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第一話 行き倒れの君、ようこそ廃屋へ
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山の朝は、音が軽い。
鳥の声も、風の擦れる音も、パンッと割れた板壁がきしむ音でさえ、どこか明るい。
アデライン・フロレット――通称アデラは、斜面に落ちている大きな荷物を見つけた。
荷物は、人だった。
「わ、寝てる。……いや、倒れてる?」
耳元で呼吸を確かめ、額に手を当てる。熱っぽい。薄い鎧の名残りと、旅塵。
彼女は腕まくりをした。
「木材より軽い。いける」
「……人を資材と比べないで」
微かに目を開けた男が、正しいツッコミをした。偉い。
「起きた! よかった。話はあとにして、うち来る? 近いから」
「“うち”は、どの程度の“うち”?」
「廃屋。いま、育ち盛り」
「……成長期?」
アデラは彼をひょいと肩に担ぎ、もう片手で拾った鍋と枝を器用にまとめると、山道を登った。足取りは鹿より軽い。本人は令嬢のつもりだが、目撃した小動物たちが“新手の山の生き物”として会議を開いても不思議ではない。
◇
廃屋は、確かに育ち盛りだった。
屋根はところどころ空の色で、壁は風景に融け、玄関は“理解のある者だけが通れる”角度に歪んでいる。
「ただいまー。お客さん一名、命あり」
「家に声かけるタイプ……」
アデラは男を、板を二枚重ねて干し草をのせただけの“寝台”にそっと下ろした。
焚き火台に火を起こし、薬草を刻んで鍋に放り込む。山菜と、持ち帰った少量の麦。ぐつぐつと、安心の音が広がった。
「名前、言える?」
「……エリオット・アルデン。エリでいい」
「わたしはアデライン。アデラで。“木材より軽いエリさん”ね」
「肩書の選び方に悪意がある」
エリは半身を起こそうとして、体の悲鳴に顔をしかめた。アデラが慌てて背中に腕を回す。
「まだ寝てて。はい、薬草粥。苦いけど、元気になるやつ。サビーネおばあちゃん印」
「薬草師の……?」
「うん、下の村の。『若いのに山で独りは物好きだねぇ』って褒められた」
「褒められてはいない気がする」
湯気の向こうで、アデラはにこにこしていた。
可憐な顔立ち。だが動きは野性味に満ち、重い鍋を片手で揺らす様は“家事”というより“訓練”に近い。
エリは椀を受け取り、ひと口。
草の苦みの直後に、塩気と麦の甘みが追いかけてくる。意外なほど、やさしい味だった。
「……うまい」
「やった。あ、でも食べすぎると眠くなるから半分ね。残りはわたし」
「人の分量を正しく盗るな」
椀を置くと、エリはしばし天井を見上げた。
見上げた先に、空があった。屋根の穴から、薄い雲が流れていく。
「まず、その穴を塞ぎたい」
「同意。夜、流れ星が落ちてくるかもしれないし」
「落ちない。ていうか、落ちてきたら屋根では防げない」
「そっかぁ……怖い。雷もこわい」
アデラが小さく肩をすくめるのを見て、エリは何か言いかけ、言葉を飲み込んだ。
かわりに、淡い息を吐いて笑う。
「恩返しがしたい。体が戻ったら、屋根、壁、なんでもやる。俺、鍛錬だけは真面目だったから、力はある」
「じゃあ決まり。家のために結婚――じゃなくて、修繕から」
「今、さらっと重大なワードを挟んだよね? 順番の概念を尊重しよう」
「順番……? じゃあ、屋根、壁、床、結婚?」
「床と結婚の間に百歩くらい挟もう」
アデラは「ふむ」と真剣に頷き、板切れと炭を持ってきた。
板に、さらさらと何かを書き始める。
「なにそれ」
「標語。作業用」
板にはこう書かれた――
《安全標語 第一条:まず生きる。次に直す。》
「……正解すぎて反応に困る」
「書いたら守れる気がするんだよね。じゃ、第二条」
アデラは追記した。
《第二条:流れ星は見ない。避ける。》
「“見ない”と“避ける”は両立しないのでは」
「見ないつもりで避ける。気持ちの問題」
気持ちの問題。
その言葉が、意外と胸に刺さった。
戦場から逃げた自分。
逃げた、という言い方以外があるだろうか、と何度も思ってきたのに。
エリは小さく咳払いして、標語板を受け取った。
「……なら、第三条は俺が書く」
炭を握る指は、きちんとした字を書く。
