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第九章 素朴な本音
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遠祭の打ち合わせは長く、言葉は角を落とされて丸く並べられた。
彼は帳面を閉じ、胸の内側で短く合図する。
(開く。守る。渡す。帰る)
からん、と鍵束が応えた――気がしただけでも、だいじょうぶ。
足は自然に塔へ向いた。
石段は相変わらず冷たく、歯車はやわらかい雨の音。
踊り場の手前で、彼は一段分だけ深く息を吐く。
(今日、言う)
言葉を長くしない。飾らない。素朴に。
踊り場に、彼女はいた。
膝に頬をのせ、指先で石の目地をなぞっている。
顔を上げると、すこし、ほっとした目。
「管理人さん」
「来ました」
彼は彼女の隣に腰をおろした。石の冷たさが背に通り、頭の中の賑やかさが一段落ちる。
「昨日は、鳴らない日だったね」
「はい。……鳴らさない、日でもありました」
彼女は頷く。「うん。やさしい距離のずれ」
しばらく、二人で歯車の音を聞いた。
沈黙は椅子になって、背もたれがちょうどいい。
彼は縄に視線を置き、言葉の厚みを指先で確かめるみたいに、ゆっくりと口を開いた。
「僕は――」
一度、胸の中で鍵に触れる。
(静かな心)
「僕は、神を、信じられません」
それは、ずっと前から知っていたこと。いつも遠まわしに言っていたこと。
今日は短く、真ん中をそのまま出す。
彼女は驚かなかった。
ただ、目を細めて「うん」とうなずく。
「知ってた。でも、今、言ってくれたのが、だいじ」
「言ったら、君の祈りを傷つけるかと、思っていました」
「わたしの祈りは、傷つかないよ。だって、胸の神さまは、わたしの中にいるから」
彼女は胸の真ん中をとん、と指で押す。
「“管理人さんが信じない”って言葉も、ここでいっしょに居られる」
彼は目を伏せる。
「祈りの言葉を口にするとき、僕はだれかの安心を揃えたい。けれど、揃えることが増えるほど、僕の中の“本当”が隅に追いやられる気がして」
「うん」
「君に寄りかかるのが、心地よくて。寄りかかるほど、怖くなる」
「怖い」
「はい。祈りが“救うべきもの”に見えてしまう日がある。救えなかったら、君の祈りまで曇らせる気がして」
彼女は首を横に振るでも、肯定するでもなく、「ああ」とやさしく息を落とす。
「救わなくていいよ。やさしくしてくれるだけでも、祈りでいていい」
彼は小さく笑って、石の床を見つめた。
「君といると、それを信じたくなる。――だから、少し、離れたいと思いました」
言ってから、胸の灯りがきゅ、と縮む。
彼女のまつげが小さく震え、でも笑う。
「うん。そういう日、ある。……“半歩ひろげる”」
「名札」
「うん。今朝、苗床に立てた名前。半歩だけ、ひろげる日」
彼女は膝の上で見えない札を立てる真似をして、「寂しいのも、半分置いていく」と付け足す。
「遠祭で、各地に行くんでしょ?」
「はい。言葉を揃えに」
「揃える人の背中、わたし、好きだよ。……温室は、そのままここで“居場所”を捧げてる。帰る道が消えないように」
縄が二人の間をまっすぐ通っている。
彼は手を伸ばしかけて、止めた。
「今日は、鳴らしません」
「うん。鳴らさなくて、いい日」
彼女は自分の指を胸の前で組む。
「吸って、“いまここ”。吐いて、“だいじょうぶ”。――管理人さんの“だいじょうぶ”は、管理人さんが選んでいい」
彼は頷き、胸の上で短い合図を静かに並べる。
(開く。守る。渡す。帰る)
帰る、は声にしない。言い切るほどの勇気を、今日は置いていく。
「温室の扉の内側に、白い輪を結びましたね」
彼が言うと、彼女は目を丸くして笑った。
「見た?」
「昨夜、通りがかりに、風越しに」
「“寒い日の手袋”。――管理人さんが来ない日も、扉が冷たくないように」
「ありがとうございます」
言葉は短いのに、胸の灯りが少しだけ広がる。
(僕は、ほしいと言ったわけじゃないのに、君は置いてくれる)
欲しがることが下手な自分に、やさしい練習帳を渡されている気がした。
「これを」
彼はポケットから小さな包みを取り出した。
薄い紙にくるまれた、ほんの一欠片の色硝子――礼拝堂の古い窓を直したときの、角の丸い破片。
「“月の水たまり”の、皿の端に」
「わあ」
彼女の声が明るくなる。
「名前、つけよ」
二人で少し考え、彼が先に言った。
