15 / 16
第十四章 黒曜宰相のひとりごと案件
しおりを挟む
その日のまちがい後始末課は、めずらしく静かだった。
市役所からの「貼り紙の言い回し」、商人たちからの「値上げ文面」、
それから軍務局との「必要な犠牲注釈つき命令書セット」も、
いったん棚に並び終わっている。
「……ひとまず、“人のまちがい”は今日の分、片づきましたね」
ポポが、インクで汚れた指先を眺めながら、ふうっと息を吐いた。
「“今日の分”と考えるあたり、底なしに増える前提だな」
オルガは、黒曜塔の窓から外を見やった。
夕暮れ。
城下に灯がともり始め、塔の屋根の上には、猫が三匹ほど影を重ねている。
「まちがいって、息をするみたいに出てきますから」
「不吉な喩えだ」
「でも、それを“直してもいい”って思える場所ができただけで、だいぶ世界がやわらかくなりましたよ」
ポポは、まちがい後始末課の看板を指さす。
――黒曜塔 まちがい後始末課。
星と猫と綿あめのイラストは、すっかり黒曜塔の風景の一部になっていた。
* * *
そのときだった。
――コトリ。
机の上に置いてあった古い鍵が、ひとりでに揺れて、床に落ちた。
「あ」
ポポが思わず声を上げる。
鍵は、古びた銀色で、先端に小さな黒曜石がはめ込まれている。
「……懐かしい音だな」
オルガが、視線を落とした。
「それ、何の鍵ですか?」
「私の部屋の、古い書庫だ」
黒曜塔の一番上。
人があまり近づかない、黒曜宰相専用の書庫。
「まちがい後始末課ができる前は、“まちがいを見たくなくなった書類”を全部そこに放り込んでいた」
「正式に“見たくなかったフォルダ”あるんですね」
「勝手にフォルダ扱いするな」
オルガは、鍵を拾い上げて少し見つめた。
黒曜石の部分に、かすかなひびが入っている。
最近までずっと使われていなかった証拠だ。
「……宰相さま」
ポポは、鍵とオルガの顔を交互に見た。
「もしかしなくても、それ、今日の“まちがい案件”ですよね」
「嫌なところだけ勘が鋭いな」
「まちがいセンサーですから」
ポポの目には、鍵のまわりに薄くまとわりつく文字が見えていた。
――後回し。
――あとで。
――今じゃない。
――ふたを閉めておけ。
そして、その文字の奥に、もっと重たい一行。
――ここだけは開けるな。
(……自己呪詛の匂いがする)
ポポは、喉の奥で唾を飲み込んだ。
* * *
「行くのか、行かないのか」
ラザンの声が聞こえたような気がしたが、今日はラザンはいない。
代わりに、窓辺の猫がじっとこちらを見ている。
――行け。
――とりあえず行け。
――中身を読むかどうかは、そのあと決めろ。
猫の視線は、だいたいそんなことを言っているようだ。
「……どうします?」
ポポがそっと訊ねる。
オルガは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと。
「“国のまちがい”は、皆と一緒に見ると決めた」
「はい」
「だが、“私個人のまちがい”は――」
黒曜指輪が、かすかに光る。
「まずは、私一人で見なければならない」
その言葉に、ポポの胸が、きゅっと締めつけられた。
(そうだ。ここから先は、宰相さま自身しか解けない)
最初からわかっていたことだ。
“自分は愛されない”という自己呪詛だけは、本人の手でしか書き換えられない。
「……でも、一人きりで見なくちゃいけない、ってことでもないと思います」
ポポは、ゆっくりと言った。
「宰相さまが中身を見るとき、
私は隣の部屋で、猫と一緒にお茶飲んでていいですか?」
「何だ、その半分だけ一緒にいる案は」
「“一人で向き合う”と“ひとりぼっちでいる”は、別物なので」
ポポは、少し笑う。
「扉の向こうに誰かいるってだけで、“全部飲み込まなくちゃ”って呪文、ちょっと弱くなりますから」
オルガは、短く息を吐いた。
「……お前は、本当に、呪文の隙間を見つけるのがうまいな」
