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2話 名門公爵家は、手の保護にも厳格でした
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ヴァレントワ公爵邸で迎えた最初の朝、リリアナは目を覚ました瞬間、しばし天井を見上げて固まった。
「……広い……」
部屋が。
とても。
広い。
昨夜は緊張と疲れでそれどころではなかったが、改めて見ると、これはどう考えても「住み込みの補助係の部屋」にしては立派すぎる。
ふかふかの寝台。明るい窓辺。小ぶりながらも品のいい机と椅子。衣装箱まである。
しかも清潔で、どこもかしこも整いすぎていて、自分がここにいていいのか不安になるほどだった。
「落ち着こう、私……」
胸の前で手を組んで、小さく呟く。
ここは公爵邸。
名門のお屋敷。
昨日も思ったが、この家は人への配慮が隅々まで行き届いているのだ。
つまりこれは、リリアナ個人が特別に厚遇されているわけではなく、きっとこの家の標準なのだろう。
名門、恐るべし。
そう結論づけてから、リリアナは慌てて身支度を整えた。
鏡の前で髪をまとめ、制服代わりとして用意されていた落ち着いた色のワンピースに袖を通す。
サイズまでぴったりで、また少し感動した。
「すごい……採寸も正確……」
昨日のうちに簡単に寸法を確認されただけだったのに。
公爵家の仕事ぶり、隙がない。
ひとりで何度も頷いてから、リリアナは部屋を出た。
朝の廊下は静かで、窓から差し込む光が床にやわらかく広がっている。
すれ違う使用人たちは忙しそうなのに慌ただしい感じはなく、みんな淡々と、けれど丁寧に動いていた。
案内された先は、小さめの事務室だった。
書類棚と机がいくつか並んでいて、ほどよく落ち着く空間だ。
「本日から、午前中はこちらで簡単な文書整理を覚えていただきます」
そう説明してくれたのは、昨日も顔を合わせた執事のグレインである。
「難しい作業は任せません。まずは仕分けと、一覧表の確認から」
「はい。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、グレインはほんの少しだけ表情をやわらげた。
「慌てず、確実に。わからないことはすぐに聞いてください」
「はいっ」
その日、リリアナは張り切った。
いや、張り切りすぎた。
書類そのものは丁寧に作られていて見やすく、作業内容も想像していたよりずっと整理されていたため、気がつけば夢中になっていたのである。
分類して、揃えて、確認して、書き写して。
気を抜くと緊張してしまうから、むしろ手を動かしている方が楽だった。
そして、夢中になると、リリアナはだいたい周囲が見えなくなる。
「リリアナ様、少し休憩を」
控えめな声をかけられて、はっと顔を上げる。
見れば、小さな茶器がすでに用意されていた。
「えっ、もうそんな時間ですか?」
「ええ。開始から二時間ほど経っています」
「に、二時間……?」
信じられなくて窓の外を見ると、たしかに朝より光の角度が変わっている。
そんなに。
そんなに集中していたのだろうか。
「申し訳ありません、私、気づかなくて……!」
「いえ。熱心なのは結構ですが」
グレインは言いながら、リリアナの手元に目を向けた。
「手が少々、荒れておりますね」
「え?」
言われて、自分の手を見る。
たしかに、紙を扱い続けたせいか、指先が少し赤くなっていた。もともと乾燥しやすいほうではあるけれど、慣れない環境と緊張で無意識に力が入っていたのかもしれない。
「あ……本当だ」
「書類の扱いに慣れていない間は、どうしても擦れやすいのです」
「すみません。私の不注意で……」
「不注意ではありません」
ぴしゃり、とまではいかないが、きっぱりとした声音だった。
「慣れない作業で起こりうることです。対策を取ります」
対策。
その響きに、リリアナは少しだけ背筋を伸ばした。
対策を、取る。
やはり公爵家は違う。
問題の発見から改善までが早い。
そんなふうに妙なところで感心しているうちに、グレインは席を外し、しばらくして小さな箱と薄手の手袋を持って戻ってきた。
