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第三章:それぞれの道のり(父親、娘、息子)
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【息子side】
俺はおかあさんと、手を繋いで校門に向かっていた。すると
「ねえ、あの子……さっきの制服の子よね?」
「ええ……やっぱり、あの子の『母親』だったのね? 信じられないわ」
ひそひそとした囁きは、夕暮れの空気に乗って、俺たちの耳にはっきりと届いた。
「中学生の制服よね? あの年齢で、あんな大きな子がいるなんて……一体、何歳の時の子なのよ」
「あらやだ、計算が合わないじゃない! よっぽど親の顔が見てみたいわね……あんな年頃で子供を作るなんて、教育がどうなってるのかしら」
「あんな子が母親なんて、あの子が可哀想だわ」
心臓がどくどくと嫌な音を立てる。
何を言われているのか、10歳の俺には半分も理解できなかった。でも、あの主婦たちが俺の『おかあさん』を、汚いものを見るような目で見ていることだけは分かった。
(違う! 俺のおかあさんは、世界で一番かっこいいんだ……!)
俺は悔しくて、隣を歩くおかあさんの手を強く握った。おかあさんは何も言わず、ただ前を向いて歩いていた。
中学生の制服を着た『おかあさん』の肩が、微かに震えているようにも見えたけれど、彼女は俺を不安にさせないように、一歩も立ち止まらなかった。
夕食はいつも通り、手際よく作られた。
「今日はお父さん帰るの遅いから、二人で食べようね」
おかあさんは俺にそう言って微笑み、まるで昼間の出来事などなかったかのように振る舞う。
【父親side】
私が夕食を済ませ、家の中が静まり返った頃だった。
ーーコン、コン!
と鈍い音が廊下に響く。
最初は気のせいかと思った亮介だったが、音は次第に激しさを増し、
ーードスッ、ドスッ!
という肉が壁にぶつかる音に変わっていく。私が音のする方へ駆け寄ると、そこには美咲がいた。暗闇の中、中学生の制服を着たままの娘が、狂ったように壁に頭を打ち付けていた。
「美咲! 何してるんだ!」
私が慌ててその体を抱き止める。美咲の額は赤く腫れ、瞳からは大粒の涙が溢れていた。娘の脳内では、あの主婦たちの言葉が呪文のように鳴り止まない。
『あんな年で子供を作るなんて』
『教育がどうなってるのかしら』
『普通じゃないわよ』
「お母さんになりたかっただけなの……! お母さんの代わりに、拓海を守りたかっただけなのに……!」
美咲は私の胸の中で、初めて子どものように泣きじゃくった。私は、自分の不在の間に、娘が『母親』という役割の重さと、世間の悪意に押し潰されていたことを、ようやく骨身に染みて理解した。
翌日、私は部長にすべてを打ち明けた。
「娘を殺しかけました……これ以上、あの子を一人にはできません」
神崎家の事情は社内でも知られていた。部長は私の有能さを惜しみ、またその切実さに心を動かされ、異例の措置として私にのみフルリモートでの在宅ワークを許可した。
【娘side】
ダイニングテーブルの端では、あたしが必死に参考書と格闘している。大学附属校とはいえ、内部進学には学年末テストの結果が響くから。
かつては夕飯の献立を考えながら教科書を開いていた。けれど今は、背後から聞こえるお父さんの料理の音に守られながら、『ただの受験生』に戻れる時間がある。
(赤点だけは絶対に取れない……お父さんが作ってくれたこの時間を、無駄にしたくない……!)