「仕事ですので」
「仕事の範疇が広すぎる」
それでも、否定はされなかった。
* * *
黒曜塔の最上階。
長い螺旋階段を上り切った先に、その書庫はあった。
厚い扉。
黒曜の装飾。
かつて“黒曜の怪物”の名のもとに集められた、ありとあらゆる文書や記録。
ポポは、扉の前で立ち止まった。
「ここから先は、宰相さまの領分です」
「お前はどうする」
「ここで見張ってます。
扉の前で、猫と、“お帰りなさい待機”します」
「……帰ってこなかったらどうする」
「扉、叩き割ります」
「やめろ」
でも、とポポは続けた。
「本当に苦しくなったら、ちゃんと呼んでくださいね。
“呼んだ時点で、一人で向き合った”ことには変わりませんから」
オルガは、扉に鍵を差し込みながら、ふっと笑った。
「……お前は、本当にうるさいな」
「褒め言葉ですよね」
「どう受け取っても構わん」
鍵が回る音。
重い扉が、ゆっくりと開いた。
* * *
書庫の空気は、ひんやりとして、少し湿っていた。
高い棚に、ぎっしりと並ぶ箱と巻物。
そのほとんどには、“戦略機密”“外交記録”といったラベルが貼られている。
だが、部屋の一番奥。
誰も手を伸ばさない高さの棚に、小さな箱がひとつだけ置かれていた。
色褪せた箱。
封蝋の紋章は、今の黒曜宰相のものではない。
もっと粗く、どこか拙い印。
側面には、手書きの文字がある。
――オルガ・レーヴェ八歳。
――勝手にひらいたらだめ。
「……」
黒曜宰相は、一瞬、完全に固まった。
「八歳の私よ。
どうして将来の私にまで命令を飛ばしてくるのだ」
小さく呟いた声は、書庫の天井に吸い込まれていった。
箱の周りには、小さな文字が渦を巻いている。
――ひらくな。
――みるな。
――ばれたらおわり。
――だれにもしられたくない。
だが、そのさらに奥に、ごく小さく。
――ほんとは、だれかにみつけてほしい。
オルガは、そっと箱を手に取った。
封蝋は、時間が経ちすぎて、端が少し欠けている。
“八歳の自分”が震える手で押した印が、そのまま残っている。
「……まちがい後始末課・特別案件だな」
誰にともなくそう言って、
オルガは、箱の封に指を当てた。
黒曜指輪が、静かに熱を帯びる。
――ぱきん。
幼い自分がつけた封蝋が、音を立てて割れた。
箱の中には、数枚の紙と、古いリボンが入っていた。
一枚目の紙は、滲んだインクで、こう書かれている。
――おとうさん おかあさんへ。
オルガは、息を止めた。
* * *
書庫の外。
ポポは、扉にもたれて座り込み、猫を膝に乗せていた。
静かだ。
中からは、まだ何の物音もしない。
(……緊張してるなあ、宰相さま)
ポポは、自分の胸も、少しだけどきどきしているのを自覚した。
“国の命令書”よりも、“八歳の自分の手紙”のほうが怖い。
そういうことは、確かにある。
「……」
猫が、ポポの膝の上で丸くなりながら、扉のほうを見た。
――ちゃんとここにいるから。
――時間かかってもいいから。
そんな目をしている。
「ありがとうね」
ポポは、猫の背を撫でた。
「宰相さまの“自己呪詛”は、きっとここからつながってる」
“自分は愛されない”。
その呪文は、おそらく戦場で生まれたものではない。
もっとずっと前。
まだ“怪物”になる前の、小さな男の子のところに、その原型があるはずだ。
* * *
書庫の中。
オルガは、震える手で、紙を開いた。
――おとうさん おかあさんへ。
――ぼくは いいこにしているので しごとをやめてください。
――ぼくが いなくても いいなら いなくなります。
――だから けんかをしないでください。
文字は、ところどころインクがにじんでいた。
書いている途中で、涙が落ちた跡だ。
オルガの脳裏に、断片的な光景がよみがえる。
忙しすぎる父。
いつもどこかに出かけている母。
家の中の空白を、仕事や勉強で埋めようとした幼い自分。
そして、ある夜、扉の向こうから聞こえてきた言葉。
