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第六話 甘さの過密
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昼前、玄関のポストに、薄い金糸で縁取られたカードが入っていた。
祝福回廊—新婚優待。
回廊の天蓋から砂糖菓子の花びらが降り、弦の四重奏がついて歩くという。道すがら、店の人々が「理想のご夫婦へ」と甘い一言を手渡してくれるらしい。
カードを読み終える前に、ルミエルがわたしの顔色を見た。
「眩しいかな」
少しだけ、頷く代わりに息を吐く。
でも、わたしは言った。
「……歩いてみたい。外の甘さを、わたしたちの呼吸で薄められるか、試してみたい」
ルミエルは迷い、俺で頷いた。
「わかった。行こう。ただ、苦しくなったら、立ち止まる。帰る。鳴らさずに済むなら、それがいちばんいい」
*
祝福回廊は、街の主通りの一本裏だった。
薄桃の天蓋、金の紙吹雪、白いリボン。
歩き出すと、すぐにヴァイオリンが追ってくる。音は甘く、層が多い。蜂蜜を高くから注いだときの、糸が幾重にも重なる感じ。
店先では、焼き菓子に粉砂糖がかかり、店主が「お幸せに」と決め台詞を渡す。
「あなたの瞳は星明かり」「あなたの笑顔は春一番」——きれいで、練習された褒め言葉。
甘さは、最初、うれしい。
でも、すぐ密度のほうが勝つ。
わたしの胸の海が、粘くなる。波の返しが遅くなって、呼吸の拍が絡まった。
四重奏は音を重ねすぎる。拍と拍の間に、空白が入る余地がない。
「エリシア」
ルミエルの声は、楽隊に飲まれないように少しだけ強くなる。
「立ち止まろう」
わたしたちは店と店の間の影に入った。
吸って、留めて、吐く。
それだけなのに、海はすこしサラサラに戻る。
演出の甘さの糸が、呼吸の拍で切り分けられていく。
そこへ、回廊の係の人が笑顔で近づいてきた。
白い手袋、光る歯。
「新婚の誓い、収録させていただけますか? 皆さまの幸せのモデルとして——」
ルミエルが、わずかに「わたし」の声色で口を開く。
わたしは、その瞬間、腕を軽く引いた。
彼はすぐ、声色を「俺」に戻して微笑んだ。
「今日は、幕間なんです。収録はまた今度にさせてください」
係は目を瞬かせ、台本を探すふうに視線を泳がせ、それからにこやかに引いた。「承知しました」と、音楽の方へ合図を送る。楽隊の音量がひとつ下がった。
歩き出す。
だけど、甘さは回廊じゅうからにじんでくる。
飴細工の鳥、砂糖漬けの花弁、祝詞。
ルミエルが、いつになく善い紳士になっていくのがわかる。
歩幅を合わせ、扉を押さえ、椅子を引き、甘い水を渡し——動作が重なるたびに、部屋いっぱいに薔薇を詰め込むような息苦しさが増える。
「……ごめん」
わたしが言うより先に、彼が言った。
「過密になってる。君の顔が、白になる」
白。光が過剰な場所で、わたしの肌が白紙に戻っていく。
わたしは首を振って、彼の袖のほつれに指を入れた。直さないと決めた、小さな穴。
そこに指先を留めて、吸って、留めて、吐く。
袖口は舞台に出ない、素の呼吸口だった。
「帰ろう」
「うん」
そのとき、天蓋の端で、風もないのに布がひと筋だけ揺れた。
楽隊の音がさらに一段、薄くなる。
通りの角で、黒衣の案内人が、人込みの外に立っていた。
目が合う。彼は、胸の前で空白の四角を指で作り、ゆっくり押し広げるような仕草をした。
——空けて。
わたしたちは頷き、回廊の脇道へそれた。
*
家に戻ると、空気は薄いスープみたいに軽かった。
ルミエルは、玄関で靴紐をほどく指を止め、壁の低い位置に掛けたベルを見た。
「……鳴らす?」
「鳴らしたい」
初めてだった。
一日一回だけ許された自分たちの合図。
わたしはベルの冷たさを確かめ、布の貼られた口を下にして、一打。
からん。
家の空気にだけ届く、鈍い銀。
甘さの層が、音の輪でほどけるのがわかった。
「理由は、書かなくて良い」
ルミエルが言い、テーブルの白紙の横にベルを置き直した。
白紙は、空白の記録として微かに光る。
わたしはポケットから布袋を出した。
曇り石を指で転がす。
「……今夜、当てるだけする?」
「うん。君が苦しくなければ」
夕餉のあと、砂時計を伏せ、灯りを落とす。
