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第十三話 「帳尻の夜」
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私
翌日、私は表のカウンターで、ふと気づいた。
付箋がない。
昨日はあった。
“落ち着いたら、来て。”
今日は、ない。
たったそれだけのことで、胸の奥がひゅっと冷える。
――あれ?
忙しさの波がまだ来ていないのに、私は落ち着かなくなる。
今日の分が、減る予感がする。
私は仕事をひとつ片づけて、奥へ向かった。
ノックをする前に、息を整える。
コン、コン。
「……どうぞ」
扉を開けると、彼は机の前にいた。
迎えの位置じゃない。
カップも一つしかない。
あ、と思う。
これが彼の“減らす”。
私は笑って、ごまかさない。
「おはよう」
「……おはようございます」
声はいつも通り。
でも、目が少しだけ遠い。
私は椅子に座りながら、淡々と聞いた。
「今日、合図なかったね」
彼の指が一瞬止まる。
「……必要ないと思ったので」
必要ない。
その言葉は、いつもなら“効率”の言い訳になる。
でも今日の必要ないは、違う匂いがする。
私は胸の奥が少し痛くなるのを感じながら、でも声は柔らかくした。
「必要ない、って思ったんだ」
「……はい」
“はい”が固い。
逃げている。
私は資料を開きかけて、やめた。
今日は作業の話をしても、彼はもっと逃げる。
私は代わりに、カップを見た。
「カップ、一つなんだ」
彼が淡々と言う。
「……あなたが来るか分からなかったので」
それは嘘じゃない。
でも、それだけでもない。
私は息を吐いて、言った。
「来るよ」
彼の喉が小さく動く。
「……忙しい日もあるので」
「うん。ある。でも、来るよ。来られないなら先に言う。約束したでしょ」
彼の指先が少しだけ震えた。
古い痛みが触れたのが分かる。
私は追い詰めない。
でも、逃がさない。
「ねえ」
私が呼ぶと、彼は少しだけ目を上げる。
「昨日、触れてくれたの、嬉しかった」
“嬉しい”を言う。
約束じゃなく、今日の必要。
彼の目が揺れる。
そして、ほんの少しだけ視線が落ちる。
「……僕は」
言いかけて止まる。
言葉が引っかかっている。
私は待つ。
でも、待つだけで終わらせないように、枠を置く。
「ここで、言わなくてもいいよ。言いにくいなら」
彼が一瞬、顔を上げる。
「……言わなくてもいい?」
「うん。でも、逃げないで。ここにいて」
ここにいて。
返礼でも、効率でもない。
ただのお願い。
彼は息を一つ吐いて、目を伏せた。
「……帳尻を合わせたくなります」
言った。
言えた。
私は胸の奥がじんと熱くなる。
怖かったはずなのに、言ってくれたのが嬉しい。
「うん」
私は頷く。
「合わせたくなるんだね」
彼は小さく頷いた。
「……受け取りすぎるのが怖いです」
怖い。
欲の後に来る怖い。
私は静かに言う。
「受け取りすぎるの、怖いんだ」
「……はい」
私はテーブルの上に、私の手を置いた。
触れない距離。
でも、見える位置。
「じゃあさ、帳尻じゃなくて、共同作業にしよう」
彼が少しだけ眉を寄せる。
「……共同作業」
「うん。今日の分を減らすんじゃなくて、今日の分を“整える”」
整える。
彼の好きな言葉。
「昨日は増えた。今日は整える。そういう日があってもいい」
彼の目が少しだけ柔らかくなる。
「……整える」
「うん。で、合図がないと私がちょっと足りなくなるから、合図は戻してほしい」
言い方を優しくする。
責めない。でも欲は言う。
彼の喉が小さく動いた。
「……足りなくなる」
「うん。私も。今日、付箋がなくて落ち着かなかった」
彼が黙る。
黙って、少しだけ唇を噛む。
そして、小さく言った。
「……僕だけじゃないんですね」
「うん。私も」
私は笑った。
「今日の分って、あなたのだけじゃなくて、私のもだった」
その言葉に、彼の肩がほんの少しだけ下がった。
安心したみたいに。
「……合図、書きます」
「うん」
「……でも、今日は」
彼が続ける。
「……少しだけ、ゆっくりにします」
ゆっくり。
減らすじゃなく、整える。
私は頷いた。
「うん。ゆっくりでいい」
彼が、カップをもう一つ出した。
粉を入れる。
湯は、まだ注がない。
昨日と同じ。
“待つ準備”。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
帳尻は、逃げじゃなくて、癖だ。
癖なら、一緒に整えればいい。
今日の分は、減らさなくていい。
増やすのが怖い日だって、ここにいていい。
私はそう思いながら、静かに言った。
「ね。ここにいてくれて、ありがとう」
彼は一拍置いて、頷いた。
「……はい」
そして、少しだけ声を落として言った。
「……逃げたくなったら、言います」
言う。
言葉にする。
それが、彼の主導だ。
私は笑って頷いた。
「うん。言って」
翌日、私は表のカウンターで、ふと気づいた。
付箋がない。
昨日はあった。
“落ち着いたら、来て。”
今日は、ない。
たったそれだけのことで、胸の奥がひゅっと冷える。
――あれ?