《第三条:危ないと思ったら“いったん止める”。》
「わぁ、賢い」
「賢いは褒め言葉でいいのかな」
標語板を壁に立てかけると、廃屋が少しだけ“家”に寄った気がした。
アデラは満足げに、歪んだ窓辺のハーブ束を揺らす。
爽やかな香りが、ほつれた空気を縫い合わせる。
「エリ、寝てていいよ。昼まで寝て、目が覚めたら、屋根の穴を数えよう」
「数えるのは計画に役立つ。……でも、数えるだけ?」
「今日はね。明日から直す。わたし、釘と縄、村で買ってくる」
「付き添う。ひとりで下山は危ない」
「大丈夫。危険は“見るより避ける”から」
「危ない思想が体系化されていくのを目の当たりにしている」
しばらく、他愛ない会話をした。
名前のこと。呼び方のこと。
アデラは「じゃあ、エリで」と即決し、エリは「アデラ」と丁寧に呼んだ。
そのたびに、アデラの耳がほんのり色づいた。彼女は雷には強くないが、褒め言葉にも案外弱いのだ。
風がふっと変わり、天井の穴から雲が流れ、光が床に四角く落ちた。
エリは目を細め、体を横たえる。疲労は骨まで染みているのに、ここは不思議と、眠れる。
「……アデラ」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう」
「うん。助けた。じゃあ、直してね。屋根」
「恩返しの内容が具体的だ」
「具体的は安心、ってサビーネおばあちゃんが言ってた。わたし、安心が好き。雷は嫌い」
「雷の話題を一定間隔で挟むのやめようか」
アデラは笑った。
彼女の笑いは、かすれた板壁にも、焦げた床にも、優しく染み込む。
「じゃあ、雷が鳴ったら――抱きしめてくれる?」
「……交渉が早い」
「安心が好きなので」
エリは短くため息をつき、それから真面目に頷いた。
「鳴ったら、抱きしめる。鳴らなくても、まずは屋根を直す」
「いい順番!」
アデラが親指を立てる。
エリは思わず笑って、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思う。
逃げたのではないのかもしれない。
ここに、直すべき屋根があって――隣に、笑う人がいる。
外では、薄雲がちぎれ、光が広がる。
廃屋は、育ち盛り。
二人の暮らしも、今日、立ち上がったばかりだ。
鳥の声も、風の擦れる音も、パンッと割れた板壁がきしむ音でさえ、どこか明るい。
アデライン・フロレット――通称アデラは、斜面に落ちている大きな荷物を見つけた。
荷物は、人だった。
「わ、寝てる。……いや、倒れてる?」
耳元で呼吸を確かめ、額に手を当てる。熱っぽい。薄い鎧の名残りと、旅塵。
彼女は腕まくりをした。
「木材より軽い。いける」
「……人を資材と比べないで」
微かに目を開けた男が、正しいツッコミをした。偉い。
「起きた! よかった。話はあとにして、うち来る? 近いから」
「“うち”は、どの程度の“うち”?」
「廃屋。いま、育ち盛り」
「……成長期?」
アデラは彼をひょいと肩に担ぎ、もう片手で拾った鍋と枝を器用にまとめると、山道を登った。足取りは鹿より軽い。本人は令嬢のつもりだが、目撃した小動物たちが“新手の山の生き物”として会議を開いても不思議ではない。
◇
廃屋は、確かに育ち盛りだった。
屋根はところどころ空の色で、壁は風景に融け、玄関は“理解のある者だけが通れる”角度に歪んでいる。
「ただいまー。お客さん一名、命あり」
「家に声かけるタイプ……」
アデラは男を、板を二枚重ねて干し草をのせただけの“寝台”にそっと下ろした。
焚き火台に火を起こし、薬草を刻んで鍋に放り込む。山菜と、持ち帰った少量の麦。ぐつぐつと、安心の音が広がった。
「名前、言える?」
「……エリオット・アルデン。エリでいい」
「わたしはアデライン。アデラで。“木材より軽いエリさん”ね」
「肩書の選び方に悪意がある」
エリは半身を起こそうとして、体の悲鳴に顔をしかめた。アデラが慌てて背中に腕を回す。
「まだ寝てて。はい、薬草粥。苦いけど、元気になるやつ。サビーネおばあちゃん印」
「薬草師の……?」
「うん、下の村の。『若いのに山で独りは物好きだねぇ』って褒められた」
「褒められてはいない気がする」
湯気の向こうで、アデラはにこにこしていた。
