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第十七話 「確定」
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僕
「……呼ばれたいです」
そう言ったあと、胸の奥に熱が残った。
言ってしまった。欲を。
しかも、名前の話で。
彼女は「教えて」と言った。
その言葉は軽いのに、僕の中では重い。
名前は、家の空気と結びついている。
呼ばれ方。呼ぶときの声。
機嫌。評価。減点。
幼いころ、名前は“呼ばれるためのもの”じゃなく、
“指摘されるための音”だった。
だから僕は、名前を隠す癖がある。
「あなた」で済むなら、そこで止めたい癖がある。
でも今は違う。
彼女に隠したくない。
隠さない、は怖い。
でも、隠すときの自分の息の浅さが、もう嫌だった。
パン屋の窓際。
彼女がカップを包んで、待っている。
待ってくれるのに、急かさない。
それが、僕にとっての安全だった。
僕は息を整えて、言った。
「……玲央(れお)です」
名前を出した瞬間、心臓が跳ねた。
世界が少しだけ近くなる。
近くなると、逃げ場が減る。
逃げ場が減るのは怖い。
でも、それでも――言いたかった。
彼女は、ゆっくり目を瞬いて、それから笑った。
「玲央」
一度だけ、確かめるように。
僕の胸の奥がきゅっとなる。
呼ばれる、が怖くない。
むしろ、胸が温かい。
彼女が続けた。
「玲央。……教えてくれて、ありがとう」
“ありがとう”が、刺さる。
名前を出したことが、減点じゃなくて、受け取られた。
僕は頷いた。
「……受け取ってくれて、ありがとうございます」
言葉が丁寧になる。
丁寧になっても、逃げていない。
彼女が少しだけ首を傾げた。
「ねえ。呼ばれたいって言ったけど……呼ばれると、落ち着く?」
僕は正直に答えた。
「……落ち着きます」
落ち着く。
本当だ。
彼女の声で呼ばれると、名前が“責められる音”じゃなくなる。
彼女は小さく笑って言った。
「じゃあ、たくさん呼ぶね」
胸が跳ねる。
たくさん、は怖い。
でも、嬉しい。
僕はすぐに逃げ道を置いた。
「……嫌なときは、やめてください」
彼女が頷く。
「うん。嫌なときはやめる。言ってね」
言ってね。
言えるようになってきた。
怖いときに言う、という約束を持てるようになってきた。
そのとき、彼女の付箋束がテーブルの端から少し覗いた。
僕が渡した、三色の付箋。
彼女はそれを一枚取り出して、さらさらと何かを書いた。
そして僕の前に置く。
玲央、今日の分、ありがとう
僕の胸が熱くなる。
名前で書かれるのは、口で呼ばれるよりも、少しだけ強い。
僕はそれを手帳に挟みながら、思ってしまった。
――今日の分、があるなら。
――明日も、が欲しくなる。
欲しくなると、怖くなる。
でも今日は、逃げたくなかった。
僕はカップを一口飲んでから、淡々と――でも言い訳なしで言った。
「……明日も、来ますか」
聞いてしまった。
確認の形。
でも昨日までの確認とは違う。
彼女は笑って頷く。
「うん。来る」
その即答に、胸がほどける。
でも僕は、そこで終わりたくなかった。
僕は続けた。
「……“明日も”じゃ、足りないです」
言ってしまった。
足りない。
未来を欲しがっている。
彼女の目が少しだけ大きくなる。
でも、逃げない。
「……足りないんだ」
「……はい」
胸がきゅっとなる。
怖い。
ここから先は、確定に触れる。
彼女は柔らかい声で言った。
「じゃあ、どう言えば足りる?」
どう言えば。
彼女が一緒に探してくれる。
押しつけじゃなくなる。
僕は息を吸って、言った。
「……これからも、です」
言った瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
重い。
でも、嘘じゃない。
これからも。
その五文字が、僕の臆病の一番深いところを揺らす。
家の空気の中で、僕は“これからも”を信じることをやめた。
続くと言われても、続かなかった。
約束は、曖昧に消えた。
