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第二章:弟の視線と『お母さん』の制服(息子)
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俺の名は、神崎拓海。俺の家族は普通の家とは違う。俺の家には『母親』という存在が居なかった。いや、いるがなんか違う。
運動会から帰宅し、泥だらけの体操着を洗った後の夕食の時。食卓に並んだのは、美咲が慣れない手つきで作った、少し味の薄い肉じゃがだ。普段の味とは違う。けれど、俺たちにはそれが唯一の命の糧だった。昼間の興奮が冷め、家の中にはまた、お通夜状態の重苦しい沈黙があった。
「パパ……」
俺が箸を止めて、父親を呼んだ。その瞳は、不安で揺れていた。
「今日、お姉ちゃんが言ったこと、本当?」
父親は唇を固く結んだ。小学生の娘に、母親という重責を背負わせていいはずがない。そう否定しようとした父親に、俺の隣に座る美咲姉ちゃんが遮った。
「本当だよ……あたしが、拓海のお母さんになる……だから、もう寂しくないよ」
美咲姉ちゃんは優しく、それでいて自分に言い聞かせているような固い声でそう言った。俺は美咲をじっと見つめていたが、やがて、どっとするように涙を溢れさせた。
「……おかあさん」
その一言が、静かなリビングに響いた瞬間、空気が変わった。
俺は美咲姉ちゃんの膝に顔を埋めて、何度も、何度も、しがみつくように繰り返した。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん……!」
美咲姉ちゃんはその頭を優しく撫でながら、父親の目を見て、静かに微笑んだようだった。この日『お姉ちゃん』という言葉が、この家から消えた。
俺が、喪失の恐怖から逃れるために、美咲という『母親』を創り出した瞬間だった。
これが、何年にわたる『愛という名の呪い』の始まりになったのだ。
今の俺は小学4年生。来週の水曜日は授業参観だが、俺の親は来ないに決まっていた。お父さんは会社に行くし、おかあさんは私立の清凛大学附属中学校・高等学校に通っている。来るわけがない。俺は、その用紙をぐしゃぐしゃに丸めて、台所のゴミ箱に投げ入れた。
その夜、夕食の準備を始めたおかあさんが、ゴミ箱を漁っていた。
「ちょっと、何やってるんだよ、おかあさん」
俺が呆れてそう言うと、おかあさんはぐしゃぐしゃになった1枚の紙を広げた。それは、俺が捨てた授業参観の用紙だった。完全に捨てたと思っていたのに。
「これ……拓海の授業参観の用紙じゃない?」
おかあさんが、少し眉間にしわを寄せて俺を見た。俺は、何も言えなかった。バレた。俺が誰も来ないと思って、捨てたこと。その日の夜、おかあさんは何も言わなかった。お父さんも。でも、俺の心臓は荒波のように音を立てていた。
授業参観当日。授業が始まって十五分。教室内は、どこか浮き足立った空気に包まれていた。俺の隣で、東野健太がしつこく机をペンで叩きながら囁いてくる。
「おい拓海、お前の母ちゃん、今日来るのかよ? どうせ、シワシワのオバサンなんだろ。……おい、シカトすんなよ!」
俺は前を向いたまま、何も答えなかった。健太は、俺の母親が亡くなっていることも知らない。ただ、自分の母親のコンプレックスを、俺を叩くことで紛らわせたいだけなのだ。その時、
ガラガラ、と教室のドアが開いた。
入ってきたのは、見慣れた、だけどこの場所には似つかわしくない制服姿のおかあさんだった。
「……えっ?」
「誰、あの人……中学生?」
教室中がざわめく。先生の言葉も耳に入らないほど、クラスメイトたちの視線がおかあさんに集中した。
健太も、目を見開いて固まっている。
俺は誇らしかった。真っ赤な顔で固まっている健太を横目に、俺は心の中で叫んだ。
(ざまあみろ! お前の言った『シワシワのオバサン』なんかじゃない! 俺のお母さんは、こんなにきれいなんだ)
その数分後、さらに追い打ちをかけるようにドアが開いた。
入ってきたのは、背中を丸め、ひどく老けて見える健太の母親だった。
他の保護者たちの洗練された服装や、何より教室の後ろで凛と立つおかあさんの若さと比べると、彼女の姿はあまりにも対照的だった。
「うわ、健太の親、おばあちゃんじゃん」
「……しっ、聞こえるよ」
ヒソヒソというクラスメイトの嘲笑が聞こえた瞬間、健太の顔が茹で上がったように赤くなった。健太は恥ずかしさに耐えきれず、机に顔を伏せた。俺は後ろを振り返った。そこには、俺だけをじっと見つめ、優しく微笑む『おかあさん』がいた。