可憐な顔立ち。だが動きは野性味に満ち、重い鍋を片手で揺らす様は“家事”というより“訓練”に近い。
エリは椀を受け取り、ひと口。
草の苦みの直後に、塩気と麦の甘みが追いかけてくる。意外なほど、やさしい味だった。
「……うまい」
「やった。あ、でも食べすぎると眠くなるから半分ね。残りはわたし」
「人の分量を正しく盗るな」
椀を置くと、エリはしばし天井を見上げた。
見上げた先に、空があった。屋根の穴から、薄い雲が流れていく。
「まず、その穴を塞ぎたい」
「同意。夜、流れ星が落ちてくるかもしれないし」
「落ちない。ていうか、落ちてきたら屋根では防げない」
「そっかぁ……怖い。雷もこわい」
アデラが小さく肩をすくめるのを見て、エリは何か言いかけ、言葉を飲み込んだ。
かわりに、淡い息を吐いて笑う。
「恩返しがしたい。体が戻ったら、屋根、壁、なんでもやる。俺、鍛錬だけは真面目だったから、力はある」
「じゃあ決まり。家のために結婚――じゃなくて、修繕から」
「今、さらっと重大なワードを挟んだよね? 順番の概念を尊重しよう」
「順番……? じゃあ、屋根、壁、床、結婚?」
「床と結婚の間に百歩くらい挟もう」
アデラは「ふむ」と真剣に頷き、板切れと炭を持ってきた。
板に、さらさらと何かを書き始める。
「なにそれ」
「標語。作業用」
板にはこう書かれた――
《安全標語 第一条:まず生きる。次に直す。》
「……正解すぎて反応に困る」
「書いたら守れる気がするんだよね。じゃ、第二条」
アデラは追記した。
《第二条:流れ星は見ない。避ける。》
「“見ない”と“避ける”は両立しないのでは」
「見ないつもりで避ける。気持ちの問題」
気持ちの問題。
その言葉が、意外と胸に刺さった。
戦場から逃げた自分。
逃げた、という言い方以外があるだろうか、と何度も思ってきたのに。
エリは小さく咳払いして、標語板を受け取った。
「……なら、第三条は俺が書く」
炭を握る指は、きちんとした字を書く。
《第三条:危ないと思ったら“いったん止める”。》
「わぁ、賢い」
「賢いは褒め言葉でいいのかな」
標語板を壁に立てかけると、廃屋が少しだけ“家”に寄った気がした。
アデラは満足げに、歪んだ窓辺のハーブ束を揺らす。
爽やかな香りが、ほつれた空気を縫い合わせる。
「エリ、寝てていいよ。昼まで寝て、目が覚めたら、屋根の穴を数えよう」
「数えるのは計画に役立つ。……でも、数えるだけ?」
「今日はね。明日から直す。わたし、釘と縄、村で買ってくる」
「付き添う。ひとりで下山は危ない」
「大丈夫。危険は“見るより避ける”から」
「危ない思想が体系化されていくのを目の当たりにしている」
しばらく、他愛ない会話をした。
名前のこと。呼び方のこと。
アデラは「じゃあ、エリで」と即決し、エリは「アデラ」と丁寧に呼んだ。
そのたびに、アデラの耳がほんのり色づいた。彼女は雷には強くないが、褒め言葉にも案外弱いのだ。
風がふっと変わり、天井の穴から雲が流れ、光が床に四角く落ちた。
エリは目を細め、体を横たえる。疲労は骨まで染みているのに、ここは不思議と、眠れる。
「……アデラ」
「ん?」
「助けてくれて、ありがとう」
「うん。助けた。じゃあ、直してね。屋根」
「恩返しの内容が具体的だ」
「具体的は安心、ってサビーネおばあちゃんが言ってた。わたし、安心が好き。雷は嫌い」
「雷の話題を一定間隔で挟むのやめようか」
アデラは笑った。
彼女の笑いは、かすれた板壁にも、焦げた床にも、優しく染み込む。
「じゃあ、雷が鳴ったら――抱きしめてくれる?」
「……交渉が早い」
「安心が好きなので」
エリは短くため息をつき、それから真面目に頷いた。
「鳴ったら、抱きしめる。鳴らなくても、まずは屋根を直す」
「いい順番!」
アデラが親指を立てる。
エリは思わず笑って、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、ふと思う。
逃げたのではないのかもしれない。
ここに、直すべき屋根があって――隣に、笑う人がいる。
外では、薄雲がちぎれ、光が広がる。
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