その向かい側で、拓海は高校入試の過去問を解いている。
かつて『お母さん』と呼んでいた美咲が、今は必死に『学生』として頑張っている姿。それを支えるお父さんの背中。
拓海は、美咲を『お母さん』と呼ぶことに、わずかな違和感も持っていない。けれど、この静かな夜の時間が、自分たちの家族を繋ぎ止めていることは、子供ながらに理解していた。
【息子side】
お父さんがおかあさんが作った弁当を受け取りながら、いつものように
「ありがとう、愛娘弁当で頑張るよ」
と笑顔で言った。その言葉を聞くたびに、俺の心には、ある疑問がよぎるようになっていた。テレビドラマなんかでも、奥さんが旦那さんに作る弁当のことを『愛妻弁当』って呼んでるのをよく見る。
「愛妻弁当……」
俺の家には『妻』がいない。だからお父さんは、あかあさんが作った弁当を『愛娘弁当』と呼ぶ。それは正しい。正しいんだけど、俺にとっては、それは『おかあさんが作ってくれた弁当』なんだ。
仏壇に飾ってある遺影の人。
俺が『お母さん』と呼ぶべきなのは、本当はあの人なのだろうか。けれど、あまりに幼い頃で、俺の中には顔も声も、温もりすら残っていない。あの写真は、遠い過去だった。俺にとって、朝起きて
「おはよう」
と言ってくれる温もり。毎日、俺の身体を作る飯の匂い。それを作ってくれるのは、いつも美咲というおかあさんだ。
俺の『おかあさん』は、キッチンに立っている美咲というおかあさんだ。幼いあの日から、それが世界の正解だと信じて、俺は今日まで生きてきた。
でも、学校に行けば現実に引き戻される。三者面談に行けば、担任の先生の前に座るのはお父さんだ。
先生が
「お父さん、拓海くんの進路ですが……」
と話すのを聞きながら、俺はぼんやりと思う。
(……なんで、お父さんはおかあさんを『美咲』と呼ぶんだろう? なんでここにいないんだろう?)
家ではあんなに『おかあさん』として僕を支えてくれている美咲というおかあさんが、学校の書類や、お父さんの言葉の中では、ただの『長女』や『姉』として扱われている。美咲という人は一人しかいないのに、この家の中では、お父さんの『娘』と、俺の『おかあさん』が、無理やり一つの体に押し込められている。その矛盾に気づいてしまった時、俺はたまらなく怖くなる。俺が『おかあさん』と呼び続けることで、美咲からその名前を奪っているんじゃないか。でも、そう呼ばなきゃ、俺の家から『おかあさん』が完全に消えてしまう気がして――。
俺は、喉まで出かかったある言葉を、呑み込んだ。
俺はおかあさんと、手を繋いで校門に向かっていた。すると
「ねえ、あの子……さっきの制服の子よね?」
「ええ……やっぱり、あの子の『母親』だったのね? 信じられないわ」
ひそひそとした囁きは、夕暮れの空気に乗って、俺たちの耳にはっきりと届いた。
「中学生の制服よね? あの年齢で、あんな大きな子がいるなんて……一体、何歳の時の子なのよ」
「あらやだ、計算が合わないじゃない! よっぽど親の顔が見てみたいわね……あんな年頃で子供を作るなんて、教育がどうなってるのかしら」
「あんな子が母親なんて、あの子が可哀想だわ」
心臓がどくどくと嫌な音を立てる。
何を言われているのか、10歳の俺には半分も理解できなかった。でも、あの主婦たちが俺の『おかあさん』を、汚いものを見るような目で見ていることだけは分かった。
(違う! 俺のおかあさんは、世界で一番かっこいいんだ……!)
俺は悔しくて、隣を歩くおかあさんの手を強く握った。おかあさんは何も言わず、ただ前を向いて歩いていた。
中学生の制服を着た『おかあさん』の肩が、微かに震えているようにも見えたけれど、彼女は俺を不安にさせないように、一歩も立ち止まらなかった。
夕食はいつも通り、手際よく作られた。
「今日はお父さん帰るの遅いから、二人で食べようね」
おかあさんは俺にそう言って微笑み、まるで昼間の出来事などなかったかのように振る舞う。
【父親side】
私が夕食を済ませ、家の中が静まり返った頃だった。
ーーコン、コン!
と鈍い音が廊下に響く。
最初は気のせいかと思った亮介だったが、音は次第に激しさを増し、
ーードスッ、ドスッ!