「こちらを」
「えっ」
箱の中身は、なめらかな香りのハンドクリームだった。
そして手袋は、作業用らしいやわらかな布製である。
「書類仕事の前後に使ってください。手袋は紙を傷めにくい素材です」
「……すごい」
思わず感嘆が漏れた。
まさか“手が少し赤い”だけで、保護用品一式が出てくるとは思わなかったのだ。
「名門公爵家は手の保護にも厳格……」
「はい?」
「い、いえ! ありがとうございます!」
危ない。
感動が口から漏れた。
リリアナは慌ててハンドクリームの蓋を開けた。
やさしい花の香りがふわっと広がる。
「いい香り……」
「香りは強すぎないものを選んであります」
「選んである……」
さらに感動してしまう。
使用人の作業環境まで配慮されているのか。
この家、どこまで行き届いているのだろう。
おそるおそる少量を手に取り、指先になじませる。
乾いてこわばっていた皮膚が、するりとやわらいだ。
「……わあ」
素直に声が出た。
こんなふうに、自分の手をいたわるためのものを使う機会はあまりなかった。
水仕事や簡単な雑用をしても、少し荒れるくらいは当たり前だと思っていたのだ。
「だいぶ違うだろう」
不意に低い声がして、リリアナはびくりと肩を揺らした。
部屋の入り口に立っていたのは、エドガーだった。
「こ、公爵様」
慌てて立ち上がろうとしたところで、グレインが静かに言う。
「そのままで結構です」
「で、ですが……!」
「手が滑る」
言ったのはエドガー本人だった。
リリアナはぴたりと止まる。
たしかに、今は指先にクリームが少し残っている。立ち上がる拍子に書類を落としたら大変だ。
「……失礼いたします」
おそるおそるそのまま座り直す。
エドガーは机上の書類と、リリアナの手元を一瞥した。
その視線は相変わらず鋭いのに、なぜだかそこに責めるような色はない。
「手が荒れたと聞いた」
「えっ」
聞いた。
聞いた、ということは、グレインが報告したのだろうか。
そこまで報告が上がるのかと驚く反面、なんだか少し申し訳ない。
こんな小さなことでお手を煩わせてしまうなんて。
「も、申し訳ありません……」
「だから、謝るな」
昨日と同じことを言われてしまった。
リリアナは反射的に口を閉じる。
最近の最適解がわからない。
エドガーは数歩近づいて、机の横で足を止めた。
「見せろ」
「……え?」
「手を」
手。
リリアナは自分の両手とエドガーを交互に見た。
確認するようにグレインを見ると、グレインは何とも言えない穏やかな顔で軽く頷いた。
どうやら差し出すのが正解らしい。
「し、失礼します……」
恐る恐る、両手を差し出す。
エドガーはそのうち右手を、壊れものでも見るような慎重さで取った。
ひやりとした大きな指が、赤くなった指先を確かめるようにわずかに触れる。
その瞬間、リリアナの思考が飛んだ。
近い。
近いです、公爵様。
というか手。
手を。
手を見ていらっしゃる。
これも作法……!?
高貴なお屋敷では、使用人の手の状態まで主が直々に確認するのだろうか。
すごい。責任感がすごい。伝統が厚い。
「痛むか」
「へっ」
やっと声が出た。
「い、いえ! 少し赤いだけで、痛いほどでは……!」
「……そうか」
エドガーは眉をわずかに寄せたまま、ゆっくり手を離した。
離された途端、なぜだか指先がさびしくなった気がして、リリアナは自分で自分に驚いた。
何を考えているのだろう。
相手は公爵様だ。今のは確認。完全に確認である。
落ち着こう。
「この程度で済んだならいいが、次からはもっと早く休め」
「はい……」
「手袋は常に使え。書類整理は地味に手を削る」
「わ、わかりました」
エドガーは少し黙ってから、机上のハンドクリームに視線を落とした。
「香りは強くないか」
「え?」
「気分が悪くなるようなら別のものに替えさせる」
「だ、大丈夫です! とてもいい香りで……その、すごく素敵です」
言った途端、エドガーがほんのわずかに視線を逸らした。
「……ならいい」
なぜかその声は、さっきまでより少し低かった。
リリアナは不思議に思ったが、すぐに結論づけた。
きっと公爵様は、細かいところにまで責任を持つ真面目なお方なのだ。
