ある魔法都市の日常

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葬儀屋の神田さん2

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 ズルズルとアパートの暗い外廊下を歩く。
 明かりは外から差し込む月と街灯。安いのが売りのアパートの廊下には、灯りそれ自体が設置されてはいない。
 転落防止の柵が、入ってくる明かりを遮って、足元は真っ暗だ。柵の途切れた高さから、うっすらとした光が入り込んでいる。
 それでも、あたしには十分な明るさだ。

 時刻は深夜。酒場も閉まる時刻。
 あたしも店を閉めて帰ってきたところだ。
 アパートの中も静かで、足音一つ聞こえない。住人たちのほとんどは眠りについているのだろう。

 暗い廊下を進み、自分の部屋の前を通り過ぎて、もう一つ奥の扉へ。
 コンコンと、控え目に扉をノックする。反応はない。深夜なのだから当然だ。
 それでも、ちょっとした確信を持って、扉に手をかける。

 ギィ。

 小さな音を立てて扉が開く。
 やっぱりそうだ。カギが掛かっていない。

「まったくもう、不用心なんだから」

 前に住んでいた所がそうなのか、この部屋に住んでいる神田さんは、よくカギを掛け忘れる。
 気落ちしているという今日ならば、十中八九、カギを掛け忘れていると思ったのだ。

「やっぱり……」

 小言に続きそうな気持ちを押さえて、続く言葉を飲み込む。
 そういう話は神田さんが元気な時にするものだ。むしろ、今、この時だけであれば狙い通りですらある。

「入るわよー」

 小さな声で一言告げてから扉をくぐる。
 時刻が時刻だ、回りに迷惑を掛けないように、そしてもし寝ていたら起こさないように。音を立てないように部屋へ入る。

 居た。

 真っ暗な部屋。
 神田さんは夜中なのに布団にも入らずに、膝を抱えた姿勢で、部屋の隅に居た。
 目は開いているのだから寝てはいない。それでも、扉が開いたのにも気づかない様子で、ぼんやりとどこかを見つめている。

 パチリ。

 容赦なく明かりをつける。
 眩しかったのだろう、膝に顔を埋めてしまう神田さんを、抱え上げて椅子に座らせる。

「食事を持ってきたわよ。どうせ食べてないんでしょ」

 お店で作ってきた食事を、テーブルの上に置く。
 用意したのはサイコロステーキだ。若い牛の肉は柔らかくて食べやすいが、今の神田さんにはナイフで切り分けるのも億劫だろう。予め、一口大に切ってから焼くサイコロステーキなら、ナイフで切り分ける必要はない。なんなら噛まずに丸飲みだって出来る。

(あたしみたいなラミアだったら、普通のステーキも丸飲みに出来るけどさ)

 そのあたりは種族の差だ。どうこう言っても仕方ない。
 それに、しっかり噛むと、味がよく感じられる。この街に来て、料理をするようになってからは、丸飲みにすることも少なくなった。

 椅子の上でもなお、膝に顔を埋めたままの神田さんをあやす。
 なんとか顔を上げてもらったら、フォークに刺した肉を口元まで。一つでも口にすれば、お腹が空いていたのだろう、次は自分の手でフォークを持って食べ始める。

(やっぱりお肉よね)

 気落ちしたときにはお肉が一番だ。
 神田さんは、この街に来る前は、ほとんどお肉を食べていなかったらしい。お祭りの時くらいだとか聞いたことがある。
 故郷がどこなのかは知らないけれど、この街なら普段からお肉が売っている。それなのに、前からの習慣だとか言って、お肉を食べようとしない。
 お肉を食べるのは、今みたいに人から出された時くらいだ。

 神田さんは、仕事でなにかあったらしい。
 詳しいことは知らない。聞いてもいない。知っているのは、神田さんの同僚のアンデットが、神田さんのことを頼みに来たというだけだ。
 食事をしないアンデットが、食事をするお店にやってくるのだ。始めの頃は何があったのかと思ったものだ。

 食事を終えて、再び部屋の隅へ移動する神田さん。
 食器を片付けてから、尻尾でぐるりと巻いてあげれば、神田さんは目を閉じて眠りにつく。なんでも、ひんやりとして気持ちいいらしい。

(本当は獲物を絞め殺す姿勢なんだけど)

 最後に自分の手で獲物を狩ったのは、何年前だったか。
 神田さんの寝顔を見ながら、この街に来てから何もかもが変わったのだと、改めて思う。
 そうして、あたしも、神田さんを抱えたまま眠りについた。
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