完璧な政略結婚のはずでしたが、宰相閣下の“私の妻”扱いが甘すぎます

星乃和花

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第三話 個人機密を見てしまいました——宰相閣下は甘い菓子と美容に命をかけている

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 結婚から一週間が過ぎた頃、フィオナ・ヴァルテスはひとつの事実に気づいていた。

 夫であるレオンハルト・ヴァルテスは、たいへん整った美貌の持ち主である。

 それは初対面の時点でわかっていた。
 わかってはいたのだが、改めて同じ屋敷で暮らしてみると、あれは生まれつきの顔立ちだけで成り立っている完成度ではないのではないか、と思えてくる。

 肌が綺麗すぎるのだ。

 驚くほど。
 無駄に。
 いや、無駄ではないのかもしれないが。

 朝も、昼も、夜も、隙がない。
 寝不足のはずの日ですら、青白くやつれるどころか「少し陰影が増していっそう端正」という、令嬢たちが聞いたら理不尽に泣きそうな仕上がりを維持している。

 おかしい。

 フィオナは窓辺のソファで本を開きながら、ひそかに考える。

 もちろん、日頃の節制や姿勢の美しさ、服飾の管理、その他もろもろの努力があるのだろう。レオンハルトは自らの見せ方に一切の妥協がない人だ。そこはもう、出会った頃からよくわかっている。

 だが、それにしてもお肌が綺麗である。

「奥様、どうかなさいましたか?」

 お茶を運んできたミーナに問われ、フィオナは我に返った。

「いいえ。ただ少し、考えごとを」

「まあ。難しいお話ですか?」

「そうね……」

 フィオナは紅茶の香りを吸い込み、上品に微笑んだ。

「旦那様のお肌が、どうしてあんなに綺麗なのかしらと思って」

 ミーナは一瞬だけ、ぴたりと止まった。

 それから、見てはいけないものを見たような顔で視線を泳がせる。

「あら?」

「その、ごめんなさい奥様、わたくし何も申し上げられません」

「何も?」

「はい」

「何も知らないのではなく?」

「存じてはおりますが、申し上げられません」

 フィオナはぱちぱちと瞬きをした。
 なんだろう。思ったより重大な話になってきた。

「それは、宰相府の機密かしら」

「どちらかと言えば、閣下個人の……非常に繊細なご事情と申しますか……」

 ミーナの困り顔は本物だった。

 フィオナは少し考え、それからくすりと笑う。

「そう。では聞かないでおくわ」

「ありがとうございます……!」

 心底ほっとした様子で頭を下げるミーナに、フィオナは逆にますます気になってしまった。

 個人の、非常に繊細な事情。

 いったい何だろう。
 生まれつきでは説明がつかず、しかし公にはしたくない理由。
 まさか秘密の薬でも使っているのだろうか。

 ……いや、この国の宰相が、自ら怪しい美容薬に手を出すとは思えない。
 思いたくない。

 けれど、気になるものは気になるのだ。

 フィオナは本を開いたまま、頭の中だけで小さくため息をついた。

 自分はもともと観察するのが得意だ。
 人の仕草や、言葉の選び方、視線の流れ。そういうものを見ていると、自然と相手のことがわかってしまう。

 だからこそ、あえて踏み込まないことも多い。

 見えたからといって、全部を暴く必要はない。
 秘密は秘密のまま大事にしておくほうがいいこともある。

 ……あるのだけれど。

 旦那様のお肌の秘密は、少しだけ。
 ほんの少しだけ、知りたかった。

     ◇

 その夜のことだった。

 レオンハルトは王宮での会議が長引き、帰宅が遅くなるらしい。

 夕食も執務室で簡単に済ませると聞いて、フィオナはまたも眉を下げた。
 簡単に済ませる、という言葉は、この屋敷ではだいたい信用ならない。忙しい人は“簡単”の定義が雑なのだ。

