公爵家の伝統だと思っていたら、冷徹公爵様の溺愛でした

星乃和花

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1話 これが、ここでの作法……!

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 王都の北区にあるヴァレントワ公爵邸は、遠くから見てもわかるほど立派だった。

 黒い門扉。整えられた庭。白い石造りの外壁。高い窓。静かに立ち並ぶ使用人の方々。

 そして、漂う空気。

 ぴん、と張っている。

 あまりにも張っている。

「……………………」

 リリアナは門の前で、思わず小さく息をのんだ。

 大きなお屋敷を見るのは初めてではない。けれど、ここは何というか、こう……すべてが完璧すぎて、うっかり深呼吸すら失礼に当たりそうな雰囲気がある。

 これから自分がしばらくお世話になる場所なのだと思うと、胃がきゅっと縮んだ。

 手元の小さな鞄を、ぎゅっと握る。

「本当に、ここでよかったのかな……」

 つい、口からこぼれる。

 けれど今さら引き返せない。

 親戚筋の伝手で、住み込みで働ける先を探してもらった結果、まさかの公爵家である。
 身分違いも甚だしいが、先方は「人手が足りないわけではないが、身辺の細かな世話や文書整理の補助ができる、気の利く者が欲しい」と言っていたらしい。

 そんな大役、私でいいのだろうか。

 まったく自信はない。

 でも、せっかく与えてもらった機会だ。
 迷惑だけはかけないように、精一杯頑張ろう。

 そう胸の前でこっそり拳を握ったとき、門が静かに開いた。

「リリアナ様でいらっしゃいますね」

「は、はい……!」

 出迎えてくれたのは、年配の執事だった。
 背筋がぴんと伸びていて、髪も服も隙がない。にこりともしないのに、なぜか威圧感はない。
 きっと、こういうのが“本物”なのだろう。