という肉が壁にぶつかる音に変わっていく。私が音のする方へ駆け寄ると、そこには美咲がいた。暗闇の中、中学生の制服を着たままの娘が、狂ったように壁に頭を打ち付けていた。
「美咲! 何してるんだ!」
私が慌ててその体を抱き止める。美咲の額は赤く腫れ、瞳からは大粒の涙が溢れていた。娘の脳内では、あの主婦たちの言葉が呪文のように鳴り止まない。
『あんな年で子供を作るなんて』
『教育がどうなってるのかしら』
『普通じゃないわよ』
「お母さんになりたかっただけなの……! お母さんの代わりに、拓海を守りたかっただけなのに……!」
美咲は私の胸の中で、初めて子どものように泣きじゃくった。私は、自分の不在の間に、娘が『母親』という役割の重さと、世間の悪意に押し潰されていたことを、ようやく骨身に染みて理解した。
翌日、私は部長にすべてを打ち明けた。
「娘を殺しかけました……これ以上、あの子を一人にはできません」
神崎家の事情は社内でも知られていた。部長は私の有能さを惜しみ、またその切実さに心を動かされ、異例の措置として私にのみフルリモートでの在宅ワークを許可した。
【娘side】
ダイニングテーブルの端では、あたしが必死に参考書と格闘している。大学附属校とはいえ、内部進学には学年末テストの結果が響くから。
かつては夕飯の献立を考えながら教科書を開いていた。けれど今は、背後から聞こえるお父さんの料理の音に守られながら、『ただの受験生』に戻れる時間がある。
(赤点だけは絶対に取れない……お父さんが作ってくれたこの時間を、無駄にしたくない……!)
その向かい側で、拓海は高校入試の過去問を解いている。
かつて『お母さん』と呼んでいた美咲が、今は必死に『学生』として頑張っている姿。それを支えるお父さんの背中。
拓海は、美咲を『お母さん』と呼ぶことに、わずかな違和感も持っていない。けれど、この静かな夜の時間が、自分たちの家族を繋ぎ止めていることは、子供ながらに理解していた。
【息子side】
お父さんがおかあさんが作った弁当を受け取りながら、いつものように
「ありがとう、愛娘弁当で頑張るよ」
と笑顔で言った。その言葉を聞くたびに、俺の心には、ある疑問がよぎるようになっていた。テレビドラマなんかでも、奥さんが旦那さんに作る弁当のことを『愛妻弁当』って呼んでるのをよく見る。
「愛妻弁当……」
俺の家には『妻』がいない。だからお父さんは、あかあさんが作った弁当を『愛娘弁当』と呼ぶ。それは正しい。正しいんだけど、俺にとっては、それは『おかあさんが作ってくれた弁当』なんだ。
仏壇に飾ってある遺影の人。
俺が『お母さん』と呼ぶべきなのは、本当はあの人なのだろうか。けれど、あまりに幼い頃で、俺の中には顔も声も、温もりすら残っていない。あの写真は、遠い過去だった。俺にとって、朝起きて
「おはよう」
と言ってくれる温もり。毎日、俺の身体を作る飯の匂い。それを作ってくれるのは、いつも美咲というおかあさんだ。
俺の『おかあさん』は、キッチンに立っている美咲というおかあさんだ。幼いあの日から、それが世界の正解だと信じて、俺は今日まで生きてきた。
でも、学校に行けば現実に引き戻される。三者面談に行けば、担任の先生の前に座るのはお父さんだ。
先生が
「お父さん、拓海くんの進路ですが……」
と話すのを聞きながら、俺はぼんやりと思う。
(……なんで、お父さんはおかあさんを『美咲』と呼ぶんだろう? なんでここにいないんだろう?)
家ではあんなに『おかあさん』として僕を支えてくれている美咲というおかあさんが、学校の書類や、お父さんの言葉の中では、ただの『長女』や『姉』として扱われている。美咲という人は一人しかいないのに、この家の中では、お父さんの『娘』と、俺の『おかあさん』が、無理やり一つの体に押し込められている。その矛盾に気づいてしまった時、俺はたまらなく怖くなる。俺が『おかあさん』と呼び続けることで、美咲からその名前を奪っているんじゃないか。でも、そう呼ばなきゃ、俺の家から『おかあさん』が完全に消えてしまう気がして――。
俺は、喉まで出かかったある言葉を、呑み込んだ。
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