だから僕は、続くことを欲しがるのをやめた。
でも今、欲しがっている。
彼女に対して。
僕は怖さをごまかさずに付け足した。
「……怖いです。でも、言いたいです」
彼女は少しだけ息を吐いて、まっすぐ言った。
「うん。受け取る。……これからも」
受け取る。
その言葉が、僕の胸の奥の針を丸くする。
彼女は笑って言った。
「でも、私も言うね。来られない日があるときは、ちゃんと言う。先に」
先に言う。
それが、続くための形。
僕は頷いた。
「……はい。それが安心です」
安心。
確定に触れても、壊れないための合図。
彼女がカップを置いて、少しだけ身を乗り出した。
「玲央」
名前。
「“これからも”って言ってくれて、嬉しい」
嬉しい。
僕のいちばん効く言葉。
僕は息を吸って、言った。
「……嬉しいって言われると、確定します」
彼女が目を瞬く。
「確定?」
僕は頷いた。
「……僕の中で、“大丈夫”が増えます」
大丈夫。
その言葉を、僕が口にする日が来るなんて。
彼女は小さく笑って、付箋を一枚取り出した。
さらさらと書いて、僕に見せる。
玲央、大丈夫
僕の喉が詰まりそうになる。
でも、泣かない。
泣いたら逃げるから。
僕はそれを受け取って、手帳の一番奥に挟んだ。
「……持っておきます」
「うん。持ってて」
彼女の声が、あたたかい。
そして僕は、今日の分の最後に、もう一つだけ主導を置いた。
「……次」
「うん?」
僕は喉を鳴らして、言い切る。
「……次は、手を繋ぐ許可をください」
言った瞬間、心臓が跳ねた。
触れるより確定する。
逃げたくなる。
でも、逃げなかった。
彼女は一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。
「うん。許可、出す」
軽く言ってくれるのが、救い。
「でも、条件」
条件。
枠。
彼の好きな形。
「人が少ないとき。私が“いいよ”って言ったとき。ね」
僕は頷いた。
「……はい。条件、了解です」
了解。
胸が少しだけ落ち着く。
確定に触れて、壊れない。
今日の分は、未来に伸びた。
「……呼ばれたいです」
そう言ったあと、胸の奥に熱が残った。
言ってしまった。欲を。
しかも、名前の話で。
彼女は「教えて」と言った。
その言葉は軽いのに、僕の中では重い。
名前は、家の空気と結びついている。
呼ばれ方。呼ぶときの声。
機嫌。評価。減点。
幼いころ、名前は“呼ばれるためのもの”じゃなく、
“指摘されるための音”だった。
だから僕は、名前を隠す癖がある。
「あなた」で済むなら、そこで止めたい癖がある。
でも今は違う。
彼女に隠したくない。
隠さない、は怖い。
でも、隠すときの自分の息の浅さが、もう嫌だった。
パン屋の窓際。
彼女がカップを包んで、待っている。
待ってくれるのに、急かさない。
それが、僕にとっての安全だった。
僕は息を整えて、言った。
「……玲央(れお)です」
名前を出した瞬間、心臓が跳ねた。
世界が少しだけ近くなる。
近くなると、逃げ場が減る。
逃げ場が減るのは怖い。
でも、それでも――言いたかった。
彼女は、ゆっくり目を瞬いて、それから笑った。
「玲央」
一度だけ、確かめるように。
僕の胸の奥がきゅっとなる。
呼ばれる、が怖くない。
むしろ、胸が温かい。
彼女が続けた。
「玲央。……教えてくれて、ありがとう」
“ありがとう”が、刺さる。
名前を出したことが、減点じゃなくて、受け取られた。
僕は頷いた。
「……受け取ってくれて、ありがとうございます」
言葉が丁寧になる。
丁寧になっても、逃げていない。
彼女が少しだけ首を傾げた。
「ねえ。呼ばれたいって言ったけど……呼ばれると、落ち着く?」
僕は正直に答えた。
「……落ち着きます」
落ち着く。
本当だ。
彼女の声で呼ばれると、名前が“責められる音”じゃなくなる。
彼女は小さく笑って言った。
「じゃあ、たくさん呼ぶね」
胸が跳ねる。
たくさん、は怖い。
でも、嬉しい。
僕はすぐに逃げ道を置いた。
「……嫌なときは、やめてください」
彼女が頷く。