――「あの子のために、私はどれだけのものを捨てたと思っているの」。
――「お前が勝手に産んだんだろう」。
床に座り込んだまま、息を殺して聞いていた小さな自分。
手には、書きかけの手紙。
――ぼくが いなくても いいなら いなくなります。
「……」
喉の奥に、重たいものが引っかかる。
黒曜宰相の肩から、力がすとんと抜けていった。
(そうだ。私は、あの夜、自分で自分に呪文をかけた)
――自分は、愛されていない。
――だから、いなくなった方がいい。
その呪文は、親ではなく、八歳の自分自身が書いたものだ。
「……まちがいだ」
かすれた声が漏れた。
「そんなことは、どこにも書いていないのに」
父も、母も、その夜、彼を見つけられなかった。
手紙は、箱に入れて書庫の隅に押し込まれた。
その代わりに、“良い子でいること”“役に立つこと”が、
“生きていていい条件”として、彼の中に居座り続けた。
「愛されぬことを選べ、か」
黒曜指輪に刻んだ言葉は、
“八歳の自分の呪文”の延長線上にあったのだと、ようやくはっきりわかる。
――役に立て。
――怪物になれ。
――誰かのために、自分を消せ。
そうしていれば、“いなくなります”と書いた自分を、
何とか正当化できると信じていた。
「……八歳の私よ」
オルガは、古い紙をそっと膝の上に置いた。
「お前が書いた呪文の後始末を、
四十手前の私がすることになった」
声は、冗談とも、本気ともつかない調子だった。
けれど、その中には、確かな決意が混じっている。
黒曜宰相は、ゆっくりとペンを取った。
――おとうさん おかあさんへ。
その下に、追加の一行を書く。
――おとなになったぼくより。
そして、“いなくなります”と書かれた行に、線を引いた。
決して、破り捨てない。
ただ、“まちがいでした”という印をつける。
行の端に、小さな文字を足す。
――“いなくなりません”。
――“いなくならなくてもいいです”。
黒曜指輪が、熱を帯びた。
――愛されぬことを選べ。
と刻まれていた文字の一部が、ぴきり、と音を立ててひび割れる。
代わりに、新しい線が刻まれていく。
――愛されなかったと思い込んだ子どもに、
――今からでも、まちがいでしたと言ってやること。
「……まちがい後始末課・案件、特別編だな」
オルガは、小さく笑った。
戦の命令書ではない。
国の決議でもない。
ただ一人の、八歳の少年の書いた手紙。
その誤字(ごじ)と誤解(ごかい)を、
四十手前の自分が、ようやく訂正し始めたのだ。
* * *
書庫の扉が、きぃ、と音を立てて開いた。
ポポは、ぱっと立ち上がる。
「おかえりなさい、宰相さま」
オルガは、少しだけ目を赤くしていた。
だが、足取りはしっかりしている。
「ただいま」
短い言葉。
その一言が、この塔ではじめて発せられたような気がして、
ポポの胸がじわっと熱くなった。
「……開けました?」
「ああ」
「まちがい、ありました?」
「山ほどだ」
オルガは、ポポに小さな紙を一枚見せた。
そこには、拙い字と、大人の字が並んでいる。
――ぼくが いなくても いいなら いなくなります。
(←まちがいでした。いなくならなくてもいいです)
ポポの目が、ぽろりと潤んだ。
「……それ、“まちがい後始末課・最重要案件”ですね」
「まだ、途中だ」
オルガは、静かに言った。
「親にこの手紙を見せるかどうかも、
誰かに話すかどうかも、まだ決めていない」
「はい」
「だが、“いなくなります”に線を引いたところまでは、終わった」
それは、“自分の存在をまちがい扱いする呪文”の、一番根っこの部分だ。
ポポは、深くうなずいた。
「……宰相さま」
「何だ」
「“愛されなかった”って思い込んでる子どもに、“まちがいでした”って言うの、
めちゃくちゃ優しいまちがい後始末です」
「そうか?」
「はい。怪物じゃなくて、やさしいおとなの仕事です」