わたしは布袋から石を出し、細い輪を右手の薬指にそっと当てた。
舞台の指輪ほどは冷たくない。
光を濁して返すせいで、わたしの皮膚の色がそのまま残る。
息が、すこし楽になる。
「……それ、いい」
ルミエルの声が低く、やわらかい。
「ね。……でも、通さない。今日は、当てるだけ」
「うん。当てるだけ」
わたしたちは椅子を近づけ、背もたれに肩を預けた。
言葉はほとんど出てこない。
砂の粒が、不揃いに落ちる音だけが、部屋の拍を作る。
やがて、わたしは輪を外し、布袋に戻した。
未定は未定のまま、今夜の端を温める。
「……エリシア」
ルミエルが、袖のほつれを指先で摘みながら言った。
「俺は、君が甘さで苦しくなると、怖くて、紳士を重ねてしまう。
でも、それは薔薇を詰め込みすぎることだって、今日、やっと身体でわかった」
「わたしも。
“叶った”って言葉に合わせようとして、白になってしまう」
言いながら、わたしは彼の手の甲に額を置いた。
音が鳴らない。
反射板も、効果音もない。
皮膚の向こうのゆっくりした拍だけが、舞台の外で鳴る。
「甘さ、減らそう」
「うん。
甘さは、欲しいときに、欲しい分だけ。
ない夜は、ないままで」
それから少しして、廊下でレースが揺れた。
案内人がノックをしない代わりに、小さな白い紙片が、扉の下をするりと通った。
——“減らす”は、喪失ではありません。空きが、生まれるだけです。
印はなく、署名欄もない。
ただ、紙の真ん中に穴がひとつ開いている。糸を通せば、またお守りになる。
わたしは穴に糸を通し、蜂蜜の瓶の蓋に結わえた。
「これ、こぼしそうになったら思い出す印にする」
ルミエルが笑う。
「いいね。君の発明は、いつも実用に寄ってくる」
寝室に向かう前、ベルに一瞥を渡す。
今日は鳴らした。もう鳴らさない。
代わりに、立ち止まり方を身体に覚えさせる。
吸って、留めて、吐く。
幕は、風がなくても、ほんの少し揺れる。
でも今夜、その揺れは——詰め込みすぎた花を、そっとほどく合図に見えた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、わたしとルミエルの呼吸は、再び同じ拍で進む。
スポットライトの外、甘さは必要量へ。
空いたぶんに、やわらかな余白が生まれ、その余白に、新しい好きがまたひとつ、静かに沈んでいった。
祝福回廊—新婚優待。
回廊の天蓋から砂糖菓子の花びらが降り、弦の四重奏がついて歩くという。道すがら、店の人々が「理想のご夫婦へ」と甘い一言を手渡してくれるらしい。
カードを読み終える前に、ルミエルがわたしの顔色を見た。
「眩しいかな」
少しだけ、頷く代わりに息を吐く。
でも、わたしは言った。
「……歩いてみたい。外の甘さを、わたしたちの呼吸で薄められるか、試してみたい」
ルミエルは迷い、俺で頷いた。
「わかった。行こう。ただ、苦しくなったら、立ち止まる。帰る。鳴らさずに済むなら、それがいちばんいい」
*
祝福回廊は、街の主通りの一本裏だった。
薄桃の天蓋、金の紙吹雪、白いリボン。
歩き出すと、すぐにヴァイオリンが追ってくる。音は甘く、層が多い。蜂蜜を高くから注いだときの、糸が幾重にも重なる感じ。
店先では、焼き菓子に粉砂糖がかかり、店主が「お幸せに」と決め台詞を渡す。
「あなたの瞳は星明かり」「あなたの笑顔は春一番」——きれいで、練習された褒め言葉。
甘さは、最初、うれしい。
でも、すぐ密度のほうが勝つ。
わたしの胸の海が、粘くなる。波の返しが遅くなって、呼吸の拍が絡まった。
四重奏は音を重ねすぎる。拍と拍の間に、空白が入る余地がない。
「エリシア」
ルミエルの声は、楽隊に飲まれないように少しだけ強くなる。
「立ち止まろう」
わたしたちは店と店の間の影に入った。
吸って、留めて、吐く。
それだけなのに、海はすこしサラサラに戻る。
演出の甘さの糸が、呼吸の拍で切り分けられていく。
そこへ、回廊の係の人が笑顔で近づいてきた。
白い手袋、光る歯。
「新婚の誓い、収録させていただけますか? 皆さまの幸せのモデルとして——」
ルミエルが、わずかに「わたし」の声色で口を開く。
わたしは、その瞬間、腕を軽く引いた。
彼はすぐ、声色を「俺」に戻して微笑んだ。
「今日は、幕間なんです。収録はまた今度にさせてください」