「お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」

「よ、よろしくお願いいたします」

 頭を下げ、案内されるまま屋敷の中へ入る。

 広い。静か。きれい。磨かれすぎて床に自分の顔が映りそう。
 歩くだけで恐縮してしまう。

 案内の途中、すれ違う使用人たちが皆きちんと礼をしてくれたので、リリアナはそのたびにぺこぺこ頭を下げた。
 すると三人目あたりで、執事がやんわり言った。

「皆、歓迎しておりますよ」

「えっ」

「そんなに緊張なさらなくても大丈夫です」

 その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。

「あ、ありがとうございます……」

 歓迎、されている。
 その響きだけで、胸の奥がじんわり温かくなった。

 そうして通されたのは、応接室だった。
 大きな窓からやわらかな午後の光が差し込み、品のいい調度品が整然と並んでいる。

「旦那様をお呼びしてまいります。少々お待ちください」

 執事が下がる。

 ひとりになった瞬間、リリアナは背筋を伸ばしたまま固まった。

 旦那様。

 つまり、この屋敷の主。

 ヴァレントワ公爵。

 王都でも名の知れた名門の当主で、若くして公爵位を継ぎ、冷徹無比、隙なし、仕事の鬼、美貌だが近寄りがたい……などなど、噂だけはたくさん聞いている。

 できればお会いする前に心の準備をしたかったのだが、残念ながらその時間はあまりなかった。

 扉が開く。

 反射的に、びしっと立ち上がった。

 入ってきた男性を見た瞬間、リリアナは思考が止まった。

 背が高い。
 整った顔立ちに、冷たい色の瞳。
 無駄のない仕立ての良い服を着こなし、立っているだけで空気がすっと研ぎ澄まされるようだった。

 あ、これは冷徹だ。

 すごい。

 見た目からもう、冷徹が完成している。

「……座ってくれて構わない」

 低く落ち着いた声がして、リリアナははっとした。

「も、申し訳ありません!」

 慌てて座ろうとして、椅子の脚に軽く膝をぶつけた。

「いたっ」

「……大丈夫か」

「だ、大丈夫です!」

 たぶん。少し痛かったけれど、きっと大丈夫だ。
 いや、大丈夫じゃなくても大丈夫と言うべき場面な気がする。こういう時の正解がわからない。

 公爵――エドガー・ヴァレントワは、向かいに腰を下ろした。
 無駄のない所作だった。きれい、という言葉がぴったりくる。

 見られている気がして、リリアナは背中をこっそり伸ばす。

「リリアナ・フェルナーです……本日より、お世話になります」

「エドガー・ヴァレントワだ。堅苦しい挨拶は不要と言いたいところだが、急には難しいだろう。少しずつ慣れればいい」

 思っていたより、声が怖くない。

 表情はやっぱりきりっとしているけれど、言葉自体は想像よりずっと穏やかだった。

「は、はい……ありがとうございます」

「この屋敷での役目については、後ほど執事のグレインから説明がある。無理をして倒れられても困る。最初の数日は環境に慣れることを優先しろ」

 リリアナは目を瞬いた。

 無理をして倒れられても困る。

 つまり、初日からちゃんと体調面まで気遣ってくださっているということだろうか。

 やさしい。

 いや、でも相手は公爵様だ。
 きっとこれは個人的な優しさではなく、高貴な家における当然の配慮なのだろう。

 なるほど。
 これが、名門公爵家。

「……どうした」

「え?」

「顔色が変わった」

「へっ」

 そんなにわかりやすかっただろうか。
 慌てて頬に触れる。

「す、すみません! だいじょうぶです、あの、緊張してしまって……」

 するとエドガーは、わずかに眉を寄せた。
 それだけで空気が少し張りつめる。

 ひっ、とリリアナの心が縮こまりかけた次の瞬間。

「……温かいものを」

 静かな声で、控えていた使用人に告げる。

「それと、窓際は少し冷える。火を強めろ」

「かしこまりました」

 てきぱきと暖炉の火が調整され、まもなく湯気の立つ紅茶が運ばれてきた。
 しかも、カップの横には小さなお菓子までついている。

 リリアナは目を丸くした。

 すごい。

 すごい……!

 顔色が悪いかもしれないと気づいた瞬間、温かい飲み物。
 室温まで調整。
 しかも甘いお菓子つき。

 これが、ここでの作法……!

 高貴なお屋敷、恐るべし……!

