恋を間違えたくない僕は、君の“嫌われたくない”をほどく

星乃和花

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第4話 「大丈夫」を鵜呑みにしない(僕)

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彼女は、朝いちばんに席に着く。

誰より早いわけじゃない。遅いわけでもない。けれど、机の上が“仕事の形”になっていく速さが早い。パソコンを立ち上げ、メモを開き、赤ペンを置き、付箋を貼る。呼吸を整える代わりに、段取りを整える。

その手順の美しさに、僕は何度も救われている。

救われているのは、たぶん僕の方だ。

そして同時に、危ういとも思う。整えすぎて、身体の声を置き去りにする人のやり方だ。壊れる前に気づければいいけれど、彼女は壊れるまで「平気」を言う。

今日も、彼女は笑って言った。

「おはようございます。大丈夫です」

誰も聞いていないのに。

僕はそれを、聞かなかったことにしない。

――でも、正面から否定もしない。

否定は、彼女の“頑張り”を否定する形になる。そうすると彼女は、次からもっと上手に隠す。上手に隠されるのが一番困る。

だから、仕組みで渡す。

僕は自分の机に座り、メールを開いた。締切の一覧、印刷所の返事、先輩からの指示。そこに混じって、彼女の名前が何度も出てくる。

作業が偏っている。いつも偏る。偏るのは彼女が「できます」と言うからだ。

できる。できるけれど、できたあとに残るものがある。

僕はメモ帳を開いた。

書くのは、彼女の弱点じゃない。癖だ。呼吸が浅くなるタイミング、肩が上がる瞬間、声が少しだけ高くなる場面。彼女を“管理”するためではなく、彼女が嘘をつく前に、別の選択肢を差し出すため。

