せた。「明日、またね」
 扉が閉まる。作戦室は再び静かになった。

 蜂蜜の香りは薄れつつある。それでも、壁は先ほどよりやわらかく見えた。
 ソラナは菓子箱を抱え直し、出入口の方へ二歩、三歩。

 振り返って、彼女は言った。

「参謀。さっきの、押すやつ……痛くなったら、また呼んでくださいね。難しい顔、長いと、しんどいので」

 “難しい顔”。
 軽い言葉が、妙に正確な観測だった。アークトは短くうなずく。

「必要なら、呼ぶ」

 扉が閉まり、足音が遠ざかる。
 ヨナスが机に手をついて、深く息を吐いた。

「参謀、今日の会議、平和的すぎて逆に怖いです」
「糖分の副作用だ。記録に残しておけ」

「記録……“蜂蜜レモンクッキーによる議論曲率の低下”でよろしい?」
「好きに名付けろ」

 アークトは手もとに残った欠片を見た。甘さは、計算しづらい。
 だが、結果は早い。最短で終わった会議。最短で下りた承認印。——そして、ほんの少し長引いた、午後の温度。

 思考の最後尾で、彼は自分でも気づかぬほど小さな疑問符を握りしめる。
 戦の勝ち方はいくつも知っている。だが、今、こめかみに残る指の温度から——どうやって逃げ切ればいいのか、戦略だけが見当たらない。

 氷室に差し込んだ一条の陽は、思った以上にしつこい。
 そして彼は、しつこさにいつも勝ってきたはずなのに、今日は負け続けている気がした。
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