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第四話 セリフにならない息
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朝は、昨夜の海をすこしだけ引きずっていた。
胸の奥で波がゆっくり往復し、ときどき、砂の粒の音がする。目を開けると、レースの影が天井に薄く敷かれていて、その模様の隙間から、実際の朝が覗いていた。演出の白ではない、少しだけ黄味を含んだ光。
キッチンから、陶器が触れ合う音がした。
舞台の効果音ほど美しくない、すこし不器用な音。昨夜の広場のベンチと同じ種類の現実だと思うと、わたしは知らないうちに微笑んでいた。
「おはよう、エリシア」
ルミエルは、ミルクと薄いトーストを用意していた。蜂蜜の瓶の蓋は、しっかり閉めてある。彼はわたしの視線に気づくと、苦笑いして肩をすくめた。
「昨日、こぼしたからね。気をつけた」
テーブルに向かい合って座る。
言葉を探す間、わたしは呼吸を整えた。吸う、四つ。留める、二つ。吐く、四つ。
その間合いが、部屋の空気の隅々まで伝わって、レースの影を柔らかく揺らす。音響は鳴らない。代わりに、わたしたちの呼吸が、部屋の音になる。
「今夜、招待が来ている」
ルミエルが、テーブル端に白い封筒を置いた。
「舞台監理局の“新婚の紹介夜会”。灯りが多くて、音も華やかだ。……行くかどうかは、君と決めたい」
封筒の紙は、昨日の確認票と同じ手触りだった。
差し込まれたカードには、銀の箔で装飾が施されている。煌びやかなスポットが想像できて、胸の海に、ひやりとした潮が差し込む。
「……ルミエルは、行きたい?」
わたしの声は、トーストの角で欠けるみたいに小さくなった。
彼は少しだけ考え、それから首を横に振った。
「俺は、君が眩しがるなら行きたくない。
わたしは、きっと行きたいと言うはずだ。
どちらの僕も、僕だ」
“俺”と“わたし”が、彼の唇で入れ替わる。
その差し替えの音が、演技の切り替えではなく、選び直しの音に聞こえて、わたしは胸のどこかを撫でられた気持ちになった。
言葉を探す。
けれど、昨夜から、言葉は少し重くなっている。重さは嫌な種類ではなく、塩みたいに、要るものとして沈んでいる。
わたしは、代わりに、呼吸を一つ、深く吐いた。床に届くくらい深く。
ルミエルは、わたしの吐息の長さを数えるように目を細め、うなずいた。
「今のが返事だね」
「……うん」
「じゃあ、今夜は行かない。夜会の招待は、空白で置いておく」
彼は封筒を開けずに、箱の上に置いた。
未開封の封筒は、部屋の片隅で、息をしているように見えた。書く前の紙が持つ、あの静かな鼓動。
「呼吸、合わせてみる?」と彼が提案した。
「幕間の誓い、形にしておきたい」
わたしたちは椅子を少し近づけた。
膝が、テーブルの下でそっと触れる。
彼が四拍で吸うのを見て、わたしも四拍で吸う。二拍留めて、四拍で吐く。
二度、三度。
やがて、わたしたちの胸が、同じタイミングで膨らんで、同じタイミングで沈んだ。
セリフにならない誓いが、口の外側で、確かな形を取っていく。
そのとき。
レースの裾が、風もないのに、ほんのすこしだけ揺れた。
案内人の気配。廊下を軽く踏む足音が、扉の外で止まる。ノックはない。
代わりに、ドアの下の隙間から、細長い紙片が一枚、するりと滑り込んだ。
拾い上げると、文字はない。
ただ、紙の端に小さな穴があって、白い糸が結べるようになっている。
裏には、小さな印だけが押されていた。
——呼吸は台詞ではありません。是正の対象外。
誰かが優しく規則に穴をあけたような、見逃しの印。
「結ぶ?」
ルミエルが、袖のボタンを思い出したように言った。
わたしは頷き、引き出しから細い糸を出す。昨夜、外したまま掌に残していたボタンを、糸に通す。
紙片とボタンを一緒に結ぶと、小さなお守りになった。
音は鳴らない。でも、触れると、呼吸の長さが指先で思い出せる。
ルミエルは、そのお守りを、寝室のドアノブにかけた。
「ここを通るとき、毎回、息を思い出す」
朝食のあと、わたしたちは部屋の掃除をした。
箒のこすれるざらついた音、布巾の絞りが甘く鳴る音、椅子の脚が床を軽く引っかく音。どれも、舞台の音響なら消されてしまう種類の音。
それらが重なるうちに、わたしの中の海が、音のない満潮になっていく。
言葉はますます出てこない。
けれど、苦しくはない。
息を吐くたびに、胸の奥の白紙に、透明の文字が書かれていく。
昼過ぎ、わたしはカーテンの陰で、小さなうたたねをした。
夢のなかで、舞台の幕が上がる。観客はいない。