過去の僕は、言葉で迫って失敗した。

今回は、順番を守る。



昼前、電話が鳴った。

印刷所からの確認。写真素材の再提出。最悪なタイミングで、最悪じゃないように見えるトラブルが来る。先輩の声が少し荒くなる。

「今日中に差し替え!? ……わかった、こっちでやる」

彼女が立ち上がった。反射で。まるで自分の身体が“手を挙げる役”になっているみたいに。

「私、やります。大丈夫です」

言った瞬間、彼女の肩が上がった。息が浅い。視線がすでに走っている。頭の中で“すべきこと”が渋滞している。

僕は席を立った。

声は大きくしない。目立たせない。彼女を“助けられる人”にしない。

「差し替えは、僕がやります」

先輩がこちらを見る。

「瀬尾? できる?」

「はい。手順は同じです。彼女には、出典の再確認を優先してもらった方が確実です」

事実だけを言う。仕事の言葉にする。彼女が罪悪感を持ちにくい形にする。

先輩は頷いた。

「じゃあ、頼む。助かる」

彼女が何か言いかけた。いつもの「でも」が来る。僕は先に、彼女へ短い視線を送った。

“これは業務です”という合図。

彼女は一瞬だけ唇を開けて、閉じた。それから小さく頷く。

その頷きが、また許可になる。

許可が増えるのは、危険だ。僕が自分の感情を誤解しやすくなる。彼女の頷きを、特別扱いしたくなる。

だから僕は、淡々と作業に戻った。

差し替えは滞りなく終わった。数字を合わせ、ファイル名を統一し、送付して、確認を取り、記録を残す。こういうとき、手順は裏切らない。

でも――彼女の方は、手順だけでは戻らない。

ふと視線を上げると、彼女がキーボードの上で指を止めていた。止めたまま、画面を見ている。目の焦点が少しだけ遠い。

僕は、机の引き出しから小さな飴を出した。栄養補助みたいなもの。味は甘すぎない。口の中の乾きを戻すやつ。

そして、付箋を一枚。

「口、渇いてませんか。不要なら机の端に置いたままで」

不要なら、置いたままで。

彼女が受け取らなくても成立する形にする。これが一番大切だ。受け取らない自由があるとき、人は受け取りやすい。

彼女は付箋を見て、飴を見て、そして――困ったように笑った。

「……見てますね」

小さな声。責めではなく、照れに近い。

僕は事実だけ言う。

「見ます」

「……怖いです」

彼女は笑って言った。冗談に包んだ本音。

僕は、ここで冗談で返さない。

「怖いなら、やめます」

彼女の笑顔が一瞬止まる。止まってから、ゆっくり首を振った。

「やめないでください」

その言葉は、軽くない。

彼女自身も、言ってから気づいたみたいに瞬きをした。

僕の胸の奥が、危険な方向へ動いた。嬉しい、とか、安心、とか、そういう柔らかいものが、執着の形で手を伸ばしそうになる。

――落ち着け。

順番を守る。

僕は息をひとつ吐いて、少しだけ言葉を選ぶ。

「じゃあ、怖くない形にします」

“やめない”の代わりに、“形を変える”。

彼女は飴を一つ取り、袋を小さく鳴らして口に入れた。たったそれだけで、彼女の肩が少し下がった。

呼吸が戻る。

僕はそれを見て、心の中で確認した。

今のは成功。押していない。けれど、見逃していない。



夜が近づくと、編集部の空気はまた硬くなる。

締切が終わる気配がして、終わらない。誰かが笑って、笑えない。そういう時間帯がある。

彼女は、終電の前の顔をしていた。

顔というか、目だ。目が“帰らない予定”の形になっている。机の上の資料が、まだ山だ。山の高さが、彼女の「平気」を作っている。

僕は時計を見た。終電まで、あと一時間半。

彼女に「帰りましょう」は言わない。言うと彼女は謝る。そして「大丈夫」と言う。そして残る。残って、息が浅くなる。

だから、手順を変える。

まず、区切り。
次に、合流。
最後に、帰宅。

僕は机の横に立って、彼女の画面の端に視線を落とした。細かいチェック作業。集中が必要なやつだ。集中が必要なやつほど、人は自分の身体を忘れる。

「ここまで、あと何分ですか」

彼女が顔を上げる。

「えっと……二十分くらいで……」

二十分で終わる顔じゃない。こういうときの“二十分”は、四十分になる。六十分になる。終電を溶かす。

僕は、否定せずに言った。

「じゃあ二十分後、もう一回確認させてください」

確認。彼女の好きな言葉。仕事の言葉。

彼女は笑って頷いた。

「はい。大丈夫です」

出た。

僕は、その言葉を“信じない”のではなく、“終点にしない”。

「大丈夫なら、二十分後に一緒に五分、外の空気」

「え?」

「大丈夫でも、です」

彼女が少しだけ困った顔をする。困った顔のまま、頷く。

「……はい」

そのとき、僕は思った。

彼女は「嫌われたくない」から頷く。

僕は「失敗したくない」から整える。

似ている。どちらも怖がっている。だから、恋の進め方が歪む。

歪ませない。

僕は二十分後、時計通りに立ち上がった。彼女の机の横に立つ。声を落とす。

「今です」

彼女は赤ペンを置いて、立ち上がった。すぐに「すみません」が出そうな口元だったから、僕は先に言った。

「謝らないで」

「……はい」

廊下の窓。昨日と同じ位置。冷たい風。雨は小降りになっていた。街の音が薄い。

彼女が息を吸って、少しだけ肩が震えた。寒いのか、疲れなのか、分からない。

「寒いですか」

「平気です」

また、出る。

僕は頷いた。

「平気なら、なおさら。手、ここ」

僕は自分の胸のあたりを指で軽く示した。呼吸の位置。昨日の“二回だけ”の続き。触れない。押さない。ただ、場所を示す。

彼女は真似をして、胸に手を当てた。指先が少しだけ震えている。

「息、吐いて」

「……」

「二回でいい」

彼女はゆっくり吐いた。吐いて、また吐いた。肩が下がった。目の焦点が戻る。

僕は、その変化を見てから言った。

「戻れますか」

「……戻れます」

今度は“戻れます”。“大丈夫”ではない。

小さな違いが、大きい。

僕は頷いた。

「じゃあ戻りましょう。二十分、延長」

「え……」

彼女が驚いて僕を見る。延長、という言葉が、なぜか優しく響いたんだろう。終電を溶かす延長じゃなく、区切りの延長。

「区切ってから帰る方が、あなたが楽です」

彼女は口を開けて、閉じた。笑って頷いた。

「……はい」

その「はい」は、もう“嫌われたくない”だけじゃない。

少しだけ、“信じたい”が混じっている。

僕はそれに気づいて、胸が危険に温かくなった。

離れたくない、が出てくる。

だから、最後に一つだけ、自分に釘を刺す。

今日は、送りません。誘いません。駅まで一緒に行くのも、“施錠確認”という業務がある時だけ。

――そう決めた。

決めたのに。

編集部へ戻る扉の前で、彼女が小さく言った。

「瀬尾さん」

「はい」

「……私、迷惑じゃないですか」

その問いは、彼女の根っこだ。いつも隠している本音だ。

僕は、失敗したくない。

だから、言葉は慎重に選ぶ。重すぎても、軽すぎても、彼女は信じない。

「迷惑なら、僕はここまで整えません」

彼女の目が揺れた。

「整えるって……」

「僕の癖です」

僕はほんの少しだけ息を吐いて、正直を足した。

「……あなたに向けると、効きすぎるだけ」

彼女は笑った。笑って、でも目の奥が少しだけ濡れるみたいに柔らかくなった。

「……ありがとうございます」

その“ありがとう”は、今日いちばん危険だった。

僕の中の執着が、優しい顔のまま、手を伸ばす。

――もう少し。もう少しだけ。彼女の世界に居させてほしい。

僕は頷いて、扉を開けた。

「続き、行きましょう」

戻る。仕事に戻る。手順に戻る。

そして、終電の前に――彼女がまた「平気」を言う前に、僕は次の“区切り”を用意する。

彼女が嘘をつかなくても済むように。

彼女が「嫌われたくない」から自由になれるように。

それが、僕のやり方だ。

……それが、僕の執着だ。
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