まちがい解呪屋と黒曜の宰相

星乃和花

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第四章 黒曜宰相の自己呪詛

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 黒曜の塔には、目に見えない文字が漂っている。

 政務室の机の上には、数えきれないほどの報告書。
 廊下には、兵士たちの短い命令文。
 そして宰相府の入り口には――人々のため息が、薄いインクのように溜まっていた。

「“どうせうまくいきっこない”……」

 ポポは、宰相府の前に積まれた嘆願書の束を抱えながら、小さく眉を寄せた。

 文字として書かれていない言葉が、紙のまわりにまとわりついて見える。
 政策への不安、変化への怖れ、そして――黒曜宰相そのものへの、不器用な期待。

「宰相さまの甘い策は、危ういって、言われてるみたいですねえ」

 隣で書類を抱える若い役人が、ため息まじりに呟いた。

「“猫と綿あめ”で戦を止めたなんて、聞こえはいいけれど……。
 宰相閣下の“恐ろしさ”まで薄れたとなると、外から舐められるのではないか、って」

「怖い顔、そんなに大事なんですか?」

「さ、さあ……私にはわかりません。ただ……」

 役人は、ちらりとポポを見た。

「宰相閣下が、今まで以上に仕事を抱え込んでいるのは事実です。
 “恐怖の抑止”が弱まったぶん、“中身で納得させる”必要が出てきた、と……」

「……あ、やっぱり、そうなります?」

 ポポは、ぽりぽりと頬をかいた。

 恐怖で黙らせるのは簡単だ。
 でも、納得してもらおうとすると、言葉も手間も倍以上かかる。

 そして、それを一手に引き受けているのは――ほかでもない黒曜宰相だった。

 * * *

「……宰相さま、目の下に“徹夜”っていう文字が見えます」

「そんな文字はない」

 書類の山の向こうから、即答が飛んできた。

 夜更けの執務室。
 窓の外の星は少なく、黒曜の塔の先端だけが、かすかな月光を受けて鈍く光っている。

 机の上には、今度は戦ではなく、内政に関する報告が山積みだった。
 停戦交渉の細かな調整、復興の計画、戦地に残された子猫と綿あめの“その後”の処理。
 どれも、見過ごせないものばかりだ。

「子猫と綿あめの養育費、ちゃんと予算つきました?」

「つけた。軍事費の一部を転用した」

「わあ、可愛い軍事費……」

「言い方を変えるな」

 オルガは眉間を押さえた。

 恐怖戦略が崩壊した今、彼は別のやり方で国を守ろうとしていた。
 数字と計画と制度。
 それらを積み上げて「安心」を作る作業は、恐怖で押さえつけるより、よほど骨が折れる。