「せめて温かい飲み物でもお持ちしましょうか」

 そう言うと、侍女長は少しだけ迷った顔をした。

「……奥様がよろしければ。閣下も、お喜びになるかと」

 お喜びになる。

 最近よく思うのだが、この屋敷の使用人たちは、フィオナとレオンハルトが関わるときだけ妙に温かい目をする。

 たぶん気のせいではない。

 ともあれフィオナは厨房で温かなハーブティーと、夜でも食べやすい小さな焼き菓子を用意してもらい、盆にのせて執務室へ向かった。

 扉の前まで来ると、中に人の気配はある。
 書類をめくる音はしない。
 代わりに、ごく微かな物音が続いている。

 なんだろう。

 軽くノックをしようとして、フィオナはふと手を止めた。
 扉がほんの少しだけ開いていたのだ。

 閉め忘れだろうか。
 珍しい。

「旦那様?」

 小さく声をかけながら隙間から覗いた、その瞬間。

 フィオナは固まった。

 執務机の奥、部屋の片隅に設えられた小さな休憩スペース。
 そこでレオンハルトは、鏡の前に座っていた。

 それ自体はいい。
 問題はその姿である。

 上着を脱ぎ、シャツの袖をきっちりと捲り、前髪を丁寧に留め、真剣な顔で、何やら白いクリームのようなものを指先に取り――頬に塗っていた。

 しかもその卓上には、小瓶が整然と並んでいる。
 透明の液体、乳白色の液体、香油らしきもの、やわらかな布、そして銀皿の上には、ひと口サイズの高級菓子まで置かれていた。