プロンプターが袖から顔を出し、指で口元に静かの合図を作った。
――黙っていて、大丈夫です。
その無声の台詞が、夢のなかで、いちばん大きく聞こえた。
目を覚ますと、ルミエルが本を読んでいた。
読み上げはしない。ただ、ページをめくる紙の音だけを、わたしに分けてくれる。
わたしは向かいの椅子に座り、彼の袖のほつれが、そのままになっているのを確かめる。
直さないで、という昨夜の約束が、今日も続いている。
「エリシア」
顔を上げると、彼は本を閉じ、指先で自分の胸のあたりを指した。
「ここが、昨夜から静かだ」
「……静か?」
「うるさい完璧の音が減って、代わりに、君の息が入ってきた。
それが、どうしようもなく、うれしい」
わたしは、何かを言おうとして、言えなくて、代わりに息を長く吐いた。
その吐息が、返事だった。うまく言えない日、わたしの“はい”は、こうして空気に混ざる。
ルミエルはそれを受け取るのが上手だった。
「うん。はい、だね」
夕方。
玄関の外で、子どもたちの笑い声が跳ねた。舞台の笑い声と違って、タイミングが揃っていない。三人が三様に笑うから、重なったところにだけ、たまたま小さな和音ができる。
わたしとルミエルは、窓辺でその音を聴いた。
誰も、合図を出さない。
誰も、拍子木を打たない。
それでも、世界は、たまたまで、けっこう綺麗に鳴る。
「ねえ」
やっと声がやってきた。
「わたし、台詞がない日でも、あなたの隣に座っていていい?」
「もちろん」
即答。
「台詞がない日は、台詞がないままが正しい日だ。
俺は、その日に君と並んで座る練習を、これからもしたい」
胸が熱くなる。
涙がほんの少し滲んで、レースの影がにじむ。
わたしはうなずいた。声はもう要らなかった。
夜会の時刻、遠くで華やかな音響が立ち上がった。
わたしたちの家までは届かない。
レースは静かに垂れ、ドアノブのお守りが微かに揺れた。
封筒は未開封のまま、箱の上にいる。
「おやすみ、エリシア」
「……おやすみ、ルミエル」
寝室に入る前、わたしはお守りにそっと触れた。
紙片の穴、結び目、ボタンの小さな縁。
セリフにならない息を、そのまま胸に運ぶ。
幕は、風がなくても、わずかに揺れる。
でも今夜、それは是正の合図ではなく、休演日のカーテンコールに見えた。
目を閉じる。
暗闇の中で、わたしの呼吸と、ルミエルの呼吸が、壁二枚を隔てて同じ拍で進む。
スポットライトの外で、わたしたちは確かに並んでいる。
言葉のない台本に、息の行間だけが、やさしく増えていった。
胸の奥で波がゆっくり往復し、ときどき、砂の粒の音がする。目を開けると、レースの影が天井に薄く敷かれていて、その模様の隙間から、実際の朝が覗いていた。演出の白ではない、少しだけ黄味を含んだ光。
キッチンから、陶器が触れ合う音がした。
舞台の効果音ほど美しくない、すこし不器用な音。昨夜の広場のベンチと同じ種類の現実だと思うと、わたしは知らないうちに微笑んでいた。
「おはよう、エリシア」
ルミエルは、ミルクと薄いトーストを用意していた。蜂蜜の瓶の蓋は、しっかり閉めてある。彼はわたしの視線に気づくと、苦笑いして肩をすくめた。
「昨日、こぼしたからね。気をつけた」
テーブルに向かい合って座る。
言葉を探す間、わたしは呼吸を整えた。吸う、四つ。留める、二つ。吐く、四つ。
その間合いが、部屋の空気の隅々まで伝わって、レースの影を柔らかく揺らす。音響は鳴らない。代わりに、わたしたちの呼吸が、部屋の音になる。
「今夜、招待が来ている」
ルミエルが、テーブル端に白い封筒を置いた。
「舞台監理局の“新婚の紹介夜会”。灯りが多くて、音も華やかだ。……行くかどうかは、君と決めたい」
封筒の紙は、昨日の確認票と同じ手触りだった。
差し込まれたカードには、銀の箔で装飾が施されている。煌びやかなスポットが想像できて、胸の海に、ひやりとした潮が差し込む。
「……ルミエルは、行きたい?」
わたしの声は、トーストの角で欠けるみたいに小さくなった。
彼は少しだけ考え、それから首を横に振った。
「俺は、君が眩しがるなら行きたくない。
わたしは、きっと行きたいと言うはずだ。
どちらの僕も、僕だ」
“俺”と“わたし”が、彼の唇で入れ替わる。
その差し替えの音が、演技の切り替えではなく、選び直しの音に聞こえて、わたしは胸のどこかを撫でられた気持ちになった。
言葉を探す。
けれど、昨夜から、言葉は少し重くなっている。重さは嫌な種類ではなく、塩みたいに、要るものとして沈んでいる。
わたしは、代わりに、呼吸を一つ、深く吐いた。床に届くくらい深く。
ルミエルは、わたしの吐息の長さを数えるように目を細め、うなずいた。
「今のが返事だね」
「……うん」