オルガは、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
黒曜指輪の文字は、こう変わっていた。
――愛されぬことを選べ。
という行は、薄くなり。
その下に。
――愛されなかったと思い込んだ自分を、
――それでもここにいていいと言い続けること。
という、長くて不格好な文字列が、にょろりと居座っている。
「……自分で自分に呪文をかけたのなら、
自分で自分に、解除の呪文もかけられるはずだ」
オルガは、ぽつりと言った。
「時間はかかるだろうがな」
「大丈夫です。
そのあいだ、まちがい後始末課は営業してますから」
ポポは、にっこり笑った。
「宰相さまが“いなくなりません”って決めてくれれば、
“まだ途中の怪物さま案件”は、ずっと受付中です」
「受付中という表現をやめろ」
黒曜塔の窓の外では、猫たちが静かに丸くなっている。
“黒曜の怪物”と呼ばれてきた男が、
自分自身の八歳のまちがいとようやく向き合った夜。
まちがい後始末課の灯りは、いつもより少しだけ温かく、
そして、塔の石壁には、“いなくなります”という文字の代わりに、
“ただいま”という新しい一言が、静かに染み込んでいったのだった。
市役所からの「貼り紙の言い回し」、商人たちからの「値上げ文面」、
それから軍務局との「必要な犠牲注釈つき命令書セット」も、
いったん棚に並び終わっている。
「……ひとまず、“人のまちがい”は今日の分、片づきましたね」
ポポが、インクで汚れた指先を眺めながら、ふうっと息を吐いた。
「“今日の分”と考えるあたり、底なしに増える前提だな」
オルガは、黒曜塔の窓から外を見やった。
夕暮れ。
城下に灯がともり始め、塔の屋根の上には、猫が三匹ほど影を重ねている。
「まちがいって、息をするみたいに出てきますから」
「不吉な喩えだ」
「でも、それを“直してもいい”って思える場所ができただけで、だいぶ世界がやわらかくなりましたよ」
ポポは、まちがい後始末課の看板を指さす。
――黒曜塔 まちがい後始末課。
星と猫と綿あめのイラストは、すっかり黒曜塔の風景の一部になっていた。
* * *
そのときだった。
――コトリ。
机の上に置いてあった古い鍵が、ひとりでに揺れて、床に落ちた。
「あ」
ポポが思わず声を上げる。
鍵は、古びた銀色で、先端に小さな黒曜石がはめ込まれている。
「……懐かしい音だな」
オルガが、視線を落とした。
「それ、何の鍵ですか?」
「私の部屋の、古い書庫だ」
黒曜塔の一番上。
人があまり近づかない、黒曜宰相専用の書庫。
「まちがい後始末課ができる前は、“まちがいを見たくなくなった書類”を全部そこに放り込んでいた」
「正式に“見たくなかったフォルダ”あるんですね」
「勝手にフォルダ扱いするな」
オルガは、鍵を拾い上げて少し見つめた。
黒曜石の部分に、かすかなひびが入っている。
最近までずっと使われていなかった証拠だ。
「……宰相さま」
ポポは、鍵とオルガの顔を交互に見た。
「もしかしなくても、それ、今日の“まちがい案件”ですよね」
「嫌なところだけ勘が鋭いな」
「まちがいセンサーですから」
ポポの目には、鍵のまわりに薄くまとわりつく文字が見えていた。
――後回し。
――あとで。
――今じゃない。
――ふたを閉めておけ。
そして、その文字の奥に、もっと重たい一行。
――ここだけは開けるな。
(……自己呪詛の匂いがする)
ポポは、喉の奥で唾を飲み込んだ。
* * *
「行くのか、行かないのか」
ラザンの声が聞こえたような気がしたが、今日はラザンはいない。
代わりに、窓辺の猫がじっとこちらを見ている。
――行け。
――とりあえず行け。
――中身を読むかどうかは、そのあと決めろ。
猫の視線は、だいたいそんなことを言っているようだ。
「……どうします?」
ポポがそっと訊ねる。