「宰相さま、少し休んだほうが……」

「今は手を止められん」

「そう言って、ずっと止めてないじゃないですか」

 ポポは、机の端に湯気の立つカップを置いた。
 香草と薄い果実酒を煮出した、眠りを促す飲み物だ。星型の砂糖菓子がふたつ、ふわふわと浮かんでいる。

「せめて、これだけでも飲んでください」

「甘いものは……」

「甘いものは、心の棘に効きます」

 真剣な顔で言われてしまい、オルガはしばし黙り込んだ。

 指輪が、じり、と熱を持つ。
 その熱が、疲労と混ざって頭の奥に鈍い痛みを広げていた。

「……わかった。一口だけだ」

 観念したようにカップを取ると、ポポはほっと笑った。

 その瞬間、ふらり、とオルガの視界が揺れた。

「閣下!?」

 椅子がきしむ音。
 手が滑り、カップが机の上で小さく音を立てる。

 ポポは慌てて駆け寄り、こぼれそうになった飲み物を支えた。
 星砂糖がひとつ、オルガの手の甲にぽとりと落ちる。

「す、すみません、分量間違えたかも……!」

「違う」

 オルガは、深く息を吐いた。
 瞳の奥に、鋭さとは別種の光が揺れる。

「ただの……頭痛だ。最近、増えている」

「それ、絶対ただのじゃないですよね」

「お前の“ただの”の基準は信用できん」

「宰相さまの“平気だ”も信用できません」

 言い合いながらも、ポポはそっと彼の袖をめくった。

「勝手に触るな」

「見るだけですから」

 露わになった手首は、予想以上に白かった。
 黒曜石の塔に似合う冷たい色。

 その皮膚の下に――
 ポポの目には、薄い黒い文字がびっしりと浮かんで見えた。

「……やっぱり」

 思わず、声が漏れる。

 手首から肘へ、さらにその上へと続く小さな文字の列。
 それは、指輪に刻まれていたものと同じ古代文字だ。

 ただの装飾ではない。
 明らかに、“呪文”として刻まれている。

「触れるな」

 オルガの声が、少しだけ低くなった。

 ポポは、手を止めた。
 けれど、視線は離せない。

 文字たちは、いつもは黒曜石のように硬く冷たいのだろう。
 だが今は疲労のせいか、ところどころ、滲んでいる。

 ――愛されぬことを選べ。
 ――恐れをまとうことで、皆を遠ざけよ。
 ――孤独を受け入れよ、それが国の盾となる。

(ひどい)

 胸の奥が、じくりと痛んだ。

「宰相さま。これ……」

「古い誓約だ」

 オルガは視線を伏せた。

「まだ若かった頃、私が黒曜宰相の座についたときに刻まれた。
 この国を守るため、“個”を捨て、“怪物になる”と誓った印だ」

「誰が、刻んだんですか」

「……“皆”だ」

 短く、苦い笑い。

「当時の王、老獪な先代の宰相、恐れおののきながらも安堵した貴族たち、そして――“守られる側”である民衆の期待も、そこに含まれている」

 ポポは言葉を失った。

 誰か一人が呪ったのではない。
 多くの人の「そうであってほしい」が集まって、ひとつの呪文になった。

 ――宰相は怪物であれ。
 ――代わりに、自分たちは安心して眠りたい。

 その願いが、そのまま彼の皮膚に刻まれている。

「私は、それを……“正しい”と思った」

 オルガは、淡々と続けた。

「誰かが怪物になることで、誰かが眠れるのなら、その方が良い。
 愛されぬことも、孤独も、役目の前では些細な犠牲だと」

「些細じゃないです」

 ポポの言葉は、思ったより強く出た。

「さ、些細じゃないです。全然」

 オルガの瞳が、わずかに揺れる。

 ポポは、震えそうになる手をぎゅっと握りしめた。

「呪文って、言葉を重ねるほど強くなります。
 宰相さまは、ずっとそれを読み直してきたんでしょう? “自分は愛されない”って」

「……読まざるをえなかった」

「でも、それ、最初に書いたのは宰相さまじゃないですよね」

 問いかけに、オルガは息を詰めた。

 ポポはそっと、彼の手首の近くに指を伸ばす。

 文字の中の一つ――
 “愛されぬことを選べ”の、「選べ」の部分が、ほかよりも少し薄い。

(ここだけ、“本心じゃなかった”)

 そう見えた。

「ここ、“選べ”じゃなくて、“そうするしかないと思っていた”、じゃないですか?」

 ポポがそっとなぞると、その一画が、かすかに光った。

 可愛い置換が始まる気配。
 だが――すぐに消える。

 魔法が、途中で弾かれた。

「……やっぱり、だめか」

「どういうことだ」

「“愛されない”のところは、宰相さまが“正しい”って思ってるから、私の魔法が入る余地がありません。
 でも、“選ぶ”って部分は、少しだけ、“ほんとは選びたくなかった”って思ってるから……」

 ポポは、気まずそうに笑った。

「今、一瞬だけ、“誤字かも”って揺れました」

 オルガは、自分の手首を見下ろした。

 刻まれた文字は、相変わらずそこにある。
 ただ、“選べ”の辺りの線が、ほんの少しだけ滑らかになっている気がした。

 怪物になることを“選んだ”のではなく――
 そうするしかないと、追い詰められていた自分。

 その差は、誰にとっても些細かもしれない。
 だが、自分にとっては、あまりにも大きな違いだ。

「……お前は、何でも見透かすな」

「文字が教えてくれるだけです。
 私は、ちょっとだけ声を代弁してるだけで」

 ポポの目は、いつもと同じ優しい色をしていた。

 誰かを責めるでもなく、誰かを英雄に祭り上げるでもなく。
 ただ、「まちがいかもしれないよ」とそっと指さすだけの目。

「でも、“自分は愛されない”ってところは、宰相さまが自分で書き足したように見えます」

 オルガの心臓が、わずかに跳ねた。

(自分で――)