忙しさの波がまだ来ていないのに、私は落ち着かなくなる。
今日の分が、減る予感がする。
私は仕事をひとつ片づけて、奥へ向かった。
ノックをする前に、息を整える。
コン、コン。
「……どうぞ」
扉を開けると、彼は机の前にいた。
迎えの位置じゃない。
カップも一つしかない。
あ、と思う。
これが彼の“減らす”。
私は笑って、ごまかさない。
「おはよう」
「……おはようございます」
声はいつも通り。
でも、目が少しだけ遠い。
私は椅子に座りながら、淡々と聞いた。
「今日、合図なかったね」
彼の指が一瞬止まる。
「……必要ないと思ったので」
必要ない。
その言葉は、いつもなら“効率”の言い訳になる。
でも今日の必要ないは、違う匂いがする。
私は胸の奥が少し痛くなるのを感じながら、でも声は柔らかくした。
「必要ない、って思ったんだ」
「……はい」
“はい”が固い。
逃げている。
私は資料を開きかけて、やめた。
今日は作業の話をしても、彼はもっと逃げる。
私は代わりに、カップを見た。
「カップ、一つなんだ」
彼が淡々と言う。
「……あなたが来るか分からなかったので」
それは嘘じゃない。
でも、それだけでもない。
私は息を吐いて、言った。
「来るよ」
彼の喉が小さく動く。
「……忙しい日もあるので」
「うん。ある。でも、来るよ。来られないなら先に言う。約束したでしょ」
彼の指先が少しだけ震えた。
古い痛みが触れたのが分かる。
私は追い詰めない。
でも、逃がさない。
「ねえ」
私が呼ぶと、彼は少しだけ目を上げる。
「昨日、触れてくれたの、嬉しかった」
“嬉しい”を言う。
約束じゃなく、今日の必要。
彼の目が揺れる。
そして、ほんの少しだけ視線が落ちる。
「……僕は」
言いかけて止まる。
言葉が引っかかっている。
私は待つ。
でも、待つだけで終わらせないように、枠を置く。
「ここで、言わなくてもいいよ。言いにくいなら」
彼が一瞬、顔を上げる。
「……言わなくてもいい?」
「うん。でも、逃げないで。ここにいて」
ここにいて。
返礼でも、効率でもない。
ただのお願い。
彼は息を一つ吐いて、目を伏せた。
「……帳尻を合わせたくなります」
言った。
言えた。
私は胸の奥がじんと熱くなる。
怖かったはずなのに、言ってくれたのが嬉しい。
「うん」
私は頷く。
「合わせたくなるんだね」
彼は小さく頷いた。
「……受け取りすぎるのが怖いです」
怖い。
欲の後に来る怖い。
私は静かに言う。
「受け取りすぎるの、怖いんだ」
「……はい」
私はテーブルの上に、私の手を置いた。
触れない距離。
でも、見える位置。
「じゃあさ、帳尻じゃなくて、共同作業にしよう」
彼が少しだけ眉を寄せる。
「……共同作業」
「うん。今日の分を減らすんじゃなくて、今日の分を“整える”」
整える。
彼の好きな言葉。
「昨日は増えた。今日は整える。そういう日があってもいい」
彼の目が少しだけ柔らかくなる。
「……整える」
「うん。で、合図がないと私がちょっと足りなくなるから、合図は戻してほしい」
言い方を優しくする。
責めない。でも欲は言う。
彼の喉が小さく動いた。
「……足りなくなる」
「うん。私も。今日、付箋がなくて落ち着かなかった」
彼が黙る。
黙って、少しだけ唇を噛む。
そして、小さく言った。
「……僕だけじゃないんですね」
「うん。私も」
私は笑った。
「今日の分って、あなたのだけじゃなくて、私のもだった」
その言葉に、彼の肩がほんの少しだけ下がった。
安心したみたいに。
「……合図、書きます」
「うん」
「……でも、今日は」
彼が続ける。
「……少しだけ、ゆっくりにします」
ゆっくり。
減らすじゃなく、整える。
私は頷いた。
「うん。ゆっくりでいい」
彼が、カップをもう一つ出した。
粉を入れる。
湯は、まだ注がない。
昨日と同じ。
“待つ準備”。
私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
帳尻は、逃げじゃなくて、癖だ。
癖なら、一緒に整えればいい。
今日の分は、減らさなくていい。
増やすのが怖い日だって、ここにいていい。
私はそう思いながら、静かに言った。
「ね。ここにいてくれて、ありがとう」
彼は一拍置いて、頷いた。
「……はい」
そして、少しだけ声を落として言った。
「……逃げたくなったら、言います」
言う。
言葉にする。
それが、彼の主導だ。
私は笑って頷いた。
「うん。言って」
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