オルガは、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと。
「“国のまちがい”は、皆と一緒に見ると決めた」
「はい」
「だが、“私個人のまちがい”は――」
黒曜指輪が、かすかに光る。
「まずは、私一人で見なければならない」
その言葉に、ポポの胸が、きゅっと締めつけられた。
(そうだ。ここから先は、宰相さま自身しか解けない)
最初からわかっていたことだ。
“自分は愛されない”という自己呪詛だけは、本人の手でしか書き換えられない。
「……でも、一人きりで見なくちゃいけない、ってことでもないと思います」
ポポは、ゆっくりと言った。
「宰相さまが中身を見るとき、
私は隣の部屋で、猫と一緒にお茶飲んでていいですか?」
「何だ、その半分だけ一緒にいる案は」
「“一人で向き合う”と“ひとりぼっちでいる”は、別物なので」
ポポは、少し笑う。
「扉の向こうに誰かいるってだけで、“全部飲み込まなくちゃ”って呪文、ちょっと弱くなりますから」
オルガは、短く息を吐いた。
「……お前は、本当に、呪文の隙間を見つけるのがうまいな」
「仕事ですので」
「仕事の範疇が広すぎる」
それでも、否定はされなかった。
* * *
黒曜塔の最上階。
長い螺旋階段を上り切った先に、その書庫はあった。
厚い扉。
黒曜の装飾。
かつて“黒曜の怪物”の名のもとに集められた、ありとあらゆる文書や記録。
ポポは、扉の前で立ち止まった。
「ここから先は、宰相さまの領分です」
「お前はどうする」
「ここで見張ってます。
扉の前で、猫と、“お帰りなさい待機”します」
「……帰ってこなかったらどうする」
「扉、叩き割ります」
「やめろ」
でも、とポポは続けた。
「本当に苦しくなったら、ちゃんと呼んでくださいね。
“呼んだ時点で、一人で向き合った”ことには変わりませんから」
オルガは、扉に鍵を差し込みながら、ふっと笑った。
「……お前は、本当にうるさいな」
「褒め言葉ですよね」
「どう受け取っても構わん」
鍵が回る音。
重い扉が、ゆっくりと開いた。
* * *
書庫の空気は、ひんやりとして、少し湿っていた。
高い棚に、ぎっしりと並ぶ箱と巻物。
そのほとんどには、“戦略機密”“外交記録”といったラベルが貼られている。
だが、部屋の一番奥。
誰も手を伸ばさない高さの棚に、小さな箱がひとつだけ置かれていた。
色褪せた箱。
封蝋の紋章は、今の黒曜宰相のものではない。
もっと粗く、どこか拙い印。
側面には、手書きの文字がある。
――オルガ・レーヴェ八歳。
――勝手にひらいたらだめ。
「……」
黒曜宰相は、一瞬、完全に固まった。
「八歳の私よ。
どうして将来の私にまで命令を飛ばしてくるのだ」
小さく呟いた声は、書庫の天井に吸い込まれていった。
箱の周りには、小さな文字が渦を巻いている。
――ひらくな。
――みるな。
――ばれたらおわり。
――だれにもしられたくない。
だが、そのさらに奥に、ごく小さく。
――ほんとは、だれかにみつけてほしい。
オルガは、そっと箱を手に取った。
封蝋は、時間が経ちすぎて、端が少し欠けている。
“八歳の自分”が震える手で押した印が、そのまま残っている。
「……まちがい後始末課・特別案件だな」
誰にともなくそう言って、
オルガは、箱の封に指を当てた。
黒曜指輪が、静かに熱を帯びる。
――ぱきん。
幼い自分がつけた封蝋が、音を立てて割れた。
箱の中には、数枚の紙と、古いリボンが入っていた。
一枚目の紙は、滲んだインクで、こう書かれている。
――おとうさん おかあさんへ。
オルガは、息を止めた。
* * *
書庫の外。
ポポは、扉にもたれて座り込み、猫を膝に乗せていた。
静かだ。
中からは、まだ何の物音もしない。
(……緊張してるなあ、宰相さま)
ポポは、自分の胸も、少しだけどきどきしているのを自覚した。
“国の命令書”よりも、“八歳の自分の手紙”のほうが怖い。
そういうことは、確かにある。