 あの誓約の夜。
 多くの者が、安心しきった顔で彼を見上げていた光景が蘇る。

 “怪物になってくれるのだな”。
 “代わりに死んでくれるのだな”。
 言葉にはされなかったが、そう言われていた。

 その視線を受け止めきれなかった少年の心が、
 “自分は愛されない”と結論づけたのだとしたら――。

「……違う、と言い切れないのが、癪だな」

 オルガは、乾いた笑いを漏らした。

 ポポは、そっとその笑いを受け止める。

「自己呪詛は、自分で書き換えるしかないです。
 でも、一人で全部直さなくてもいいんですよ」

「……どういう意味だ」

「全部を一度に変えようとすると、苦しくて、たぶん続きません。
 だから――」

 ポポは、彼の手首にそっと自分の指を重ねた。

「“愛されない”ってところは、まだそのままでもいいです。
 “選ぶしかなかった”ってところから、小さく直していきましょう」

 静かな沈黙が、二人の間に降りる。

 黒曜の指輪が、ひんやりと冷たくなっていく。
 刻まれた文字のうち、いくつかの線が、ほんの少しだけ丸みを帯びる。

 それは、可愛い置換ではない。
 子猫も綿あめも生まれない。
 ただ、硬さがほんの少し、ほどけただけ。

 けれど、それだけでも――息がしやすくなった。

「宰相さま」

 ポポが、笑った。

「“怪物の役にこだわるのはまちがいだ”って、自分で言いましたよね」

「……言ったな」

「それ、ちゃんと呪文にしておきましょう」

 ポポは机の上の紙を一枚引き寄せ、ペンを取る。

 さらさら、と文字を走らせながら、声に出して読んだ。

「“黒曜宰相オルガは、怪物であることをやめてもいい”」

「勝手に宣言するな」

「でも、そうやって何度も読み返してると、そのうち、“こっちのほうが正しい”って、身体が覚えます」

 ポポは書き終えた紙を、半分に折って、指輪の下にそっと差し込んだ。

「この紙は、宰相さま専用の“上書き用呪文”です。
 まだ読めなくてもいいですから、たまに眺めてあげてください」

 オルガは、しばし黙ってそれを見つめたあと、諦め半分で受け取った。

「……お前にかかると、私の人生まで誤字扱いされそうだ」

「誤字じゃないですよ。
 ただ、ちょっとだけ、“変換候補”を増やしてるだけです」

 ポポの笑顔は、やっぱり柔らかかった。

 自分の中に刻まれた呪文を、完全に否定するのではなく。
 そこに“もしかしたら別の書き方もあるかも”という余白を作ってくれる笑顔。

 黒曜宰相は、深く息を吐いた。

「……今は、“愛されない”ほうが楽だ」

「でしょうねえ」

「期待しないほうが、裏切られなくて済む」

「でしょうねえ」

「それでも――」

 オルガは、窓の外の夜を見た。

 塔の下では、広場の灯りがまだ細々と瞬いている。
 戦地から来た子猫たちの鳴き声も、遠くかすかに聞こえた。

「それでも、完全にそうであってほしいと、思っているわけではない」

 自分でも驚くほど、正直な言葉が、口からこぼれた。

 ポポは、ゆっくりと頷いた。

「それなら、大丈夫です」

「何が大丈夫だ」

「“完全にそうであってほしいわけじゃない”って気づいてる自己呪詛は、いずれ、まちがいに変わります」

 彼女は、自分の胸のあたりを指差した。

「私の中にも、“私が関わると”っていう呪いがいます。
 でも、宰相さまが生きてるかぎり、それ、まちがいにできます」

「……私が、生きているかぎり?」

「はい。
 こっちも、勝手に上書き呪文、発動させましたから」

 ポポは冗談めかして笑った。
 その笑いの奥に、ほんの少し本気が混じっていることに、オルガは気づいてしまう。

(……厄介な解呪屋を雇ったものだ)

 そう思いながらも、指輪の重みは、さきほどよりわずかに軽い。

 刻まれた自己呪詛――
 “自分は愛されない”の文字は、まだそこにある。

 消えてはいない。
 彼の中心に、どっしりと居座り続けている。

 けれど、その周囲に、かすかな余白ができた。

 いつかそこに、別の言葉が書き足されるかもしれないという、まだ名前のない予感。

 黒曜の塔の夜は、相変わらず深い。
 だが、その闇の中にひとつ、星のような小さな“まる”が灯っていることを、オルガはほんの少しだけ、認めてもいいと思った。

 それが、まちがい解呪屋ポポにとっては、何よりの進展であることを、まだ知らないまま。
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