だから使用感の確認までしてくださるのだろう。
なんてすごいのだろう。
これが、ヴァレントワ公爵家の管理体制。
一方で、エドガーの内心は少しも穏やかではなかった。
書類仕事で手が荒れたと聞き、ただそれだけのことで執務中にもかかわらず足を運んでしまった自分に、まず呆れていた。
普通なら、グレインに任せて終わりだ。
実際、それで十分だったはずだ。
それなのに、気になった。
昨日来たばかりの娘が、慣れない仕事で手を赤くしている。
その事実が妙に引っかかって、確認せずにはいられなかった。
しかも実際に手を取ってみれば、思っていたより細く、頼りなく、少し力を入れたら傷つきそうで。
……だから何だ。
なぜ、自分はこんなことを考えている。
エドガーは感情に名前をつけることを避けるように、表情をさらに無機質に整えた。
「午前はここまででいい」
「えっ、ですが、まだ仕分けの途中で……」
「途中でもだ」
きっぱり言われ、リリアナは目をぱちぱちさせた。
「昼食まで少し休め。手を温めておけ」
そこまで言ってから、エドガーは一拍置いた。
「無理をして仕事の質を落とされても困る」
「……はい」
最後の一言のおかげで、業務命令として受け取りやすくなった。
リリアナは素直に頷く。
しかし胸の中は、ほわほわしていた。
仕事の質。
もちろんそれもあるのだろうけれど、その前にちゃんと「休め」と言ってもらえたことが嬉しい。
そんな気持ちを顔に出さないようにしていたつもりだったが、どうやら失敗したらしい。
「……なんだ」
「えっ」
「いや」
エドガーはそこで言葉を切った。
たぶん、少しだけ笑いそうになっていた。
リリアナがあまりにも素直に嬉しそうな顔をしたからだ。
休めと言っただけで、そんな顔をするのか。
それがまた、どうにも調子を狂わせる。
グレインはそんな二人を見比べ、完璧に無表情のまま内心だけで深くため息をついた。
旦那様、早い。
芽生えが早い。
そしてお嬢様、鈍い。
予想以上に鈍い。
これは少々長引くかもしれない。
「では、リリアナ様」
グレインが穏やかに声をかける。
「別室に温かいお茶をご用意しております」
「えっ、またお茶が……?」
「休憩ですので」
「きゅ、休憩……」
休憩にお茶。
しかも“温かい”がつく。
手の保護用品一式に続いてお茶まで完備。
公爵家、福利厚生が強い。
「ありがとうございます……!」
思わず感激して頭を下げると、エドガーがまた微妙な顔をした。
何か言いたげなのに言わない顔である。
その理由を、リリアナはもちろん知らない。
ただ、案内されて移動しながら思う。
昨日の紅茶もそうだった。
今日のハンドクリームも手袋もそうだった。
自分のような者にも、ここまで丁寧に接してくれる。
こんな場所があるなんて知らなかった。
胸の奥がじんと温かい。
誰も、自分のことなんて気にしない。
前は、そんなふうに思っていた。
でもここでは違うのかもしれない。
いや、違うというより、きっとここが特別に“きちんとしている”のだ。
個人的なものではない。
たぶん、これは公爵家として当然のこと。
そう思いながら、リリアナは別室で出されたお茶と小さな焼き菓子を前に、また静かに感動していた。
「休憩にお菓子まで……」
小声で呟く。
「名門ってすごい……」
その頃、執務室へ戻ったエドガーは、机に向かったまましばらくペンを取れずにいた。
赤くなった指先。
差し出された手の小ささ。
褒められただけで、花が開くようにやわらかくなる表情。
面倒を見る必要がある。
そういう話ではない。
もっと別の、厄介な方向に意識が向いている気がしてならなかった。
「……落ち着け」
自分にだけ聞こえる声で呟く。
たかが、手が少し荒れただけだ。
それなのにわざわざ見に行き、香りの確認までして、休憩を命じた。
どう考えてもやりすぎだ。
だが、やりすぎだと自覚したところで、次から抑えられる気はまったくしなかった。
ーーーーー
次回
3話「好みまで把握されるなんて、さすが公爵家です」
「……広い……」
部屋が。
とても。
広い。
昨夜は緊張と疲れでそれどころではなかったが、改めて見ると、これはどう考えても「住み込みの補助係の部屋」にしては立派すぎる。