「“忘れないための忘れもの”」
彼女は笑って、頷く。
「長いけど、好き。……じゃあ、札は“忘れない忘れもの”にしよ」
彼女の言葉の方が、少しやさしい。
沈黙がもう一度降りて、毛布みたいに二人を包む。
彼はその毛布の端をすこしだけ引いて、自分の言葉をもうひとつ外へ出した。
「君の温室に、しばらく、行かないつもりです」
「うん」
返事は短く、まっすぐ。
「行きたいです。けれど、今の僕が行くと、寄りかかり方を間違えます」
「うん」
「遠祭が終わったら――」
「うん」
「戻っても、いいですか」
「帰っておいで」
彼女は迷わず言った。
それは合図で、約束で、祈りだった。
救いを強いないやさしさが、言葉の真ん中に座っている。
彼は目を閉じ、胸の中で鍵束を静かに鳴らす。
からん。
音は外へ出ない。出さない。
でも、確かに響く。
「名札の空白、残しておくね」
彼女が言う。
「管理人さんが帰ってきた日に、書いて」
「はい。……短い名前にします」
「うん。短いの、すき」
階段を降りる前、二人は縄に手を置いた。
引かない。
麻のざらりを掌で分け合い、指先だけで“いまここ”を確かめる。
目を合わせると、彼女がちいさく笑った。
「だいじょうぶ」
彼は素朴に返す。
「だいじょうぶ」
扉を開けると、月は昼の顔をしたままそこにいた。
石畳の冷たさが靴底から昇り、彼は礼拝堂の方角へ歩き出す。
背中の内側で“星の土”が軽く、掌の線に沿って落ち着く。
(揃えることを、ちゃんとやる)
(それでも、帰る場所をひとつ失わない)
温室では、ガラスの内側に薄い輪が揺れた。
彼女は扉の白い輪に指を通し、そっと離す。
鳴らない合図。
鳴らない日の、約束。
“月の水たまり”の端に、角の丸い硝子がひとつ増える。
彼女は札を取り、さらさらと書いた。
〈忘れない忘れもの〉
そして、空白の札を一本、苗床の角に残す。
〈 〉
「帰ってきた日に、いっしょに」
夜はまだ来ない。
でも、王国の空には変わらず月がいて、礼拝堂の銀は静かに息をひそめ、塔の歯車は雨の音で時間をほどく。
やさしい距離のずれは、もう名前を持った。
名前がついたものは、忘れない。
彼と彼女はそれぞれの場所で、同じ速さで息をそろえ、短い合図を胸の中に置いた。
(開く。守る。渡す。――帰る)
言い切るにはまだ少し早い。
だから今は、置いておく。
戻ってきたとき、短く、まっすぐに言えるように。
彼は帳面を閉じ、胸の内側で短く合図する。
(開く。守る。渡す。帰る)
からん、と鍵束が応えた――気がしただけでも、だいじょうぶ。
足は自然に塔へ向いた。
石段は相変わらず冷たく、歯車はやわらかい雨の音。
踊り場の手前で、彼は一段分だけ深く息を吐く。
(今日、言う)
言葉を長くしない。飾らない。素朴に。
踊り場に、彼女はいた。
膝に頬をのせ、指先で石の目地をなぞっている。
顔を上げると、すこし、ほっとした目。
「管理人さん」
「来ました」
彼は彼女の隣に腰をおろした。石の冷たさが背に通り、頭の中の賑やかさが一段落ちる。
「昨日は、鳴らない日だったね」
「はい。……鳴らさない、日でもありました」
彼女は頷く。「うん。やさしい距離のずれ」
しばらく、二人で歯車の音を聞いた。
沈黙は椅子になって、背もたれがちょうどいい。
彼は縄に視線を置き、言葉の厚みを指先で確かめるみたいに、ゆっくりと口を開いた。
「僕は――」
一度、胸の中で鍵に触れる。
(静かな心)
「僕は、神を、信じられません」
それは、ずっと前から知っていたこと。いつも遠まわしに言っていたこと。
今日は短く、真ん中をそのまま出す。
彼女は驚かなかった。
ただ、目を細めて「うん」とうなずく。
「知ってた。でも、今、言ってくれたのが、だいじ」
「言ったら、君の祈りを傷つけるかと、思っていました」
「わたしの祈りは、傷つかないよ。だって、胸の神さまは、わたしの中にいるから」
彼女は胸の真ん中をとん、と指で押す。
「“管理人さんが信じない”って言葉も、ここでいっしょに居られる」
彼は目を伏せる。
「祈りの言葉を口にするとき、僕はだれかの安心を揃えたい。けれど、揃えることが増えるほど、僕の中の“本当”が隅に追いやられる気がして」
「うん」
「君に寄りかかるのが、心地よくて。寄りかかるほど、怖くなる」
「怖い」
「はい。祈りが“救うべきもの”に見えてしまう日がある。救えなかったら、君の祈りまで曇らせる気がして」
彼女は首を横に振るでも、肯定するでもなく、「ああ」とやさしく息を落とす。