「じゃあ、今夜は行かない。夜会の招待は、空白で置いておく」
彼は封筒を開けずに、箱の上に置いた。
未開封の封筒は、部屋の片隅で、息をしているように見えた。書く前の紙が持つ、あの静かな鼓動。
「呼吸、合わせてみる?」と彼が提案した。
「幕間の誓い、形にしておきたい」
わたしたちは椅子を少し近づけた。
膝が、テーブルの下でそっと触れる。
彼が四拍で吸うのを見て、わたしも四拍で吸う。二拍留めて、四拍で吐く。
二度、三度。
やがて、わたしたちの胸が、同じタイミングで膨らんで、同じタイミングで沈んだ。
セリフにならない誓いが、口の外側で、確かな形を取っていく。
そのとき。
レースの裾が、風もないのに、ほんのすこしだけ揺れた。
案内人の気配。廊下を軽く踏む足音が、扉の外で止まる。ノックはない。
代わりに、ドアの下の隙間から、細長い紙片が一枚、するりと滑り込んだ。
拾い上げると、文字はない。
ただ、紙の端に小さな穴があって、白い糸が結べるようになっている。
裏には、小さな印だけが押されていた。
——呼吸は台詞ではありません。是正の対象外。
誰かが優しく規則に穴をあけたような、見逃しの印。
「結ぶ?」
ルミエルが、袖のボタンを思い出したように言った。
わたしは頷き、引き出しから細い糸を出す。昨夜、外したまま掌に残していたボタンを、糸に通す。
紙片とボタンを一緒に結ぶと、小さなお守りになった。
音は鳴らない。でも、触れると、呼吸の長さが指先で思い出せる。
ルミエルは、そのお守りを、寝室のドアノブにかけた。
「ここを通るとき、毎回、息を思い出す」
朝食のあと、わたしたちは部屋の掃除をした。
箒のこすれるざらついた音、布巾の絞りが甘く鳴る音、椅子の脚が床を軽く引っかく音。どれも、舞台の音響なら消されてしまう種類の音。
それらが重なるうちに、わたしの中の海が、音のない満潮になっていく。
言葉はますます出てこない。
けれど、苦しくはない。
息を吐くたびに、胸の奥の白紙に、透明の文字が書かれていく。
昼過ぎ、わたしはカーテンの陰で、小さなうたたねをした。
夢のなかで、舞台の幕が上がる。観客はいない。
プロンプターが袖から顔を出し、指で口元に静かの合図を作った。
――黙っていて、大丈夫です。
その無声の台詞が、夢のなかで、いちばん大きく聞こえた。
目を覚ますと、ルミエルが本を読んでいた。
読み上げはしない。ただ、ページをめくる紙の音だけを、わたしに分けてくれる。
わたしは向かいの椅子に座り、彼の袖のほつれが、そのままになっているのを確かめる。
直さないで、という昨夜の約束が、今日も続いている。
「エリシア」
顔を上げると、彼は本を閉じ、指先で自分の胸のあたりを指した。
「ここが、昨夜から静かだ」
「……静か?」
「うるさい完璧の音が減って、代わりに、君の息が入ってきた。
それが、どうしようもなく、うれしい」
わたしは、何かを言おうとして、言えなくて、代わりに息を長く吐いた。
その吐息が、返事だった。うまく言えない日、わたしの“はい”は、こうして空気に混ざる。
ルミエルはそれを受け取るのが上手だった。
「うん。はい、だね」
夕方。
玄関の外で、子どもたちの笑い声が跳ねた。舞台の笑い声と違って、タイミングが揃っていない。三人が三様に笑うから、重なったところにだけ、たまたま小さな和音ができる。
わたしとルミエルは、窓辺でその音を聴いた。
誰も、合図を出さない。
誰も、拍子木を打たない。
それでも、世界は、たまたまで、けっこう綺麗に鳴る。
「ねえ」
やっと声がやってきた。
「わたし、台詞がない日でも、あなたの隣に座っていていい?」
「もちろん」
即答。
「台詞がない日は、台詞がないままが正しい日だ。
俺は、その日に君と並んで座る練習を、これからもしたい」
胸が熱くなる。
涙がほんの少し滲んで、レースの影がにじむ。
わたしはうなずいた。声はもう要らなかった。
夜会の時刻、遠くで華やかな音響が立ち上がった。
わたしたちの家までは届かない。
レースは静かに垂れ、ドアノブのお守りが微かに揺れた。
封筒は未開封のまま、箱の上にいる。
「おやすみ、エリシア」
「……おやすみ、ルミエル」
寝室に入る前、わたしはお守りにそっと触れた。
紙片の穴、結び目、ボタンの小さな縁。
セリフにならない息を、そのまま胸に運ぶ。
幕は、風がなくても、わずかに揺れる。
でも今夜、それは是正の合図ではなく、休演日のカーテンコールに見えた。
目を閉じる。
暗闇の中で、わたしの呼吸と、ルミエルの呼吸が、壁二枚を隔てて同じ拍で進む。
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