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プロローグ 理由は嫌だったから
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政略結婚の話が決まった日の夜、アデライン・フロレットは、机の上に一枚の紙を置いた。
題名――家出宣言書。
本文――理由は嫌だったから。以上。
文字数が少なすぎる気はした。けれど、長く書いたら“折れる道”が増える。
令嬢らしい余韻は、靴音の軽さで代用することにした。
用意したもの。
旅装、古い外套、針と糸、乾いたパン、王都で教わった礼儀のうち使えそうなやつだけ、そして――鍋。
鍋は重い。だが、鍋があれば暮らしは始められる。令嬢教育では教わらないが、山育ちのパン屋リゼットが昔言っていた。「文明の最小単位は鍋と火だよ」。それを信じることにした。
夜更け前、庭の白い砂利が小さく鳴った。
門を抜ける。
王都は香水と音楽の匂い。背中で扉が閉まる音がしても、心は意外なほど揺れない。
“嫌だから”で始めたことは、案外、分かりやすくて強い。
◇
街道で出会った荷馬車の男は、最初アデラを“風変わりな旅人”と見たらしい。
次の瞬間、彼女が前輪を持ち上げてぬかるみから押し出したので、敬語に変わった。
「……あ、ありがとうございます、お嬢さん」
「どういたしまして。鍋の置き場所が欲しいので、山の方へ行ける道を教えて?」
「道案内に礼が必要なら言ってくれ」
「じゃあ、あなたの安全。――転ばないで」
男は素直に頷き、彼女は丁寧に手を振った。
危機管理能力は薄いが、他人の心配は得意。これも王都では教わらない。
道中、彼女は小さな取引を重ねる。
髪飾り一個と引き換えに、壊れかけの地図。
刺繍糸と引き換えに、古い火口。
ついでに、井戸の桶を引き上げ、薪を積み直し、迷子の子を門まで送り――気づけば道が彼女を押し返さず、少しずつ前に転がっていく。
夜は野宿。
星が多すぎて、空が落ちてくるみたいだ。
アデラは肩をすくめて、外套を頭からかぶる。
「流れ星は見ない方向で」
恐いものは二つ。流れ星と雷。
理由は聞かれても困る。“落ちてきたら困る”のだ。
それでも、眠る前に小さく言う。
「でも、明日の私は強い。たぶん」
◇
三日目の午後、山の稜線が近づき、村が小さく見えた。
パンの匂い。ハーブの束。道具屋の看板。
“暮らしの部品”が揃っているのを、鼻で確かめる。
「ここから上は、私の家の予定地だね」
村外れの老婆が笑った。「山の上に廃屋があるよ。屋根は空の色、壁は風の色。住みたいなら、まず名前を呼んでやることだ」
家に名前? 面白い。
斜面を登る。
そこにあったのは、老婆の言葉どおりの育ち盛りの廃屋。
屋根は穴だらけで、壁は少しだけ斜に構え、扉は“理解のある者だけ通れる角度”で止まっている。
「こんにちは。……うち」
声に、とくに返事はない。けれど、風の通りが一瞬だけ丸くなった気がした。
アデラは外套を脱ぎ、鍋を石に据え、拾った枯れ枝で火を起こす。
火がつくまでのあいだ、何かを書きたくなって、板切れに炭で線を引いた。
――(仮)覚え書き
・まず生きる。
・次に、直す(仮)。
・雷が鳴ったら布をかぶる(重要)。
・流れ星は見ない方向。
書いた瞬間、可笑しくなる。仮だらけだ。
でも、“仮”でも旗は立つ。旗があれば、迷っても戻れる。
火が上手に起きた。鍋に水を張る。
パンの端と、村で分けてもらったハーブを落として、ぐつぐつ。
湯気の匂いは、明日の地図みたいに頼りになる。
ここで暮らす。
宣言は声に出すと、胸の中で重さが“ちょうど”になる。
「よし。明日は、屋根の穴を数える。――それから働く。誰かの役に立つ」
口にして、照れる。
役に立つ相手なんて、まだいないのに。
空の端で、雲が細く光った。
彼女は反射的に外套を半分頭にかぶせ、板切れを胸に抱く。
数える――いち、に、さん。音は来ない。遠い。大丈夫。
焚き火を弱め、扉の角度を直し、鍋を空にして、眠る支度。
板切れ(覚え書き)を枕元に置いて、アデラは小さく笑った。
「明日、私の家。明日、私の仕事。」
――そして翌朝、山道で彼女は大きな荷物に出会う。