ふかふかの寝台。明るい窓辺。小ぶりながらも品のいい机と椅子。衣装箱まである。
しかも清潔で、どこもかしこも整いすぎていて、自分がここにいていいのか不安になるほどだった。
「落ち着こう、私……」
胸の前で手を組んで、小さく呟く。
ここは公爵邸。
名門のお屋敷。
昨日も思ったが、この家は人への配慮が隅々まで行き届いているのだ。
つまりこれは、リリアナ個人が特別に厚遇されているわけではなく、きっとこの家の標準なのだろう。
名門、恐るべし。
そう結論づけてから、リリアナは慌てて身支度を整えた。
鏡の前で髪をまとめ、制服代わりとして用意されていた落ち着いた色のワンピースに袖を通す。
サイズまでぴったりで、また少し感動した。
「すごい……採寸も正確……」
昨日のうちに簡単に寸法を確認されただけだったのに。
公爵家の仕事ぶり、隙がない。
ひとりで何度も頷いてから、リリアナは部屋を出た。
朝の廊下は静かで、窓から差し込む光が床にやわらかく広がっている。
すれ違う使用人たちは忙しそうなのに慌ただしい感じはなく、みんな淡々と、けれど丁寧に動いていた。
案内された先は、小さめの事務室だった。
書類棚と机がいくつか並んでいて、ほどよく落ち着く空間だ。
「本日から、午前中はこちらで簡単な文書整理を覚えていただきます」
そう説明してくれたのは、昨日も顔を合わせた執事のグレインである。
「難しい作業は任せません。まずは仕分けと、一覧表の確認から」
「はい。よろしくお願いいたします」
深く頭を下げると、グレインはほんの少しだけ表情をやわらげた。
「慌てず、確実に。わからないことはすぐに聞いてください」
「はいっ」
その日、リリアナは張り切った。
いや、張り切りすぎた。
書類そのものは丁寧に作られていて見やすく、作業内容も想像していたよりずっと整理されていたため、気がつけば夢中になっていたのである。
分類して、揃えて、確認して、書き写して。
気を抜くと緊張してしまうから、むしろ手を動かしている方が楽だった。
そして、夢中になると、リリアナはだいたい周囲が見えなくなる。
「リリアナ様、少し休憩を」
控えめな声をかけられて、はっと顔を上げる。
見れば、小さな茶器がすでに用意されていた。
「えっ、もうそんな時間ですか?」
「ええ。開始から二時間ほど経っています」
「に、二時間……?」
信じられなくて窓の外を見ると、たしかに朝より光の角度が変わっている。
そんなに。
そんなに集中していたのだろうか。
「申し訳ありません、私、気づかなくて……!」
「いえ。熱心なのは結構ですが」
グレインは言いながら、リリアナの手元に目を向けた。
「手が少々、荒れておりますね」
「え?」
言われて、自分の手を見る。
たしかに、紙を扱い続けたせいか、指先が少し赤くなっていた。もともと乾燥しやすいほうではあるけれど、慣れない環境と緊張で無意識に力が入っていたのかもしれない。
「あ……本当だ」
「書類の扱いに慣れていない間は、どうしても擦れやすいのです」
「すみません。私の不注意で……」
「不注意ではありません」
ぴしゃり、とまではいかないが、きっぱりとした声音だった。
「慣れない作業で起こりうることです。対策を取ります」
対策。
その響きに、リリアナは少しだけ背筋を伸ばした。
対策を、取る。
やはり公爵家は違う。
問題の発見から改善までが早い。
そんなふうに妙なところで感心しているうちに、グレインは席を外し、しばらくして小さな箱と薄手の手袋を持って戻ってきた。
「こちらを」
「えっ」
箱の中身は、なめらかな香りのハンドクリームだった。
そして手袋は、作業用らしいやわらかな布製である。
「書類仕事の前後に使ってください。手袋は紙を傷めにくい素材です」
「……すごい」
思わず感嘆が漏れた。
まさか“手が少し赤い”だけで、保護用品一式が出てくるとは思わなかったのだ。
「名門公爵家は手の保護にも厳格……」
「はい?」
「い、いえ! ありがとうございます!」
危ない。
感動が口から漏れた。
リリアナは慌ててハンドクリームの蓋を開けた。
やさしい花の香りがふわっと広がる。
「いい香り……」
「香りは強すぎないものを選んであります」