「飲め」

「は、はい……いただきます……!」

 両手でそっとカップを持つ。
 あたたかい。
 冷えていた指先に熱がじんわり移ってきて、ほっとした。

 ひと口飲むと、やさしい香りが広がる。
 思わず「おいしい……」とこぼれた。

 その瞬間、エドガーのまなざしがわずかにやわらいだ、気がした。

「口に合ったならよかった」

「えっ」

「ああ……いや、この屋敷の茶葉は癖が少ないものを選ばせている」

「そうなのですね……!」

 選ばせている。

 茶葉まで。

 あまりにも完璧である。

 リリアナは感動しながら、もう一口飲んだ。
 おいしい。温かい。生き返る。
 こんなふうに何かを気にかけてもらうことに慣れていないせいか、胸が妙にいっぱいになる。

「……そんなに緊張しなくていい」

 ふいにそう言われて、リリアナは顔を上げた。

 エドガーは相変わらず表情が薄い。
 けれど、その声は先ほどより少しだけ低く、落ち着かせるような響きを持っていた。

「ここでは、必要なものは言えば用意させる。不便があれば遠慮なく伝えろ」

「……ありがとうございます」

 ぽつりと返す。

「私、こういうふうにしていただけると思っていなくて……」

 言ってから、しまったと思った。

 重かっただろうか。
 変なことを言ったかもしれない。

 けれど、エドガーは笑いもしなければ、困った顔もせず、ただ静かにリリアナを見た。

「そうか」

 短い返事。

 それだけなのに、不思議と否定も突き放しも含まれていなかった。

「なら、なおさら覚えておけ。お前はこの屋敷で働く者だ。軽く扱われることはない」

 その言葉に、リリアナは目を見開いた。

 軽く扱われることはない。

 そう言われたのは、初めてだった気がする。

 胸の奥が、きゅっとなる。
 泣きそう、というほどではない。けれど、ひどくやわらかい何かが広がっていく。

「……はい」

 今度の返事は、少しかすれた。

 誤魔化すように紅茶を飲む。
 美味しい。さっきよりもっと美味しい。

 対するエドガーは、そんなリリアナの様子を見つめたまま、ほんの少しだけ視線を伏せた。

 ――妙だ。

 彼は内心、そう思っていた。

 住み込みで入る娘が来る。
 それだけのことだった。

 親戚筋から話が回ってきて、経歴も問題なく、細やかな気配りができると聞いたから受け入れた。
 それ以上でもそれ以下でもない。

 そうだったはずなのに。

 目の前の娘はあまりにも頼りなく見えて、放っておくと今にも寒さと緊張で縮こまって消えてしまいそうで、つい環境を整えた。
 ただそれだけだ。

 ただそれだけ、なのだが。

 温かい茶を手にして、嬉しそうにほっと息をつく姿を見たら、胸の奥が妙にざわついた。

 なぜ、そんな顔をする。

 たかが茶だろう。

 いや、違うのか。
 彼女にとっては“たかが”ではないのかもしれない。

 その事実が、なぜか気に障った。
 いや、違う。気に障るというより――胸の奥を、静かに引っかかれたような感覚だった。

「旦那様」

 控えていたグレインが、小さく声をかける。

 エドガーは我に返り、表情を引き締めた。

「……ああ。リリアナ」

「は、はい」

「部屋へ案内させる。今日は荷解きをして、休め」

「ありがとうございます」

 また、ありがとうございます、と言った。

 この娘は何度礼を言うのだろう。
 そんなことで感謝されるほどのことはしていないはずなのに。

 エドガーは立ち上がる。
 すると、リリアナも慌てて立ち上がった。

 その拍子に、椅子の脚の横に置いていた小さな鞄が傾いて、中から布包みがひとつ転がり落ちた。

「あっ……!」

 リリアナがしゃがみこもうとするより早く、エドガーが拾い上げる。

 渡そうとして、ふと手が止まった。

 薄い布に包まれていたのは、だいぶ古びた小さな髪飾りだった。
 安価なものだろう。石も欠けている。
 けれど丁寧に包まれていたから、大事にしている品なのはわかった。

「す、すみません!」

 リリアナが真っ赤になって手を伸ばす。

「母の形見……ではないのですけど、その、昔もらったもので……」

「……そうか」

 エドガーは壊さないよう、そっと彼女の手のひらに戻した。

 指先が、ほんの一瞬だけ触れる。

 リリアナの肩がぴくりと揺れた。

「大切なものなら、落とさないようにしろ」

「は、はい……!」

 叱られたわけではない。
 きっと注意してくださっただけだ。
 なのに、その一言が妙に胸に残った。

 大切なものなら。

 そんなふうに言ってもらえると、髪飾りまで一緒に大事にしてもらえたみたいで、少しだけくすぐったい。

 リリアナは髪飾りを胸元で握りしめた。

「ありがとうございます」

 また礼を言う。

 エドガーは一瞬だけ黙り込み、それから小さく息を吐いた。

「……今日はそればかりだな」

「え?」

「礼を言いすぎだ」

「す、すみません……!」

「謝るな」

 即座に返されて、リリアナはますます混乱した。

 礼もだめ、謝るのもだめ。
 では何を言えば。

 固まるリリアナを見て、エドガーは自分でもわずかに呆れたように眉間を押さえた。

「……慣れればいい」

 それは最初に言われたのと同じ言葉だった。
 でも今度は少しだけ、響きがやわらかい。

 リリアナはおそるおそるうなずく。

「では……その、よろしくお願いいたします?」

 恐る恐る言うと、隣のグレインがわずかに視線を逸らした。
 たぶん笑いをこらえている。

 そしてエドガーは、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「……ああ。よろしく頼む」

 その瞬間。

 リリアナは思った。

 冷徹公爵様、笑うと、とてもずるい。

 いや、ずるいというか、ええと、その。
 心臓に悪いというか。
 想像していた“冷徹”と違いすぎて、困るというか。

 でも同時に、胸の中にふわっと小さな灯りがともる。

 歓迎してもらえた。
 気にかけてもらえた。
 温かい紅茶を出してもらって、大丈夫だと言ってもらえた。

 それだけで、こんなに嬉しいなんて。

 やっぱり、この屋敷はすごい。
 人への配慮が、隅々まで行き届いている。

 きっとこれが、公爵家の伝統で、作法で、格式なのだろう。

「……名門ってすごい……」

 思わず小声でこぼすと、エドガーが怪訝そうに眉を上げた。

「何か言ったか」

「い、いえ! なんでもありません!」

 大慌てで首を振る。

 そんなリリアナを見つめながら、エドガーはなぜか、去りがたさのようなものを覚えていた。

 まだ仕事がある。
 執務室に戻らねばならない。
 そう頭ではわかっているのに、視線が自然と彼女に留まる。

 あまりに頼りない。
 いや、違う。
 妙に気になる。

 それがどういう意味を持つ感情なのか、このときの彼は、まだ知らなかった。

 一方のリリアナはと言えば。

 公爵家の“高度なおもてなし文化”にすっかり感服しながら、案内された自室へ向かっていた。

 温かい紅茶。
 体調への気遣い。
 大切な持ち物への配慮。
 最後の、あのやわらかな一言。

 すごい。
 すごすぎる。
 こんなにきちんとした世界があるなんて。

「これが、ここでの作法……!」

 感動をこめて胸の前でそっとつぶやく。

 後ろを歩いていたグレインは、それを聞いてしまい、一瞬だけ天を仰いだ。

 違います、お嬢様。

 それは伝統でも作法でもなく、たぶん旦那様があなたにだけ少しおかしいのです――と。

 だが、まだそのことを口にするには早い。

 なので彼は、何も言わなかった。

 ただ静かに、
 この先の屋敷が少々騒がしくなる予感だけを、深く胸にしまいこんだのだった。

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次回
2話 名門公爵家は、手の保護にも厳格でした
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