恋を間違えたくない僕は、君の“嫌われたくない”をほどく

星乃和花

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第3話 増えていく小さな許可(私)

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次の日、編集部の机の上に――小さなものが増えていた。

付箋が一枚。端がまっすぐで、文字が読みやすい。

「出典確認:ここまで済(瀬尾)」

それだけ。余計な顔文字も、余計な褒め言葉もない。けれど、その一枚があるだけで、私の胸の奥が少しだけ軽くなるのが分かった。

軽くなるのが、怖い。

私は“軽くなってはいけない”と思って生きてきた気がする。軽くなると、甘えたくなる。甘えると、迷惑になる。迷惑になると、嫌われる。

だから、重くしておく。自分のことは自分で抱える。

それが、私の当たり前。

なのに、彼――瀬尾さんは、当たり前を変えるのが上手だった。上手というより……自然に、整えてしまう人。

その日から、彼はあからさまに助けたりしなくなった。代わりに、もっと困る。

困るのは、私の心が。

たとえば、私が資料室に行こうと立ち上がると、机の端に一枚の紙が差し込まれている。

「寒いので、上着。必要なら使ってください(返却不要)」

返却不要、って。そんな言葉をつけられたら、余計に返したくなるのに。

「え……これ、瀬尾さんの……?」

視線を上げると、彼は自分の机からこちらを見ていない。見ていないけれど、見ている気配がする。

“見ている気配”だけで、私は正しく息ができなくなる。

断りたい。断りたいのに、断ったら……彼の優しさを否定したみたいになるのが怖い。

「……じゃあ、ちょっとだけ」

私は小声で言って、上着を肩にかける。自分でも驚くほど、ぬくもりがすぐに馴染んだ。布の重さが、安心に近い。

安心に近いものほど、怖い。

昼前、先輩に急に呼ばれて、私は席を外した。

戻ったとき、机の上に小さな紙袋が置いてあった。よくあるコンビニの紙袋。でも、角がきれいで、皺がない。

中には、小さなパンと、温かいコーンスープ。

そして、また付箋。

「昼、抜けそうだったので。もし要らなければ、僕が食べます(瀬尾)」

“もし要らなければ”――逃げ道が、ちゃんとある。

逃げ道があるのに、私は逃げない。

だって、助かる。助かるって認めたら、私は彼に寄ってしまう。

寄ってしまったら――嫌われたくない、が間に合わなくなる。

私は紙袋を見つめたまま、しばらく動けなかった。

「……これ、誰の?」

先輩が通りすがりに言う。

「あ、えっと……自分で……」

嘘が口から滑って出た。

自分で、買ってきた。そう言えば、誰も気にしない。誰も私を“助けられる人”にしない。瀬尾さんにも、迷惑がかからない。

そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。

私は、なんで痛むの。

“嫌われたくない”のために嘘をつくのは、いつものことのはずなのに。

そのとき、彼が後ろを通った。

「午後、会議室の冷房強いので、膝掛け置いときます」

淡々とした声。会話というより、事務連絡みたい。

私は振り向くのが遅れて、ただ頷いた。

「……はい」

“はい”が、もう許可になっていると気づいて、喉が詰まる。

私は、少しずつ、彼に許可を渡している。

上着。スープ。膝掛け。付箋。

小さな許可。小さな許可。小さな許可。

いつか大きな許可を渡すことになったら、私はどうするんだろう。



夕方、締切がいよいよ迫って、編集部の空気が硬くなる。

先輩の声が早口になる。電話の音が増える。印刷所からの確認が飛んでくる。誰かが走る。誰かがため息をつく。

私はパソコンの画面を見つめて、指先だけが動いていた。頭は動いているのに、息が浅い。呼吸がうまく入らない。

大丈夫。大丈夫。

“平気”が喉まで上がってきたとき、机の端に、また付箋が滑り込んだ。

「五分、外の空気。必要なら一緒に行きます。不要なら、僕が先に戻ります」

心臓が、変な音を立てた。

……なんで、分かるの。

私が今、“五分”欲しいこと。誰にも言ってないのに。言ってないから、欲しいって認めちゃいけないって思ってるのに。

私は付箋を握りしめて、画面に戻ろうとした。戻ろうとしたのに、指が止まる。

五分だけ。

五分なら、許される?

嫌われる理由にならない?

私は椅子を引いて立ち上がり、足音を立てないように廊下に出た。

廊下の窓は少し開いていて、冷たい風が頬に当たる。雨の匂い。街の灯り。遠くで車の音がする。

「……来ましたね」

瀬尾さんは、先にいた。先にいたけど、“待ってました”みたいな顔はしない。ほんの少しだけ、窓の外を見ているだけ。

その距離感が、いちばんずるい。

「すみません」

私は反射で言ってしまう。出勤の挨拶みたいに自然に。

「謝らなくていい」

「でも、忙しいのに……」

「僕も、五分欲しかった」

嘘か本当か、分からない言い方。でも、彼がそう言うだけで、私の肩が少し落ちた。呼吸が入ってくる。

静かな時間。窓の外の雨。

私は、彼の横顔を盗み見た。

整った顔立ち。淡い疲れ。きれいに結ばれたネクタイ。

そして――どこか、必死さ。

彼は淡々としているのに、なぜか必死に見える。何かを“間違えない”ようにしている人の必死さ。

「……瀬尾さん」

私が呼ぶと、彼はゆっくりこちらを見る。

「はい」

その返事が、丁寧すぎて怖い。

私は言いかけて、やめた。

“ありがとう”と言ったら、また許可になってしまう気がしたから。

“助かる”と言ったら、彼に寄ってしまう気がしたから。

だから代わりに、いちばん安全な言葉を選んだ。

「……もう大丈夫です」

言った瞬間、彼の目が、ほんの少しだけ細くなる。

怒ってない。責めてない。

でも――信じてない。

信じない、というより、“その言葉だけでは終わらせない”目。

「戻れますか」

「……はい」

彼は頷いて、先に歩き出す。歩幅は私に合わせて小さい。合わせているのが、優しいのに怖い。

戻りながら、私は思った。

この人は、私に「大丈夫」と言わせないようにしている。

優しく。丁寧に。逃げ道を残して。

――なのに、逃げないように。

編集部に入る直前、瀬尾さんが小さく言った。

「今日も、終電ですか」

私は心臓が跳ねた。

「……たぶん」

また“たぶん”。

彼は、それ以上聞かなかった。ただ一言だけ。

「終電の前に、二回だけ。呼吸、戻しましょう」

誰にも聞こえない声。指示じゃなくて、提案でもなくて――“一緒にやる”みたいな言い方。

私は、頷いてしまった。

この頷きも、許可だ。

許可を増やすたびに、私は彼を好きになる道に足を踏み入れている気がする。

嫌われたくないのに。

好きになりたい。

好きになったら、怖いのに。

それでも、私は今日も――彼の小さな付箋を捨てられなかった。
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