「選んである……」
さらに感動してしまう。
使用人の作業環境まで配慮されているのか。
この家、どこまで行き届いているのだろう。
おそるおそる少量を手に取り、指先になじませる。
乾いてこわばっていた皮膚が、するりとやわらいだ。
「……わあ」
素直に声が出た。
こんなふうに、自分の手をいたわるためのものを使う機会はあまりなかった。
水仕事や簡単な雑用をしても、少し荒れるくらいは当たり前だと思っていたのだ。
「だいぶ違うだろう」
不意に低い声がして、リリアナはびくりと肩を揺らした。
部屋の入り口に立っていたのは、エドガーだった。
「こ、公爵様」
慌てて立ち上がろうとしたところで、グレインが静かに言う。
「そのままで結構です」
「で、ですが……!」
「手が滑る」
言ったのはエドガー本人だった。
リリアナはぴたりと止まる。
たしかに、今は指先にクリームが少し残っている。立ち上がる拍子に書類を落としたら大変だ。
「……失礼いたします」
おそるおそるそのまま座り直す。
エドガーは机上の書類と、リリアナの手元を一瞥した。
その視線は相変わらず鋭いのに、なぜだかそこに責めるような色はない。
「手が荒れたと聞いた」
「えっ」
聞いた。
聞いた、ということは、グレインが報告したのだろうか。
そこまで報告が上がるのかと驚く反面、なんだか少し申し訳ない。
こんな小さなことでお手を煩わせてしまうなんて。
「も、申し訳ありません……」
「だから、謝るな」
昨日と同じことを言われてしまった。
リリアナは反射的に口を閉じる。
最近の最適解がわからない。
エドガーは数歩近づいて、机の横で足を止めた。
「見せろ」
「……え?」
「手を」
手。
リリアナは自分の両手とエドガーを交互に見た。
確認するようにグレインを見ると、グレインは何とも言えない穏やかな顔で軽く頷いた。
どうやら差し出すのが正解らしい。
「し、失礼します……」
恐る恐る、両手を差し出す。
エドガーはそのうち右手を、壊れものでも見るような慎重さで取った。
ひやりとした大きな指が、赤くなった指先を確かめるようにわずかに触れる。
その瞬間、リリアナの思考が飛んだ。
近い。
近いです、公爵様。
というか手。
手を。
手を見ていらっしゃる。
これも作法……!?
高貴なお屋敷では、使用人の手の状態まで主が直々に確認するのだろうか。
すごい。責任感がすごい。伝統が厚い。
「痛むか」
「へっ」
やっと声が出た。
「い、いえ! 少し赤いだけで、痛いほどでは……!」
「……そうか」
エドガーは眉をわずかに寄せたまま、ゆっくり手を離した。
離された途端、なぜだか指先がさびしくなった気がして、リリアナは自分で自分に驚いた。
何を考えているのだろう。
相手は公爵様だ。今のは確認。完全に確認である。
落ち着こう。
「この程度で済んだならいいが、次からはもっと早く休め」
「はい……」
「手袋は常に使え。書類整理は地味に手を削る」
「わ、わかりました」
エドガーは少し黙ってから、机上のハンドクリームに視線を落とした。
「香りは強くないか」
「え?」
「気分が悪くなるようなら別のものに替えさせる」
「だ、大丈夫です! とてもいい香りで……その、すごく素敵です」
言った途端、エドガーがほんのわずかに視線を逸らした。
「……ならいい」
なぜかその声は、さっきまでより少し低かった。
リリアナは不思議に思ったが、すぐに結論づけた。
きっと公爵様は、細かいところにまで責任を持つ真面目なお方なのだ。
だから使用感の確認までしてくださるのだろう。
なんてすごいのだろう。
これが、ヴァレントワ公爵家の管理体制。
一方で、エドガーの内心は少しも穏やかではなかった。
書類仕事で手が荒れたと聞き、ただそれだけのことで執務中にもかかわらず足を運んでしまった自分に、まず呆れていた。
普通なら、グレインに任せて終わりだ。
実際、それで十分だったはずだ。
それなのに、気になった。
昨日来たばかりの娘が、慣れない仕事で手を赤くしている。
その事実が妙に引っかかって、確認せずにはいられなかった。
しかも実際に手を取ってみれば、思っていたより細く、頼りなく、少し力を入れたら傷つきそうで。
……だから何だ。
