今日の分を、あなたに

星乃和花

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第一話 「許可」

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その人は、いつも“奥”にいる。

街の小さな資料室兼カフェ――表はコーヒーと焼き菓子の匂いでにぎやかなのに、奥の扉を一枚くぐると、急に世界の音が薄くなる。

そこに、彼がいた。

背中がまっすぐで、動きが無駄なくて、棚の前に立つ姿が妙に静かで、まるで「触らないでください」と書かれた展示物みたいに見えることがある。

「冷たい人なの?」と聞かれたこともある。

私は、違うと思っていた。冷たいというより、怖がりだ。近づくと、驚かせてしまう気がする。声をかけると、こちらの言葉を丁寧に受け止めすぎて、重たくしてしまう気がする。

だから私は、今日まで“奥”に踏み込まなかった。

けれど、今週末の「古い本の朗読会」の準備が、どうしても彼の領域を必要としていた。

古文書のメモ。旧蔵書の付箋。誰がいつ、どの棚に戻したか――そういう“見えない秩序”は、彼の手の中にある。

私は、軽く深呼吸をして、奥の扉をノックした。

コン、コン。

「……どうぞ」

中から聞こえた声は、意外なくらい柔らかかった。

「あの、すみません。朗読会の件で……少し、いいですか」

彼は小さく頷き、私の持っている紙束に目を落とす。

書類を見る目が真剣すぎて、私の方が緊張してしまう。――でも、ここで引くと、私はまた逃げる。

“積極的”って、押し倒すことじゃない。怖がってる人が、怖がらない形を作ることだと思っている。

だから私は、まず小さな許可を取りに行く。

「……あの。これ、差し入れなんですけど」

私はテーブルに、紙コップをそっと置いた。湯気がふわりと立つ。

「ミルク多めの、カフェオレ。甘いの、苦手じゃなかったら」

彼の目が、一瞬だけ大きくなった。

「……僕に、ですか」

「はい。今日の分。……返さなくていいやつです」

言い切ると、私はなぜか自分の胸がきゅっとした。押しつけたわけじゃないのに、“返さなくていい”って言うのは、相手のルールを勝手に変えるみたいで、少し勇気がいる。

彼はコップを見たまま、しばらく黙っていた。

「……」

「……嫌なら、持ち帰ります」

そう言う前に、彼の指が紙コップに触れた。

取った。受け取った。

それだけで、私は勝手に嬉しくなる。――でも、ここで浮かれない。

もう一つ、許可。

「隣、座ってもいいですか?」

彼の視線が、私の顔と椅子の間を一往復する。

「……はい」

頷き方が、ものすごく慎重だった。

まるで“許可”が、彼の体から抜けないように、丁寧に出してくれたみたいに。

私は、その丁寧さが好きになりそうで、こっそり自分の心を落ち着かせた。

「ありがとうございます。じゃあ、朗読会の資料なんですけど――」

私は仕事の話を始めた。彼に負担をかけないテンポで。彼の世界の速度に合わせるように。

それが、私の恋の始め方だった。
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