「……」
猫が、ポポの膝の上で丸くなりながら、扉のほうを見た。
――ちゃんとここにいるから。
――時間かかってもいいから。
そんな目をしている。
「ありがとうね」
ポポは、猫の背を撫でた。
「宰相さまの“自己呪詛”は、きっとここからつながってる」
“自分は愛されない”。
その呪文は、おそらく戦場で生まれたものではない。
もっとずっと前。
まだ“怪物”になる前の、小さな男の子のところに、その原型があるはずだ。
* * *
書庫の中。
オルガは、震える手で、紙を開いた。
――おとうさん おかあさんへ。
――ぼくは いいこにしているので しごとをやめてください。
――ぼくが いなくても いいなら いなくなります。
――だから けんかをしないでください。
文字は、ところどころインクがにじんでいた。
書いている途中で、涙が落ちた跡だ。
オルガの脳裏に、断片的な光景がよみがえる。
忙しすぎる父。
いつもどこかに出かけている母。
家の中の空白を、仕事や勉強で埋めようとした幼い自分。
そして、ある夜、扉の向こうから聞こえてきた言葉。
――「あの子のために、私はどれだけのものを捨てたと思っているの」。
――「お前が勝手に産んだんだろう」。
床に座り込んだまま、息を殺して聞いていた小さな自分。
手には、書きかけの手紙。
――ぼくが いなくても いいなら いなくなります。
「……」
喉の奥に、重たいものが引っかかる。
黒曜宰相の肩から、力がすとんと抜けていった。
(そうだ。私は、あの夜、自分で自分に呪文をかけた)
――自分は、愛されていない。
――だから、いなくなった方がいい。
その呪文は、親ではなく、八歳の自分自身が書いたものだ。
「……まちがいだ」
かすれた声が漏れた。
「そんなことは、どこにも書いていないのに」
父も、母も、その夜、彼を見つけられなかった。
手紙は、箱に入れて書庫の隅に押し込まれた。
その代わりに、“良い子でいること”“役に立つこと”が、
“生きていていい条件”として、彼の中に居座り続けた。
「愛されぬことを選べ、か」
黒曜指輪に刻んだ言葉は、
“八歳の自分の呪文”の延長線上にあったのだと、ようやくはっきりわかる。
――役に立て。
――怪物になれ。
――誰かのために、自分を消せ。
そうしていれば、“いなくなります”と書いた自分を、
何とか正当化できると信じていた。
「……八歳の私よ」
オルガは、古い紙をそっと膝の上に置いた。
「お前が書いた呪文の後始末を、
四十手前の私がすることになった」
声は、冗談とも、本気ともつかない調子だった。
けれど、その中には、確かな決意が混じっている。
黒曜宰相は、ゆっくりとペンを取った。
――おとうさん おかあさんへ。
その下に、追加の一行を書く。
――おとなになったぼくより。
そして、“いなくなります”と書かれた行に、線を引いた。
決して、破り捨てない。
ただ、“まちがいでした”という印をつける。
行の端に、小さな文字を足す。
――“いなくなりません”。
――“いなくならなくてもいいです”。
黒曜指輪が、熱を帯びた。
――愛されぬことを選べ。
と刻まれていた文字の一部が、ぴきり、と音を立ててひび割れる。
代わりに、新しい線が刻まれていく。
――愛されなかったと思い込んだ子どもに、
――今からでも、まちがいでしたと言ってやること。
「……まちがい後始末課・案件、特別編だな」
オルガは、小さく笑った。
戦の命令書ではない。
国の決議でもない。
ただ一人の、八歳の少年の書いた手紙。
その誤字(ごじ)と誤解(ごかい)を、
四十手前の自分が、ようやく訂正し始めたのだ。
* * *
書庫の扉が、きぃ、と音を立てて開いた。
ポポは、ぱっと立ち上がる。
「おかえりなさい、宰相さま」
オルガは、少しだけ目を赤くしていた。
だが、足取りはしっかりしている。
「ただいま」
短い言葉。
その一言が、この塔ではじめて発せられたような気がして、