「うん。嫌なときはやめる。言ってね」
言ってね。
言えるようになってきた。
怖いときに言う、という約束を持てるようになってきた。
そのとき、彼女の付箋束がテーブルの端から少し覗いた。
僕が渡した、三色の付箋。
彼女はそれを一枚取り出して、さらさらと何かを書いた。
そして僕の前に置く。
玲央、今日の分、ありがとう
僕の胸が熱くなる。
名前で書かれるのは、口で呼ばれるよりも、少しだけ強い。
僕はそれを手帳に挟みながら、思ってしまった。
――今日の分、があるなら。
――明日も、が欲しくなる。
欲しくなると、怖くなる。
でも今日は、逃げたくなかった。
僕はカップを一口飲んでから、淡々と――でも言い訳なしで言った。
「……明日も、来ますか」
聞いてしまった。
確認の形。
でも昨日までの確認とは違う。
彼女は笑って頷く。
「うん。来る」
その即答に、胸がほどける。
でも僕は、そこで終わりたくなかった。
僕は続けた。
「……“明日も”じゃ、足りないです」
言ってしまった。
足りない。
未来を欲しがっている。
彼女の目が少しだけ大きくなる。
でも、逃げない。
「……足りないんだ」
「……はい」
胸がきゅっとなる。
怖い。
ここから先は、確定に触れる。
彼女は柔らかい声で言った。
「じゃあ、どう言えば足りる?」
どう言えば。
彼女が一緒に探してくれる。
押しつけじゃなくなる。
僕は息を吸って、言った。
「……これからも、です」
言った瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。
重い。
でも、嘘じゃない。
これからも。
その五文字が、僕の臆病の一番深いところを揺らす。
家の空気の中で、僕は“これからも”を信じることをやめた。
続くと言われても、続かなかった。
約束は、曖昧に消えた。
だから僕は、続くことを欲しがるのをやめた。
でも今、欲しがっている。
彼女に対して。
僕は怖さをごまかさずに付け足した。
「……怖いです。でも、言いたいです」
彼女は少しだけ息を吐いて、まっすぐ言った。
「うん。受け取る。……これからも」
受け取る。
その言葉が、僕の胸の奥の針を丸くする。
彼女は笑って言った。
「でも、私も言うね。来られない日があるときは、ちゃんと言う。先に」
先に言う。
それが、続くための形。
僕は頷いた。
「……はい。それが安心です」
安心。
確定に触れても、壊れないための合図。
彼女がカップを置いて、少しだけ身を乗り出した。
「玲央」
名前。
「“これからも”って言ってくれて、嬉しい」
嬉しい。
僕のいちばん効く言葉。
僕は息を吸って、言った。
「……嬉しいって言われると、確定します」
彼女が目を瞬く。
「確定?」
僕は頷いた。
「……僕の中で、“大丈夫”が増えます」
大丈夫。
その言葉を、僕が口にする日が来るなんて。
彼女は小さく笑って、付箋を一枚取り出した。
さらさらと書いて、僕に見せる。
玲央、大丈夫
僕の喉が詰まりそうになる。
でも、泣かない。
泣いたら逃げるから。
僕はそれを受け取って、手帳の一番奥に挟んだ。
「……持っておきます」
「うん。持ってて」
彼女の声が、あたたかい。
そして僕は、今日の分の最後に、もう一つだけ主導を置いた。
「……次」
「うん?」
僕は喉を鳴らして、言い切る。
「……次は、手を繋ぐ許可をください」
言った瞬間、心臓が跳ねた。
触れるより確定する。
逃げたくなる。
でも、逃げなかった。
彼女は一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。
「うん。許可、出す」
軽く言ってくれるのが、救い。
「でも、条件」
条件。
枠。
彼の好きな形。
「人が少ないとき。私が“いいよ”って言ったとき。ね」
僕は頷いた。
「……はい。条件、了解です」
了解。
胸が少しだけ落ち着く。
確定に触れて、壊れない。
今日の分は、未来に伸びた。
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