なぜ、自分はこんなことを考えている。
エドガーは感情に名前をつけることを避けるように、表情をさらに無機質に整えた。
「午前はここまででいい」
「えっ、ですが、まだ仕分けの途中で……」
「途中でもだ」
きっぱり言われ、リリアナは目をぱちぱちさせた。
「昼食まで少し休め。手を温めておけ」
そこまで言ってから、エドガーは一拍置いた。
「無理をして仕事の質を落とされても困る」
「……はい」
最後の一言のおかげで、業務命令として受け取りやすくなった。
リリアナは素直に頷く。
しかし胸の中は、ほわほわしていた。
仕事の質。
もちろんそれもあるのだろうけれど、その前にちゃんと「休め」と言ってもらえたことが嬉しい。
そんな気持ちを顔に出さないようにしていたつもりだったが、どうやら失敗したらしい。
「……なんだ」
「えっ」
「いや」
エドガーはそこで言葉を切った。
たぶん、少しだけ笑いそうになっていた。
リリアナがあまりにも素直に嬉しそうな顔をしたからだ。
休めと言っただけで、そんな顔をするのか。
それがまた、どうにも調子を狂わせる。
グレインはそんな二人を見比べ、完璧に無表情のまま内心だけで深くため息をついた。
旦那様、早い。
芽生えが早い。
そしてお嬢様、鈍い。
予想以上に鈍い。
これは少々長引くかもしれない。
「では、リリアナ様」
グレインが穏やかに声をかける。
「別室に温かいお茶をご用意しております」
「えっ、またお茶が……?」
「休憩ですので」
「きゅ、休憩……」
休憩にお茶。
しかも“温かい”がつく。
手の保護用品一式に続いてお茶まで完備。
公爵家、福利厚生が強い。
「ありがとうございます……!」
思わず感激して頭を下げると、エドガーがまた微妙な顔をした。
何か言いたげなのに言わない顔である。
その理由を、リリアナはもちろん知らない。
ただ、案内されて移動しながら思う。
昨日の紅茶もそうだった。
今日のハンドクリームも手袋もそうだった。
自分のような者にも、ここまで丁寧に接してくれる。
こんな場所があるなんて知らなかった。
胸の奥がじんと温かい。
誰も、自分のことなんて気にしない。
前は、そんなふうに思っていた。
でもここでは違うのかもしれない。
いや、違うというより、きっとここが特別に“きちんとしている”のだ。
個人的なものではない。
たぶん、これは公爵家として当然のこと。
そう思いながら、リリアナは別室で出されたお茶と小さな焼き菓子を前に、また静かに感動していた。
「休憩にお菓子まで……」
小声で呟く。
「名門ってすごい……」
その頃、執務室へ戻ったエドガーは、机に向かったまましばらくペンを取れずにいた。
赤くなった指先。
差し出された手の小ささ。
褒められただけで、花が開くようにやわらかくなる表情。
面倒を見る必要がある。
そういう話ではない。
もっと別の、厄介な方向に意識が向いている気がしてならなかった。
「……落ち着け」
自分にだけ聞こえる声で呟く。
たかが、手が少し荒れただけだ。
それなのにわざわざ見に行き、香りの確認までして、休憩を命じた。
どう考えてもやりすぎだ。
だが、やりすぎだと自覚したところで、次から抑えられる気はまったくしなかった。
ーーーーー
次回
3話「好みまで把握されるなんて、さすが公爵家です」
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社交界デビューを迎えても、「どうして私が選ばれるの?」と戸惑うばかりだった。
けれど今年デビューする高位令嬢はわずか三人。
家同士の思惑も重なり、騎士団長家の息子、宰相子息、魔術師団長の息子、幼なじみの侯爵子息、そして英雄騎士――
五人の若きエリートとのお見合いが次々と始まってしまう。
遠慮がちで控えめな性格は、この世界では珍しく、気づけば少しずつ距離を縮めていく彼ら。
異世界での恋愛に戸惑う日々。けれど出会いを重ねるたびに、私は少しずつ変わっていく――。
女性希少世界で、自分の幸せを選べるようになるまでの逆ハーレム恋愛ファンタジー。
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