 完璧な美容と糖分補給の陣形である。

 フィオナの思考は、一瞬だけ真っ白になった。

 ――まあ。

 いや、まあ、ではない。
 何これ。
 えっ。えっ。

 するとレオンハルトが鏡越しに気配に気づいたらしく、ゆっくりと視線を上げた。

 鏡の中で、フィオナと目が合う。

 数秒、静寂。

 次の瞬間、彼の顔が見る見るうちに赤くなった。

 耳まで。
 首筋まで。

 ここまで赤くなる人だったのかと感心してしまうほど、見事な赤面だった。

「フィオナ」

 低い声が、ほんの少しだけ掠れる。

「はい」

「これは」

「はい」

「……見ましたか」

 フィオナは盆を抱えたまま、上品に立ち尽くした。

 笑ってはいけない。
 絶対にいけない。
 そう思えば思うほど、口元が危うい。

「少しだけ」

「少しでは済まない気がします」

「そうかもしれません」

 レオンハルトは片手で額を押さえた。
 完全に動揺している。
 冷徹宰相が。
 王宮の誰よりも隙のないあの人が。

 フィオナは胸の奥で小さく息を呑んだ。

 なんて可愛らしいのだろう。

 もちろん、本人に言ったらたいへんなことになるので口には出さない。
 出さないが、そう思ってしまったものは仕方がない。

「……失礼いたしました」

 とりあえず下がろうとしたフィオナを、レオンハルトがぴたりと制した。

「待ってください」

「はい」

「その、誤解を」

「誤解?」

「してほしくない」

 絞り出すように言うあたり、誤解も何も、見たままだと思うのだけれど。

 フィオナはおとなしく部屋に入り、盆を近くの卓に置いた。

「では、何か特別なご説明が?」

「……日々の保湿です」

「はい」

「肌は資本なので」

「はい」

「乾燥は大敵です」

「ええ」

「立場上、常に人前に出る以上、見苦しい状態は避けるべきでしょう」

「ごもっともですわ」

 反論の余地がないほど正論だった。

 レオンハルトはますます困ったような顔になる。
 たぶん、もっとこう、呆れられるとか笑われるとかを想定していたのだろう。

 でもフィオナには、そのどちらもできなかった。

 だって、なんだかとても誠実だったから。
 誰にも見せない場所で、見えない努力を積み重ねている。それは少しも滑稽ではない。

 むしろ、らしいと思った。

「……笑わないのですね」

 ぽつりと落とされた言葉に、フィオナは目を瞬く。

「笑いませんわ」

「なぜ」

「努力なさっているのがわかりますもの」

 そう答えると、レオンハルトは息を止めたように見えた。

 フィオナはゆっくりと微笑む。

「綺麗なお肌は努力の賜物なのですね。素敵だと思います」

「…………」

「旦那様?」

 返事がない。
 見れば、彼は片手で口元を覆ったまま、完全に視線を逸らしていた。

 耳がまた赤い。

 あらまあ、と思う。
 褒めるのに弱いのかしら。

「それとも、やはり秘密でした?」

「秘密です」

 即答だった。
 だが声音は、先ほどほど切迫していない。

「国家機密ではありませんが」

「個人機密ですのね」

「ええ。できれば、墓まで」

「そこまで」

「そこまでです」

 真顔で言われて、フィオナはとうとう笑ってしまった。
 声を立てないように気をつけたのに、肩が揺れる。

 レオンハルトがじっとこちらを見る。
 非難ではなく、なんとも言えない複雑な顔で。

「申し訳ありません。でも、少しだけ可愛らしくて」

「……私は今、可愛らしいと言われましたか」

「聞かなかったことになさいます?」

「できません」

 きっぱりしている。

 フィオナは困ったように、でも楽しくてたまらない気持ちで微笑んだ。

「では訂正いたします。旦那様は大変お綺麗で、そのためのご努力もまた素晴らしいです」

「訂正になっていません」

「まあ」

 少しだけ空気がほどけた。

 レオンハルトは諦めたように、卓上の小瓶をひとつ閉じる。

「……扉は閉まっていると思っていました」

「少しだけ開いておりました」

「不覚です」

「そういう日もございますわ」

「ありません」

「今日がありました」

「……ありますね」

 そこで素直に認めるのが、なんだかおかしくて、フィオナはまた笑いそうになる。

 そしてそのとき、ふと銀皿の上の菓子が目に入った。

 小さな、つやつやした琥珀色の糖衣菓子。
 見た目からして高級品である。

「あら、こちらは」

 フィオナが指差すと、レオンハルトの肩が微かに揺れた。

「糖分補給用です」

「保湿の合間に?」

「合理的な流れです」

「ふふ」

「笑わないでください」

「笑っておりません」

「笑っています」

 珍しく言い返された。

 フィオナは口元を押さえながら、盆の上のハーブティーをそっと示す。

「ちょうど温かいお茶をお持ちしましたの。糖分補給のお供にいかがでしょう」

 レオンハルトは数秒黙ったあと、観念したように頷いた。

「……いただきます」

