今日の分を、あなたに

星乃和花

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第十六話 「名前」

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パン屋に入る前、彼が一度だけ私を見た。

「……真理子。これ、好きですか」

名前で呼んだあとに、もう一度。
二度目は、少しだけ自然。

私は笑って頷いた。

「好き」

彼が小さく頷く。

「……よかった」

カウンターで注文して、窓際の席に座る。
外の光が柔らかい。

私は付箋を一枚出して、さらさらと書いた。

名前、ありがとう

彼の前に置くと、彼はそれを見て、すぐに受け取った。

「……受け取ります」

手帳に挟む手つきが、丁寧で、静かで、でも確定している。

私はその横顔を見て、胸の奥で思った。

主導はもう、完全に彼のものになりつつある。
でもそれは、支配じゃない。

私が息をできるようにする主導だ。

そして、名前で呼ばれた私は、少しだけ戻れなくなる。

戻れなくなってもいい、と思ってしまう。

怖いのに。

私はカップを両手で包んで、ぽつりと言った。

「ねえ、私も呼んでいい?」

彼が一瞬、目を上げる。

「……何を」

「あなたの名前」

彼の指先が止まる。
怖さが、すぐに出る。

でも彼は逃げなかった。

「……はい」

短い返事。
許可。

私は息を整えて、言った。

「……あなたの名前、教えて」

彼は少しだけ視線を落として、静かに言った。

「……まだ、慣れてないので」

「うん」

「……でも」

「うん」

彼が息を吸って、言い切る。

「……呼ばれたいです」

呼ばれたい。

それは、彼の欲の主導。

私は笑って頷いた。

「うん。教えて」

――ここから先は、彼の“確定”がもっと増える。
名前は入口。
彼の世界に、私が本当に入る合図。

私はその予感を胸に抱えながら、今日の分をゆっくり味わった。
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