スポットライトの外で、あなたを選ぶ

星乃和花

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第五話 是正のベル

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昼のはずなのに、家の中は舞台の「幕間」に似ていた。
レースは浅く呼吸し、テーブルの端では白紙がひかえめに光を受けている。寝室のドアノブには、紙片とボタンで作った小さなお守り。触れるたび、呼吸の長さが思い出される。

鐘の音が、一度だけ、遠くで鳴った。
祝祭の鐘ではない。演目の切り替えを知らせる、薄い金の音。
わたしが顔を上げるより早く、玄関の向こうで柔らかな足音が止まり、ルミエルが扉を開けた。

「失礼します」
黒衣の案内人が、片手に小さな手鈴を提げて立っていた。
鐘を伏せるように持ち、鳴らす気配を隠している。
「生活の巡回です。……昨夜、照明の弱い区画にいらしたとか」

「はい」
ルミエルが答える。声色はわたしと俺の中間、幕の縁に立つような深さだった。
案内人は視線だけで室内をひとめぐりし、ドアノブのお守りに気づくと、わずかに目尻を和らげた。

「呼吸は台詞ではありません。是正の対象外」
彼は無言のまま、その印を思い出させるように頷いてから、手鈴をわずかに持ち上げた。
「とはいえ、形式がありまして。是正のベルを一度だけ鳴らします。これは罰ではありません。立ち止まる合図です」

「立ち止まる“間”に、だいたい正しいことが起きる」
ルミエルが、以前の忠告を繰り返す。
案内人は微笑んだ。
「ええ。覚えていてくださっている。——鳴らします」

彼は手首をほんの下へ返し、一打だけ、短い音を落とした。
からん、と乾いた銀。
舞台の巨大な鐘と違って、家の空気にだけ届く小さな音。
その一秒のあいだに、わたしとルミエルは、息をあわせて吸って、留めて、吐いた。
ベルが指す「立ち止まり」を、呼吸で受け取る。

「ありがとうございます」
ルミエルが頭を下げると、案内人は次の鈴を鳴らさずに手の中で反転させ、持ち手をわたしたちのほうへ差し出した。

「——お預けします」
「え?」
「是正のベルは、是正のためだけにあるわけではありません。
 必要を感じたとき、ご自分で鳴らしてください。
 ただし、一日一回まで。鳴らした理由は書かなくて大丈夫。空白は、きちんと記録になります」

手のひらに、冷たい重さが移った。
ベルの口には薄い布が一枚貼られていて、音色がやさしく抑えられている。
案内人は、玄関敷居の線で一礼した。

「光が強い夜会は、今夜も続きます。……行かれないなら、それもまた選択です。
 幕が風もないのに揺れたら、立ち止まって。
 それでは、良い午後を」

扉が閉まると、家はふたたび「幕間」に戻った。
ルミエルはベルを掌で包み、指先で布の縁を確かめる。
「鈍い音にしてある。響きすぎないように」
「……優しいね」

テーブルの白紙が、空白のままで記録になるという言葉を思い出して静かに震えた。
わたしはドアノブのお守りに触れ、それから、ベルに頬を寄せた。冷たさはすぐに溶け、金属は体温で少しだけ曇る。

「鳴らしてみる?」
「ううん。今は、鳴らさないで置いてみたい」
「理由は?」
「理由を、空白にしたいから」

ルミエルの目が笑った。
「いいね。空白の記録」

午後、市場に出た。
青や薄桃の天幕がかかり、果物の匂いが街路の石をあたためる。
演出の弦は最小限で、各店の呼び声が少しだけ不揃いに重なる。
わたしたちは手をつなぎ、遠回りしながら歩いた。

「これ、君に似合う」
ルミエルが立ち止まったのは、素朴な指輪を扱う小さな屋台の前だった。
舞台の宝飾と違い、曇りガラスみたいな小石が、光をやわらかく濁して返す。
彼は一番小さな石のついた細い輪を取って、わたしの指にそっと当てる真似をしただけで、すぐに手を引いた。