制服を着ている。まだ10歳だ。でも、俺にとっては、この人こそが欠けることのない、唯一の母親だった。
運動会から帰宅し、泥だらけの体操着を洗った後の夕食の時。食卓に並んだのは、美咲が慣れない手つきで作った、少し味の薄い肉じゃがだ。普段の味とは違う。けれど、俺たちにはそれが唯一の命の糧だった。昼間の興奮が冷め、家の中にはまた、お通夜状態の重苦しい沈黙があった。
「パパ……」
俺が箸を止めて、父親を呼んだ。その瞳は、不安で揺れていた。
「今日、お姉ちゃんが言ったこと、本当?」
父親は唇を固く結んだ。小学生の娘に、母親という重責を背負わせていいはずがない。そう否定しようとした父親に、俺の隣に座る美咲姉ちゃんが遮った。
「本当だよ……あたしが、拓海のお母さんになる……だから、もう寂しくないよ」
美咲姉ちゃんは優しく、それでいて自分に言い聞かせているような固い声でそう言った。俺は美咲をじっと見つめていたが、やがて、どっとするように涙を溢れさせた。
「……おかあさん」
その一言が、静かなリビングに響いた瞬間、空気が変わった。
俺は美咲姉ちゃんの膝に顔を埋めて、何度も、何度も、しがみつくように繰り返した。
「おかあさん、おかあさん、おかあさん……!」
美咲姉ちゃんはその頭を優しく撫でながら、父親の目を見て、静かに微笑んだようだった。この日『お姉ちゃん』という言葉が、この家から消えた。
俺が、喪失の恐怖から逃れるために、美咲という『母親』を創り出した瞬間だった。
これが、何年にわたる『愛という名の呪い』の始まりになったのだ。
今の俺は小学4年生。来週の水曜日は授業参観だが、俺の親は来ないに決まっていた。お父さんは会社に行くし、おかあさんは私立の清凛大学附属中学校・高等学校に通っている。来るわけがない。俺は、その用紙をぐしゃぐしゃに丸めて、台所のゴミ箱に投げ入れた。
その夜、夕食の準備を始めたおかあさんが、ゴミ箱を漁っていた。
「ちょっと、何やってるんだよ、おかあさん」
俺が呆れてそう言うと、おかあさんはぐしゃぐしゃになった1枚の紙を広げた。それは、俺が捨てた授業参観の用紙だった。完全に捨てたと思っていたのに。
「これ……拓海の授業参観の用紙じゃない?」
おかあさんが、少し眉間にしわを寄せて俺を見た。俺は、何も言えなかった。バレた。俺が誰も来ないと思って、捨てたこと。その日の夜、おかあさんは何も言わなかった。お父さんも。でも、俺の心臓は荒波のように音を立てていた。
授業参観当日。授業が始まって十五分。教室内は、どこか浮き足立った空気に包まれていた。俺の隣で、東野健太がしつこく机をペンで叩きながら囁いてくる。
「おい拓海、お前の母ちゃん、今日来るのかよ? どうせ、シワシワのオバサンなんだろ。……おい、シカトすんなよ!」
俺は前を向いたまま、何も答えなかった。健太は、俺の母親が亡くなっていることも知らない。ただ、自分の母親のコンプレックスを、俺を叩くことで紛らわせたいだけなのだ。その時、
ガラガラ、と教室のドアが開いた。
入ってきたのは、見慣れた、だけどこの場所には似つかわしくない制服姿のおかあさんだった。
「……えっ?」
「誰、あの人……中学生?」
教室中がざわめく。先生の言葉も耳に入らないほど、クラスメイトたちの視線がおかあさんに集中した。
健太も、目を見開いて固まっている。
俺は誇らしかった。真っ赤な顔で固まっている健太を横目に、俺は心の中で叫んだ。
(ざまあみろ! お前の言った『シワシワのオバサン』なんかじゃない! 俺のお母さんは、こんなにきれいなんだ)
その数分後、さらに追い打ちをかけるようにドアが開いた。
入ってきたのは、背中を丸め、ひどく老けて見える健太の母親だった。
他の保護者たちの洗練された服装や、何より教室の後ろで凛と立つおかあさんの若さと比べると、彼女の姿はあまりにも対照的だった。
「うわ、健太の親、おばあちゃんじゃん」
「……しっ、聞こえるよ」
ヒソヒソというクラスメイトの嘲笑が聞こえた瞬間、健太の顔が茹で上がったように赤くなった。健太は恥ずかしさに耐えきれず、机に顔を伏せた。俺は後ろを振り返った。そこには、俺だけをじっと見つめ、優しく微笑む『おかあさん』がいた。
制服を着ている。まだ10歳だ。でも、俺にとっては、この人こそが欠けることのない、唯一の母親だった。
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