     ◇

 それからしばらく、フィオナは休憩用のソファに座り、レオンハルトは美容の続きを――いや、保湿の続きを済ませた。

 フィオナはあえて何も言わない。
 ただ、たまに視線が合うと微笑むだけにした。

 そうすると、レオンハルトは少し気まずそうにしながらも、どこか不思議そうな顔をするのだ。

 たぶん彼は、こういうことに慣れていない。

 隠していたものを見られることにも。
 それを受け止められることにも。

 フィオナはハーブティーをひと口飲みながら考える。

 自分もまた、慣れていないのかもしれない。

 誰かの内側を、こんなふうに覗かせてもらうことに。
 しかもそれが、嫌ではなくて、むしろ嬉しいなんて。

「……終わりました」

 静かな宣言に顔を上げると、レオンハルトはいつもの整った姿に戻っていた。
 ただし前髪を留めていたピンだけはまだついたままで、そこだけ少し間が抜けている。

 フィオナはそれを見て、ふわりと目を細めた。

「旦那様」

「何でしょう」

「前髪の留め具が」

 はっとした彼が、すぐさま手をやる。
 その素早さにフィオナはまた笑いそうになったが、今度はこらえた。

「……今日は失念が多い」

「お疲れなのではなくて?」

「それもあります」

「でしたら、少し休まれたほうが」

「難しいですね」

 即答だった。

 予想通りである。
 フィオナはわずかに唇をとがらせたくなったが、さすがにそれはやめた。

 代わりに、柔らかく言う。

「では、せめてお茶だけでもゆっくり召し上がってくださいませ。保湿も大事ですけれど、お身体も資本でしょう?」

 レオンハルトは一瞬だけ目を見開き、それから小さく息を吐いた。

「……その通りです」

「よかった」

「あなたは、ずいぶん」

「はい?」

「自然に、踏み込んできますね」

 責める響きはない。
 むしろ戸惑いに近い。

 フィオナは少しだけ考えてから答えた。

「嫌でしたか?」

「いいえ」

 これも即答だった。

 今度はフィオナの胸がきゅっとなる番だった。

「ただ、慣れていないだけです」

「そう」

「誰にも見せるつもりはなかったので」

「……私にも?」

 聞いてから、少しだけ踏み込みすぎたかしらと思った。
 だがレオンハルトは視線を逸らさず、静かに答える。

「本来は、そのつもりでした」

「本来は」

「ですが」

 そこで彼は、珍しく迷うように言葉を選んだ。

「あなたに見られたこと自体は、思ったほど不快ではありませんでした」

 フィオナは目を瞬く。

 それはたぶん、この人なりに、かなり大きな告白だった。

 隠していたもの。
 誰にも知られたくなかった部分。
 それを見られても、嫌ではなかった。

 その意味を考えた瞬間、胸の奥がじんわりあたたかくなる。

「……光栄ですわ」

 そう返すと、レオンハルトは少しだけ困ったように眉を下げた。

「あなたはそういう言い方をする」

「いけませんか?」

「いえ」

 それから彼は、ごく小さく付け足した。

「むしろ、心地いい」

 フィオナは完全に黙ってしまった。

 あらまあ。

 なんてことを、さらりと。

 たぶん本人は無自覚なのだろう。
 だからこそたちが悪い。
 理屈の顔で、こういう一言を落としてくるのだから。

「フィオナ?」

「……なんでもありません」

「顔が赤いですが」

「気のせいですわ」

 フィオナは涼しい顔でカップを持ち上げた。
 だがたぶん、少し赤い。
 自覚がある。

 困ったものだ。
 旦那様の秘密を知って、こちらまで妙に落ち着かなくなるなんて。

     ◇

 その夜、自室に戻ったフィオナは、鏡の前でそっと自分の頬に触れた。

 ほんのり熱い。

 レオンハルトの秘密を知ったからだろうか。
 それとも、彼が「心地いい」と言ったからだろうか。

 たぶん、両方だ。

 政略結婚だ。
 理にかなった相手。
 条件を検討し尽くしたうえでの結びつき。

 それは間違っていない。

 でも、その理屈の内側に、少しずつ。
 本当に少しずつだけれど、やわらかなものが育っている気がする。

 誰にも見せない顔を見つけるたび。
 隠していたものを受け取るたび。

 “この人をもっと知りたい”と思ってしまう。

 それはあまり合理的ではない。
 むしろ、危険な兆候かもしれない。

 でも。

 フィオナは思う。

 冷徹宰相が、夜な夜な保湿を頑張っていることを知ってしまった今、以前と同じ気持ちではいられない。

 なんだかもう、少しだけ。

 とても近くに感じてしまうのだ。

 鏡の前の自分に、フィオナは小さく微笑みかけた。

「……国家機密ではなくてよかったわ」

 もちろん、個人機密として大事に守るつもりである。

 けれどその秘密を預かったことが、どうしようもなく嬉しいのも、また事実だった。
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