「今は、当てるだけ」
「どうして?」
「君の歩幅を待つのが、嬉しくなってきたから」

胸のなかで、音が一度、跳ねた。
買わない選択が、拒絶ではなく、待つ喜びとして置かれる。
屋台の主は何も言わず、わたしたちの前に布袋を差し出した。
「気が向いたら、石を入れておき。持ち運べる“未定”だよ」

布袋の口は小さく、石を一つだけ入れると、ちょうど手の中でおさまる重さになった。
わたしは礼を言い、布袋をベルと同じポケットにしまう。未定と立ち止まりが、隣り合って揺れた。

家へ戻る角で、幕がいちど、見えない裾を揺らした。
案内人の言葉を思い出し、わたしたちは立ち止まる。
理由はわからない。
ただ、立ち止まった“間”に、向こうの路地から子どもの泣き声がして、すぐに笑い声に変わった。
世界が、自分で調律した。

「……鳴らさなくて、よかった」
「うん。立ち止まるだけで、足りた」

玄関で靴を脱ぐと、ルミエルがベルを台所の壁の低い位置に掛けた。
「高いところにあると、是正のために鳴らすみたいになる。ここなら、手で届く理由になる」

夕餉の支度は簡単に済ませた。
スープの表面がふわりと持ち上がり、湯気がレースの影に紋様を足す。
食後、わたしたちはいつもの椅子に座って、砂時計を伏せ、言葉の少ない時間を落としていった。

やがて、胸の海が満ち、わたしは禁句の岸を指で撫でるように口を開いた。
「ねえ、ルミエル」
「うん」
「“叶った”って言葉、たまに……都合よく聞こえるの。誰かの台詞を借りて、うまく辻褄を合わせているみたいに」

言い終えた瞬間、部屋の隅で、光がわずかに瞬いた。
レースの裾が、風もないのに、ほんの短い距離だけ震える。
わたしは反射でベルに手を伸ばしかけ、踏みとどまった。
立ち止まる。吸う、留める、吐く。
ルミエルも息で合わせ、肩の力を抜いた。

「——エリシア」
彼の声は静かで、低かった。
「俺は、君がそう言える場所に、一緒に居たい。
 そして、君がそう言ったあとに、俺の好きが別の好きに塗り替わっていくのを、ここで見ていたい」

彼は立ち上がり、壁のベルを鳴らさずに、そっと手で包んだ。
鈍い金の冷たさが、彼の掌であたたまる。
「鳴らしてもいい。けれど今は、鳴らさずに持っていたい」
「どうして」
「君の言葉は、是正の対象じゃない。俺は、それを覚えるために立ち止まりたい」

涙が少し、目の縁を濡らした。
泣きたいのではない。水位が上がって、光が屈折しただけ。
わたしは椅子から立ち、彼のそばに並んだ。
ベルの冷たさと、彼の体温が、同じ掌にいた。
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
けれど、言えない部分まで、いまのわたしたちは、たしかに共有できていた。

夜が深くなると、レースの影は床から壁を上り、天井で薄く重なった。
寝室に入る前、わたしはドアノブのお守りに触れ、それからポケットの布袋を取り出した。
中の曇り石は、灯りを濁して返す。
「いつか、これに交換しようか」
「今でも、いつかでも。未定のまま、持っていよう」

ルミエルはそう言って笑い、わたしの額に唇を落とした。
舞台で何度も見た仕草なのに、今は反射板がないから、音が鳴らない。
鳴らない音は、身体の内側でだけ、小さく拍を打った。

寝室の扉が閉まる直前、廊下の空気が、ほんのわずかに揺れた。
案内人の気配かもしれない。
でもノックはなかった。
代わりに、壁の低い位置で、鳴らされなかったベルが、冷たいまま、静かに在った。

目を閉じる。
今夜は、幕が揺れても、合図を手放す合図は鳴らない。
立ち止まることそのものが、わたしたちの選んだ誓いの形になったから。
スポットライトの外で、呼吸の拍だけが、やわらかく数えられていく。
空白は、ちゃんと記録される。
そして、空白のぶんだけ、好きは静かに増えていった。
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