係は目を瞬かせ、台本を探すふうに視線を泳がせ、それからにこやかに引いた。「承知しました」と、音楽の方へ合図を送る。楽隊の音量がひとつ下がった。
歩き出す。
だけど、甘さは回廊じゅうからにじんでくる。
飴細工の鳥、砂糖漬けの花弁、祝詞。
ルミエルが、いつになく善い紳士になっていくのがわかる。
歩幅を合わせ、扉を押さえ、椅子を引き、甘い水を渡し——動作が重なるたびに、部屋いっぱいに薔薇を詰め込むような息苦しさが増える。
「……ごめん」
わたしが言うより先に、彼が言った。
「過密になってる。君の顔が、白になる」
白。光が過剰な場所で、わたしの肌が白紙に戻っていく。
わたしは首を振って、彼の袖のほつれに指を入れた。直さないと決めた、小さな穴。
そこに指先を留めて、吸って、留めて、吐く。
袖口は舞台に出ない、素の呼吸口だった。
「帰ろう」
「うん」
そのとき、天蓋の端で、風もないのに布がひと筋だけ揺れた。
楽隊の音がさらに一段、薄くなる。
通りの角で、黒衣の案内人が、人込みの外に立っていた。
目が合う。彼は、胸の前で空白の四角を指で作り、ゆっくり押し広げるような仕草をした。
——空けて。
わたしたちは頷き、回廊の脇道へそれた。
*
家に戻ると、空気は薄いスープみたいに軽かった。
ルミエルは、玄関で靴紐をほどく指を止め、壁の低い位置に掛けたベルを見た。
「……鳴らす?」
「鳴らしたい」
初めてだった。
一日一回だけ許された自分たちの合図。
わたしはベルの冷たさを確かめ、布の貼られた口を下にして、一打。
からん。
家の空気にだけ届く、鈍い銀。
甘さの層が、音の輪でほどけるのがわかった。
「理由は、書かなくて良い」
ルミエルが言い、テーブルの白紙の横にベルを置き直した。
白紙は、空白の記録として微かに光る。
わたしはポケットから布袋を出した。
曇り石を指で転がす。
「……今夜、当てるだけする?」
「うん。君が苦しくなければ」
夕餉のあと、砂時計を伏せ、灯りを落とす。
わたしは布袋から石を出し、細い輪を右手の薬指にそっと当てた。
舞台の指輪ほどは冷たくない。
光を濁して返すせいで、わたしの皮膚の色がそのまま残る。
息が、すこし楽になる。
「……それ、いい」
ルミエルの声が低く、やわらかい。
「ね。……でも、通さない。今日は、当てるだけ」
「うん。当てるだけ」
わたしたちは椅子を近づけ、背もたれに肩を預けた。
言葉はほとんど出てこない。
砂の粒が、不揃いに落ちる音だけが、部屋の拍を作る。
やがて、わたしは輪を外し、布袋に戻した。
未定は未定のまま、今夜の端を温める。
「……エリシア」
ルミエルが、袖のほつれを指先で摘みながら言った。
「俺は、君が甘さで苦しくなると、怖くて、紳士を重ねてしまう。
でも、それは薔薇を詰め込みすぎることだって、今日、やっと身体でわかった」
「わたしも。
“叶った”って言葉に合わせようとして、白になってしまう」
言いながら、わたしは彼の手の甲に額を置いた。
音が鳴らない。
反射板も、効果音もない。
皮膚の向こうのゆっくりした拍だけが、舞台の外で鳴る。
「甘さ、減らそう」
「うん。
甘さは、欲しいときに、欲しい分だけ。
ない夜は、ないままで」
それから少しして、廊下でレースが揺れた。
案内人がノックをしない代わりに、小さな白い紙片が、扉の下をするりと通った。
——“減らす”は、喪失ではありません。空きが、生まれるだけです。
印はなく、署名欄もない。
ただ、紙の真ん中に穴がひとつ開いている。糸を通せば、またお守りになる。
わたしは穴に糸を通し、蜂蜜の瓶の蓋に結わえた。
「これ、こぼしそうになったら思い出す印にする」
ルミエルが笑う。
「いいね。君の発明は、いつも実用に寄ってくる」
寝室に向かう前、ベルに一瞥を渡す。
今日は鳴らした。もう鳴らさない。
代わりに、立ち止まり方を身体に覚えさせる。
吸って、留めて、吐く。
幕は、風がなくても、ほんの少し揺れる。
でも今夜、その揺れは——詰め込みすぎた花を、そっとほどく合図に見えた。
灯りを落とす。
暗闇の中で、わたしとルミエルの呼吸は、再び同じ拍で進む。
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