荷物は、人だった。
世界は、予定より少しだけ早く、彼女に“相棒”を届けるつもりらしい。
題名――家出宣言書。
本文――理由は嫌だったから。以上。
文字数が少なすぎる気はした。けれど、長く書いたら“折れる道”が増える。
令嬢らしい余韻は、靴音の軽さで代用することにした。
用意したもの。
旅装、古い外套、針と糸、乾いたパン、王都で教わった礼儀のうち使えそうなやつだけ、そして――鍋。
鍋は重い。だが、鍋があれば暮らしは始められる。令嬢教育では教わらないが、山育ちのパン屋リゼットが昔言っていた。「文明の最小単位は鍋と火だよ」。それを信じることにした。
夜更け前、庭の白い砂利が小さく鳴った。
門を抜ける。
王都は香水と音楽の匂い。背中で扉が閉まる音がしても、心は意外なほど揺れない。
“嫌だから”で始めたことは、案外、分かりやすくて強い。
◇
街道で出会った荷馬車の男は、最初アデラを“風変わりな旅人”と見たらしい。
次の瞬間、彼女が前輪を持ち上げてぬかるみから押し出したので、敬語に変わった。
「……あ、ありがとうございます、お嬢さん」
「どういたしまして。鍋の置き場所が欲しいので、山の方へ行ける道を教えて?」
「道案内に礼が必要なら言ってくれ」
「じゃあ、あなたの安全。――転ばないで」
男は素直に頷き、彼女は丁寧に手を振った。
危機管理能力は薄いが、他人の心配は得意。これも王都では教わらない。
道中、彼女は小さな取引を重ねる。
髪飾り一個と引き換えに、壊れかけの地図。
刺繍糸と引き換えに、古い火口。
ついでに、井戸の桶を引き上げ、薪を積み直し、迷子の子を門まで送り――気づけば道が彼女を押し返さず、少しずつ前に転がっていく。
夜は野宿。
星が多すぎて、空が落ちてくるみたいだ。
アデラは肩をすくめて、外套を頭からかぶる。
「流れ星は見ない方向で」
恐いものは二つ。流れ星と雷。
理由は聞かれても困る。“落ちてきたら困る”のだ。
それでも、眠る前に小さく言う。
「でも、明日の私は強い。たぶん」
◇
三日目の午後、山の稜線が近づき、村が小さく見えた。
パンの匂い。ハーブの束。道具屋の看板。
“暮らしの部品”が揃っているのを、鼻で確かめる。
「ここから上は、私の家の予定地だね」
村外れの老婆が笑った。「山の上に廃屋があるよ。屋根は空の色、壁は風の色。住みたいなら、まず名前を呼んでやることだ」
家に名前? 面白い。
斜面を登る。
そこにあったのは、老婆の言葉どおりの育ち盛りの廃屋。
屋根は穴だらけで、壁は少しだけ斜に構え、扉は“理解のある者だけ通れる角度”で止まっている。
「こんにちは。……うち」
声に、とくに返事はない。けれど、風の通りが一瞬だけ丸くなった気がした。
アデラは外套を脱ぎ、鍋を石に据え、拾った枯れ枝で火を起こす。
火がつくまでのあいだ、何かを書きたくなって、板切れに炭で線を引いた。
――(仮)覚え書き
・まず生きる。
・次に、直す(仮)。
・雷が鳴ったら布をかぶる(重要)。
・流れ星は見ない方向。
書いた瞬間、可笑しくなる。仮だらけだ。
でも、“仮”でも旗は立つ。旗があれば、迷っても戻れる。
火が上手に起きた。鍋に水を張る。
パンの端と、村で分けてもらったハーブを落として、ぐつぐつ。
湯気の匂いは、明日の地図みたいに頼りになる。
ここで暮らす。
宣言は声に出すと、胸の中で重さが“ちょうど”になる。
「よし。明日は、屋根の穴を数える。――それから働く。誰かの役に立つ」
口にして、照れる。
役に立つ相手なんて、まだいないのに。
空の端で、雲が細く光った。
彼女は反射的に外套を半分頭にかぶせ、板切れを胸に抱く。
数える――いち、に、さん。音は来ない。遠い。大丈夫。
焚き火を弱め、扉の角度を直し、鍋を空にして、眠る支度。
板切れ(覚え書き)を枕元に置いて、アデラは小さく笑った。
「明日、私の家。明日、私の仕事。」
――そして翌朝、山道で彼女は大きな荷物に出会う。
荷物は、人だった。
世界は、予定より少しだけ早く、彼女に“相棒”を届けるつもりらしい。
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