「救わなくていいよ。やさしくしてくれるだけでも、祈りでいていい」
彼は小さく笑って、石の床を見つめた。
「君といると、それを信じたくなる。――だから、少し、離れたいと思いました」
言ってから、胸の灯りがきゅ、と縮む。
彼女のまつげが小さく震え、でも笑う。
「うん。そういう日、ある。……“半歩ひろげる”」
「名札」
「うん。今朝、苗床に立てた名前。半歩だけ、ひろげる日」
彼女は膝の上で見えない札を立てる真似をして、「寂しいのも、半分置いていく」と付け足す。
「遠祭で、各地に行くんでしょ?」
「はい。言葉を揃えに」
「揃える人の背中、わたし、好きだよ。……温室は、そのままここで“居場所”を捧げてる。帰る道が消えないように」
縄が二人の間をまっすぐ通っている。
彼は手を伸ばしかけて、止めた。
「今日は、鳴らしません」
「うん。鳴らさなくて、いい日」
彼女は自分の指を胸の前で組む。
「吸って、“いまここ”。吐いて、“だいじょうぶ”。――管理人さんの“だいじょうぶ”は、管理人さんが選んでいい」
彼は頷き、胸の上で短い合図を静かに並べる。
(開く。守る。渡す。帰る)
帰る、は声にしない。言い切るほどの勇気を、今日は置いていく。
「温室の扉の内側に、白い輪を結びましたね」
彼が言うと、彼女は目を丸くして笑った。
「見た?」
「昨夜、通りがかりに、風越しに」
「“寒い日の手袋”。――管理人さんが来ない日も、扉が冷たくないように」
「ありがとうございます」
言葉は短いのに、胸の灯りが少しだけ広がる。
(僕は、ほしいと言ったわけじゃないのに、君は置いてくれる)
欲しがることが下手な自分に、やさしい練習帳を渡されている気がした。
「これを」
彼はポケットから小さな包みを取り出した。
薄い紙にくるまれた、ほんの一欠片の色硝子――礼拝堂の古い窓を直したときの、角の丸い破片。
「“月の水たまり”の、皿の端に」
「わあ」
彼女の声が明るくなる。
「名前、つけよ」
二人で少し考え、彼が先に言った。
「“忘れないための忘れもの”」
彼女は笑って、頷く。
「長いけど、好き。……じゃあ、札は“忘れない忘れもの”にしよ」
彼女の言葉の方が、少しやさしい。
沈黙がもう一度降りて、毛布みたいに二人を包む。
彼はその毛布の端をすこしだけ引いて、自分の言葉をもうひとつ外へ出した。
「君の温室に、しばらく、行かないつもりです」
「うん」
返事は短く、まっすぐ。
「行きたいです。けれど、今の僕が行くと、寄りかかり方を間違えます」
「うん」
「遠祭が終わったら――」
「うん」
「戻っても、いいですか」
「帰っておいで」
彼女は迷わず言った。
それは合図で、約束で、祈りだった。
救いを強いないやさしさが、言葉の真ん中に座っている。
彼は目を閉じ、胸の中で鍵束を静かに鳴らす。
からん。
音は外へ出ない。出さない。
でも、確かに響く。
「名札の空白、残しておくね」
彼女が言う。
「管理人さんが帰ってきた日に、書いて」
「はい。……短い名前にします」
「うん。短いの、すき」
階段を降りる前、二人は縄に手を置いた。
引かない。
麻のざらりを掌で分け合い、指先だけで“いまここ”を確かめる。
目を合わせると、彼女がちいさく笑った。
「だいじょうぶ」
彼は素朴に返す。
「だいじょうぶ」
扉を開けると、月は昼の顔をしたままそこにいた。
石畳の冷たさが靴底から昇り、彼は礼拝堂の方角へ歩き出す。
背中の内側で“星の土”が軽く、掌の線に沿って落ち着く。
(揃えることを、ちゃんとやる)
(それでも、帰る場所をひとつ失わない)
温室では、ガラスの内側に薄い輪が揺れた。
彼女は扉の白い輪に指を通し、そっと離す。
鳴らない合図。
鳴らない日の、約束。
“月の水たまり”の端に、角の丸い硝子がひとつ増える。
彼女は札を取り、さらさらと書いた。
〈忘れない忘れもの〉
そして、空白の札を一本、苗床の角に残す。
〈 〉
「帰ってきた日に、いっしょに」
夜はまだ来ない。
でも、王国の空には変わらず月がいて、礼拝堂の銀は静かに息をひそめ、塔の歯車は雨の音で時間をほどく。
やさしい距離のずれは、もう名前を持った。
名前がついたものは、忘れない。
彼と彼女はそれぞれの場所で、同じ速さで息をそろえ、短い合図を胸の中に置いた。
(開く。守る。渡す。――帰る)
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