ポポの胸がじわっと熱くなった。
「……開けました?」
「ああ」
「まちがい、ありました?」
「山ほどだ」
オルガは、ポポに小さな紙を一枚見せた。
そこには、拙い字と、大人の字が並んでいる。
――ぼくが いなくても いいなら いなくなります。
(←まちがいでした。いなくならなくてもいいです)
ポポの目が、ぽろりと潤んだ。
「……それ、“まちがい後始末課・最重要案件”ですね」
「まだ、途中だ」
オルガは、静かに言った。
「親にこの手紙を見せるかどうかも、
誰かに話すかどうかも、まだ決めていない」
「はい」
「だが、“いなくなります”に線を引いたところまでは、終わった」
それは、“自分の存在をまちがい扱いする呪文”の、一番根っこの部分だ。
ポポは、深くうなずいた。
「……宰相さま」
「何だ」
「“愛されなかった”って思い込んでる子どもに、“まちがいでした”って言うの、
めちゃくちゃ優しいまちがい後始末です」
「そうか?」
「はい。怪物じゃなくて、やさしいおとなの仕事です」
オルガは、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
黒曜指輪の文字は、こう変わっていた。
――愛されぬことを選べ。
という行は、薄くなり。
その下に。
――愛されなかったと思い込んだ自分を、
――それでもここにいていいと言い続けること。
という、長くて不格好な文字列が、にょろりと居座っている。
「……自分で自分に呪文をかけたのなら、
自分で自分に、解除の呪文もかけられるはずだ」
オルガは、ぽつりと言った。
「時間はかかるだろうがな」
「大丈夫です。
そのあいだ、まちがい後始末課は営業してますから」
ポポは、にっこり笑った。
「宰相さまが“いなくなりません”って決めてくれれば、
“まだ途中の怪物さま案件”は、ずっと受付中です」
「受付中という表現をやめろ」
黒曜塔の窓の外では、猫たちが静かに丸くなっている。
“黒曜の怪物”と呼ばれてきた男が、
自分自身の八歳のまちがいとようやく向き合った夜。
まちがい後始末課の灯りは、いつもより少しだけ温かく、
そして、塔の石壁には、“いなくなります”という文字の代わりに、
“ただいま”という新しい一言が、静かに染み込んでいったのだった。
0
あなたにおすすめの小説
『階段対策会議(※恋愛)――年上騎士団長の健康管理が過剰です』
星乃和花
恋愛
【完結済:全9話】
経理兼給仕のクラリスは、騎士団で働くただの事務員――のはずだった。
なのに、年上で情緒に欠ける騎士団長グラントにある日突然こう言われる。
「君は転倒する可能性がある。――健康管理対象にする」
階段対策会議、動線の変更、手をつなぐのは転倒防止、ストール支給は防寒対策。
全部合理的、全部正しい。……正しいはずなのに!
「頬が赤い。必要だ」
「君を、大事にしたい」
真顔で“強い言葉”を投下してくる団長に、乙女心を隠すクラリスの心拍数は業務超過。
さらに副団長ローレンは胃薬片手に「恋は会議にするな!!」と絶叫中!?
これは健康管理?それとも恋愛?
――答え合わせの前に、まず“階段(概念)“をご確認ください。
世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない
二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。
ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。
当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。
――君の××××、触らせてもらえないだろうか?
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる