今日の分を、あなたに

星乃和花

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第十四話 「受け取る側」

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「今日は、少しだけ、ゆっくりにします」

彼がそう言った日の空気は、柔らかかった。
増やさない。減らさない。整える。

その“整える”ができるようになっただけで、私たちはもう前に進んでいる。

私は資料を閉じた。
今日は頑張らない。
彼が決めた優先順位に、ちゃんと従う。

「じゃあ、ゆっくりの日のメニューは?」

私が冗談めかして言うと、彼は少しだけ眉を寄せた。

「……メニュー?」

「うん。今日の分の内容」

彼は一拍置いて、淡々と言った。

「……飲み物。あと、座る」

「可愛い」

言った瞬間、しまったと思ったけど――
彼は逃げなかった。最近は、可愛いを“点数”にしない練習もしている。

「……座ります」

言い切るの、ずるい。

カップに湯が注がれて、ちょうどいい温度の甘さが部屋に広がる。
私は両手で包んで息を吐いた。

「ねえ」

「はい」

「昨日、帳尻って言ってくれたの、嬉しかったよ」

“嬉しい”は、今日も言う。
怖さを言えたことは、受け取るべき前進だから。

彼は小さく頷く。

「……嬉しいと言われると、安心します」

同じ言葉。
でも今日は、その“安心”が少し深い。

私はカップを一口飲んで、ふと気づいた。

机の端に、小さな紙袋がある。
いつものような“運用強化”のメモはない。
リボンもない。目立たない。
でも、紙袋は――見覚えのある店のロゴ。

「……それ、なに?」

彼の指が一瞬止まる。

「……渡したいものです」

渡したい。
“返礼”じゃなくて、渡したい。

私は一拍置いてから、慎重に言った。

「帳尻?」

彼は小さく首を振った。

「……違います」

違います、が今日はきっぱりしていた。

「じゃあ、なに?」

彼は少しだけ視線を落として、言った。

「……あなたの分です」

あなたの分。

“今日の分”は、いつも私が彼に渡すものみたいになっていた。
彼は受け取って、落ち着かなくて、でも懐いていく。

でも今、彼は――
私に、分を渡そうとしている。

胸の奥が、静かに熱くなる。

「……私の分?」

彼は頷いた。

「……あなたが表で忙しい日に、あなたの分が足りなくなると言っていました」

言ってた。
付箋がないと落ち着かない。
今日の分が足りなくなる。

彼は、それを覚えて、形にした。

私は紙袋に手を伸ばしかけて、止めた。
反射で出そうになる言葉を飲み込む。

悪い。
そんなの、悪い。
わざわざ――

その“悪い”を言うと、彼の針がまた動く。
帳尻の世界に戻る。

私はゆっくり息を吸って、違う言葉を選んだ。

「……嬉しい」

言えた。
先に嬉しいを置けた。

彼の肩が少しだけ下がる。

「……受け取ってください」

受け取ってください。
お願いの形。主導の形。

私は頷いて、紙袋を開けた。

中には、小さな付箋の束と、細いペン。
それから、小さな封筒。

付箋の束には、色が三種類。
白、薄い青、薄いクリーム色。
どれも主張しない、落ち着く色。

封筒の中には、短い紙が一枚。

合図を、あなたの手元にも置けるように。
“落ち着いたら来て” だけじゃなくて、
“今日はここまで” も、
“ありがとう” も。
どれでも、あなたが使えるように。

……使えるように。

“僕がする”じゃない。
“あなたが使えるように”。

主導じゃなく、共有。
分け合う。

私は胸がいっぱいになって、笑ってしまった。

「……これ、すごく、優しい」

彼は少しだけ目を逸らして言った。

「……必要だと思ったので」

また“必要”という言葉。
でも今日は、逃げじゃない。

「必要、うん」

私は付箋を指で撫でた。紙の感触が、妙にあたたかい。

「ねえ、私、付箋に“迎えお願いします”って書いていい?」

彼の目が少しだけ揺れた。

「……はい」

「“今日は足りない”って書いてもいい?」

「……はい」

短い返事が、確定している。

私は封筒を胸にしまって、まっすぐ言った。

「ありがとう。これ、私の分、ちゃんと受け取った」

彼は小さく頷いた。

「……受け取ってもらえると、落ち着きます」

受け取る側になった私が、彼を落ち着かせる。
受け取るって、すごい。

私は、少しだけ勇気を出した。

「ねえ。私も、あなたに渡したい日がある。
でも、今日はあなたからもらった。――嬉しい」

彼は一拍置いて、淡々と、でも少し柔らかく言った。

「……あなたが嬉しいなら、僕は正解です」

正解。
点数の言葉。
でも今の正解は、“帳尻”の正解じゃない。

“あなたが嬉しい”の正解。

私は笑って頷いた。

「うん。正解」

彼が少しだけ耳を赤くする。
でも逃げない。

そのとき、彼がぽつりと言った。

「……もう一つ、あります」

「え」

彼は机の引き出しから、小さなものを出した。

薄い布。
手首に巻けるくらいの、柔らかい布のバンド。
色は淡い。主張しない。
小さなボタンがついていて、外れる。

「……これ」

彼は視線を落としたまま言う。

「……人が多いとき。触れていい、の代わりです」

代わり。
でも帳尻じゃない。
私が“嫌なときは嫌って言える”前提の代わり。

「……これを持っていたら」

彼は一拍置いて、言った。

「……触れる前に、合図ができます」

合図。
外でも。

私は胸の奥が熱くなって、でも軽く答えた。
重くすると彼が怖がるから。

「可愛い。……でも、ありがとう。これ、嬉しい」

“嬉しい”を先に置く。

彼が小さく頷く。

「……嫌なら、使わないでください」

逃げ道も、ちゃんと置く。
彼も成長してる。

私はバンドを受け取って、指で触れた。
柔らかい。あたたかい。

「うん。嫌じゃない。
むしろ、あなたが“触れる前に合図”って考えてくれたのが、好き」

好き。
言ってしまった。

胸が跳ねる。
言いすぎた?と一瞬思う。

でも彼は逃げなかった。

ただ、少しだけ息を吸って、静かに言った。

「……好き、と言われると」

「うん」

「……増えます」

増える。
今日の分が。
彼の主導も。

私は笑って頷いた。

「うん。増やそう」
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