スポットライトの外で、あなたを選ぶ

星乃和花

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第一話 スポットに拾われた指先

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この国では、通りが一本、舞台の袖に続いている。
あの日わたし—エリシア—は、夕刻の光と影のあいだに立っていた。街路樹の葉がときどき反射板のように輝き、足元の石畳は、照明の切り替えに合わせて淡い金色を帯びる。誰かの台詞に合わせて、遠くで弦の音が鳴った気がした。

わたしには、役がなかった。
王都に来たばかりの頃、「なりたい自分」を問われ続けて、答えられないたびに、舞台監理局のやさしい人たちがいくつもの台本を差し出してくれた。賢い書記、香りの配合が上手な調香師、星を読む案内人。どれも素敵で、どれもちがって、どれ一つとして、今のわたしにはぴったり来なかった。

「お探しの役が、まだ見つからないのですね」

あのとき袖で囁かれた声は、優しいプロンプターのものだった。
わたしは頷くしかできなかった。大勢の人が自分の夢の衣裳をまとい、きりりと結んだ靴紐の音までも台詞のように美しい。そんな舞台のまんなかで、わたしだけが白紙だなんて。光は、白をいちばん目立たせる。

だから、彼が目の前で片膝をついたとき、照明がわたしの指先を拾い上げるのがわかった。
彼—ルミエルは、完璧という言葉の輪郭でできていた。姿勢も、息の置き方も、声の低さも、どの瞬間も一度の失敗もない、という確信をまとっている。

「—結婚してください」

風もないのに、幕がわずかに揺れた。
周りの音響が、かすかに甘い和音を添える。どこかでベルが鳴る気配。見上げると、ルミエルの瞳は、照明の中でもなお、やわらかい光を自前で持っているみたいだった。

「……わたしで、良いのですか」

わたしの声は、台本の余白に書かれた鉛筆の線よりも細かった。
彼は微笑む。練習された完璧さでありながら、痛むほど優しい微笑み。

「あなたが良いのです。ずっと、あなたのような人に『はじめまして』と言いたくて練習してきました」

はじめまして。
その言葉だけが、稽古の外にある生の音に聞こえた。
彼は小さな箱を開く。舞台用の灯に映えて、指輪の石は夜空の端を切り取ったようにきらめく。観客のいない通りで、光はわたしたちだけのために角度を変えた。

「お名前を、うかがっても?」

「エリシア」

「ルミエルです。エリシア。どうぞ—わたしの妻になってください」

差し出された指輪に、わたしの右手が自然に重なる。
その瞬間、足もとに薄い金のラインが走り、まわりの空気が甘さを生む。遠くの鐘が合図を打ち、袖の影から黒衣の案内人が一歩だけ出る。ベルを傾け、にこやかに一礼した。

「誓いの成立を確認しました。おめでとうございます」

それは、物語のような出来事で、わたしの白紙のページに最初の一行が書かれた音だった。
——妻。
この国で一番、やさしくてあたたかい役。わたしは大きく息を吸い、胸の奥の空洞に、やっと布がかかるのを感じた。



ルミエルの家は、光の演出が控えめだった。
玄関の床はつややかな黒に近いグレーで、上質な舞台の袖に似ている。廊下を渡ると、白いレースのカーテンが揺れ、その向こうに、朝と夜の境目みたいな薄青い部屋があった。

「眩しすぎると、疲れてしまうでしょう?」
彼はティーカップを二つ並べ、湯気に指先をかざした。
「あなたの目に合う光を、ゆっくり探しましょう。強くも弱くも調整できます」

優しさが、明るさや温度で細やかに測られている。
ひとつひとつはありがたくて、やさしいのに、まとめて受け取ると、すこしだけ心が浮く。床から二センチほど上で停まって、軽く揺れる感じ。現実味というベルトが、どこかで外れてしまったみたいに。

「エリシア、寒くないですか」

「……大丈夫です」

わたしは微笑んだ。
演じようとしているわけではない。ただ、ここでの「妻」は、こんなふうに微笑むのだろうと思ったから。カップの縁に唇を当てると、音響は控えめに弦をひき、カーテンが舞台の幕みたいに呼吸している。

「ねえ、ルミエル。どうして、わたしに、あんなふうに」

問うている途中で、彼の指がわたしのカップの持ち手を支える。
一瞬、音がすとんと消えた。
完璧な所作の合間に、不意の素手のあたたかさが滑り込んで、わたしは息を忘れる。

「あなたが立っていた光が、とても静かだったから。派手な照明じゃなく、舞台のはじの、呼吸のような光。それが、わたしの憧れてきた『始まり』に見えた」

言葉は、練習で磨かれたものかもしれない。
けれど、今の一瞬の沈黙は、きっと稽古ではつくらない間だ。わたしの胸の空洞で、布がもう一枚、柔らかく落ちた気がした。

「ありがとう、ルミエル」

名前を呼ぶと、彼は目を細める。
甘い、けれど行き過ぎない明るさが、部屋の隅にだけ灯る。椅子の脚が床を鳴らす小さな音まで、舞台の効果音のようにきれいだ。

その夜、わたしたちは別々の寝室で眠った。
この国では、新しい役に体を馴染ませるための「静かな夜」が用意される。天井は低めで、枕元には薄いレースの影が落ちる。目を閉じると、幕の裾が頬に触れるくらいの近さで揺れていた。

—妻になった。
そう思うだけで、胸の中心に、優しい重さが生まれる。
台詞を覚える必要はない。ただ、そこにいて、差し出された手を受け取り、微笑む。わたしは安堵の中に沈みながら、けれど、沈み切れない場所が確かにあることを、うすうす知っていた。

あまりにも、やさしい。
やさしさは光で、甘さは音で、完璧は舞台の床みたいに平らで滑らか。そこに立つと、足の裏の皺までまっすぐに伸びてしまう。しあわせのはずなのに、どこかの筋肉が、自分の居場所を探している。

「……理想は、本当に、叶っているの?」

ごく小さな声で、天井のレースに向かって囁いた。
禁じられていることを知っていた。
次の瞬間、部屋の隅の照明がほんのわずかに明滅し、遠くのほうでハウリングのような微かな軋みが起こる。音響のシルクが、一本だけ、細く切れた音。

扉の向こう、廊下のカーペットを踏む足音がする。
ルミエルのものではない、軽い、影のある歩幅—舞台袖の案内人だ。ノックは要らない合図のはずなのに、今回はとても礼儀正しく、一度だけ、そっと扉を叩いた。

「どうか、良い夢を」

低くやわらかな声がした。
すぐに気配は消え、光は元のやさしさに戻る。
わたしは布団の端を握りしめ、目を閉じ直した。心臓の拍動に、まだほんの少し、舞台の足場がきしむ。

やがて眠りが来て、夢の中で、スポットライトはすこしだけ遠のいた。
暗転の向こうで、誰かが椅子を引く音がし、ティーカップが小さく触れ合う。
朝になれば、またやさしい光が当たるだろう。
けれど、今夜、わたしはひとつ知ってしまった。

幕は、風がなくても、揺れる。
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