愛を知らずに愛を乞う

藤沢ひろみ

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64.近付く距離

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 半ば突き飛ばすような形で祥月の腕が離れ、祥月がベッドに倒れ込んだ。
 王族に暴力を奮ってしまったことで、那岐は我に返った。おかげで冷静になった。

「あ、あの……。も……申し訳ありません」
 自分のとった行動に怯え、那岐は恐る恐る祥月に近付いた。

 祥月の傍に行くと、腕を引き寄せられ那岐もベッドへ倒れ込んだ。
 向き合うようにベッドに転がり、那岐は祥月の顔色を伺った。祥月の顔からは、不満の色さえ消えていた。

 黒い瞳が那岐をじっと見つめている。
「そのように思ってなどいない」
「……」

 穏やかにすら感じる空気が流れる。
 まるで宥めるような落ち着いた口調に、取り乱したことが恥ずかしく思えた。

 祥月の手が、子供をあやすように那岐の頭を撫でる。
「だが、隠しごとをするのではない。ありのままの那岐を、私に見せろ。お前は髪の毛一本に至るまで、私のものなのだから」

 撫でられたせいか祥月の言葉のせいか、気持ちが落ち着き那岐は思わず口元が緩んだ。
「……。それは横暴すぎやしませんか」

 所有物だと主張するくせに、そうではないように独占しようとしたがる。祥月の行動は、少しちぐはぐに感じることがある。
 時折垣間見せる執着にすら思える様は、いったい何を考えているのか掴めない。

「俺が祥月様を……、好きな気持ちのまま傍にいることを許してくれるんですか? 男のくせに、しかも愛人の身で……。嫌じゃないんですか?」

 那岐の頭を撫でていた祥月の手が止まった。
「私の愛人なのだから、私を愛するのは当然だ。お前は私を愛していれば良い」

 那岐は思わず笑みが零れた。
「ははっ。変な主張」

 いつも通りの、我儘王子と愛人の関係に戻った。

 けれど、目が合った祥月の真面目な顔を目にして、那岐は笑いを止める。
「お前に拒絶されたかと思うと……。拒絶されることが、こんなにも辛いと思わなかった」

 静かに見つめる視線に、那岐は一瞬言葉を失くした。

「拒絶なんて、するわけがありません」
 あくまで一日延期しただけだ。それほどの態度を、祥月に見せたわけでもない。

 一方的でも、想い続けることを許されたことは良かった。
 駄目だと言われたところで、すぐに諦められるわけでもない。いざとなったら、館を出て行くことも覚悟していた。

「じゃあ……。お言葉に甘えて、好きなままでいさせてもらいます」

 もし勤めがやりづらくなったら、と那岐は言いかけたが止めた。
 知ったうえで今までと変わらぬ態度だったのだから、たかが愛人に懸想される程度のことは、祥月にとって重要ではないのだ。

 祥月は眉間に少し皺を寄せた。
「好き? あれだけ私に人を愛せと言っておいて、お前は“愛している”ではないのか?」

 尋ねられて、那岐はぽかんとした顔で祥月を見た。
 そんな切り返しをしてくるとは、予測していなかった。

 確かに那岐は、祥月に人を愛せと言った。誰かを愛せば、幸せな気持ちになれると。
 愛について否定した祥月が、まさか愛を語るなんて思いもしない。

 興味がないから否定され、そんな話をしたことも祥月の中ではとうに消え去っているものと考えていた。思いの外、那岐の言葉は祥月の心に届いていたようで少し嬉しくなった。

 遊華楼では、高い金を払った客に何度も軽々しく口にした。
 愛しているという言葉は、那岐が使えば紛い物のようになりそうだ。

「俺の愛は高いんですよ」
 那岐は笑い返した。

「金ならばある」
 真面目な答えが返ってきて、那岐は吹き出してしまった。笑われたことに、祥月は不服そうだ。
「あははっ。さすがに予想外の答え!」

「私を愛せ、那岐」
 笑いを遮って、祥月が告げた。笑みは消えた。

 祥月に必要なのは、性欲処理に必要な体だけだ。けれど、体だけではなく心も求めてくれている。物ではなく、那岐という人間を欲してもらえている。それが素直に嬉しかった。

「祥月様は……、俺にくれないんですか?」
 するりと口から零れた。

 祥月が見返す。
「欲しいものあれば、何でも与えてやる。本か? それとも、服や宝石か?」

 何でも、と那岐は心の中で繰り返した。

「……心が、欲しい」

 好きになって欲しいなど、欠片も思っていなかった。
 傍にいられたらいいと思っていたのに、祥月の心が欲しくなった。自分の強欲さに、呆れてしまう。

「愛せと言うなら、祥月様にも愛して欲しい……。俺だけなんて嫌だ」

「……」
 祥月は黙り込んだ。

 かつて、愛をねだる愛人などいなかったはずだ。
 身の程をわきまえない欲を言った。さすがに調子に乗り過ぎたと、口にしてから後悔した。

 沈黙が辛く、祥月の目を見ていられない。那岐は視線を下に向けた。

 やがて、祥月には珍しく、自信なさげな小さな声が聞こえた。
「私は、愛など……愛し方など知らぬ。ただ、那岐は私のものなのだから、私の傍に居るべきだと思っている」

 返ってきた言葉は、拒否ではない。
 那岐が祥月を見ると、少し困惑した瞳で見つめられている。

「俺だって……。愛するのは初めてです」

 断言できる。かつて付き合った女性に恋情を持ってはいたが、それは愛ではなかった。もちろん、容易く口にした遊華楼でも経験はない。

 もし那岐が愛という言葉を捧げるのならば、男同士だということすら、抱かれるという立場すらも関係ないと思えた、祥月しかいないと思えた。
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