身代わり婚相手が「最推し」だった件。~無表情な副社長の過剰な愛が限界オタクの俺には刺激が強すぎます!~

たら昆布

文字の大きさ
5 / 30

5話

しおりを挟む
 銀座の空気は、酸素の密度が違う気がした。
 磨き上げられたショーウインドウが陽光を撥ね返し、行き交う人々からは高価な香水の残り香が漂う。
 
 旭は、数歩先を歩く蓮の背中を、適度なディスタンスを保って追った。
 
(……これだ。ドキュメンタリー番組『RENの休日』で見覚えのある、あのストライド。あの時、彼は『銀座は歩くだけで感性が刺激される』って言ってたっけ。今、俺はその聖地を、本人と一緒に歩いている。……聖地巡礼の概念がゲシュタルト崩壊を起こしそう)
 
 蓮は一度も振り返ることなく、国内屈指の高級百貨店へと迷いなく足を踏み入れた。
 大理石の床が、旭の安いパンプスの音を無情に響かせる。
 
「あゆみさん。こっちだ」
 
 不意に、蓮が足を止めて振り返る。
 
「は、はいっ!」
 
 慌てて駆け寄ると、そこはハイブランドが立ち並ぶ婦人服のフロアだった。
 一着で旭の月収が吹き飛ぶようなドレスが、神々しいスポットライトを浴びて鎮座している。
 
「一条様、あの……。私はこのような高価な場所には不釣り合いで」
 
「不釣り合いかどうかは、私が決めることだ」
 
 蓮の声には、一切の迷いがない。
 彼は店員を呼ぶこともせず、自らの指先でハンガーを滑らせ始めた。
 
 流れるような指の動き。
 生地の質感を確かめる、鋭くも深い眼差し。
 
(……仕事モードだ。モデル・RENの、あのプロフェッショナルな顔。服を一瞥しただけで、その特性を理解してしまう、あの伝説の審美眼。それが今、俺のために……いや、姉さんのために使われている。……申し訳なさと尊さで、脳内がスパークしそう)
 
「これはどうだ。君の肌の色によく映える」
 
 蓮が手に取ったのは、柔らかなアイボリーのシルクワンピースだった。
 
「……っ」
 
 旭は思わず息を呑んだ。
 蓮が差し出したワンピースから、微かな「絹」特有の香りと、店内の清涼な空気が混じり合って届く。
 
「……綺麗、ですね。でも、私にはあまりにも……」
 
「遠慮をするなと言ったはずだ」
 
 蓮は旭の言葉を遮ると、有無を言わさぬ足取りで試着室へと誘導した。
 
「着替えてこい。……君の本当の姿を見たい」
 
 その言葉の響きに、旭の心臓が不規則なビートを刻む。
 
(……本当の姿!? まさか、男だって気づいてる? それとも、ただのファッション用語的な意味? どっちなんだ一条さん! あなたの無表情は、情報量が多すぎる!)
 
 狭い試着室の中で、旭は震える手でワンピースのジッパーを下ろした。
 鏡に映るのは、不自然な女装姿の自分。
 
 けれど、蓮が選んだその服を身に纏うと、不思議と背筋が伸びた。
 肌に触れるシルクは驚くほど軽く、まるで優しい誰かに抱擁されているような温かさがある。
 
 意を決して、カーテンを開ける。
 
 そこには、ソファに腰掛け、組んだ長い足をすらりと伸ばした蓮が待っていた。
 彼は旭を見た瞬間、持っていたカタログを膝の上に置いた。
 
 静寂。
 
 蓮の視線が、旭の頭の先から足首まで、ゆっくりと、丹念になぞっていく。
 まるで、最高級の芸術品を鑑定するかのような、熱を帯びた沈黙。
 
(……見ないで。そんなに解像度高く俺を見ないで。毛穴が見える。嘘。見えない。でも、その瞳に映っているだけで、俺の魂が浄化されて消滅してしまいそう)
 
 旭は恥ずかしさのあまり、俯いてエプロンの裾を……ではなく、ワンピースの裾を握りしめた。
 
「……似合っている」
 
 蓮の声が、いつもより低く、耳の奥まで響く。
 
「だが、何か足りないな。……あゆみさん、少し失礼する」
 
 蓮が立ち上がり、旭の至近距離まで歩み寄る。
 
 ふわり、と。
 蓮の身体から立ち上る、あのサンダルウッドの香りが旭を包み込んだ。
 
 蓮の手が、旭の顔の横に伸びる。
 
(……近い。近すぎる。まつ毛が、数えられる。推しの、まつ毛の本数を、肉眼でカウントできる距離に俺はいる。これは現実か?)
 
 旭の視界が、蓮の白いシャツでいっぱいになる。
 
 蓮は、旭の首元にかけられていた安物のリボンを解くと、どこからか取り出した細身のスカーフを、手際よく結び直した。
 
 指先が、首筋に触れる。
 蓮の指はひんやりとしていて、けれど、その触れた場所から熱が全身に伝染していく。
 
「これで完成だ。……美しい」
 
 蓮の瞳に、わずかな満足の色が浮かぶ。
 
「一条様、あの……。ありがとうございます。……大切に、いたします」
 
「……ああ。君が喜ぶなら、それでいい」
 
 蓮はそっけなく答えると、そのまま会計を済ませるべくレジへと向かった。
 
 残された旭は、首元のスカーフをそっと指先でなぞった。
 蓮が触れたばかりのその場所は、まだ微かに彼の体温を覚えている。
 
(……喜ぶなら、って。……今の、完全に『攻略対象キャラクターのセリフ』だった。本物だ。本物の破壊力だ。……一条さん、あなたの無自覚な優しさは、限界オタクにとっての劇薬だって、誰か教えてあげて……!)
 
 百貨店を出ると、外は少しだけ風が強くなっていた。
 
 蓮は、人混みの中で旭がはぐれないよう、さりげなく、けれど確実な力強さで、旭の肘のあたりを支えた。
 
「……っ!」
 
「人が多い。……離れるな」
 
 短く、言い切る。
 
 旭は、その大きな手の温もりから逃げ出すこともできず、ただ、アスファルトを踏みしめる一歩一歩に、全神経を集中させるしかなかった。
 
 推しの隣。
 それは、ファンにとっての至福であると同時に、いつ正体が露呈するか分からない、薄氷の上のダンスのような時間でもあった。
 
 ふと、隣を歩く蓮の横顔を見る。
 
 彼は何を考えているのだろう。
 無表情な仮面の裏側に、ほんの少しでも、自分への興味が混ざっているのだろうか。
 
 旭は、首元のスカーフを風から守るように押さえ、高鳴る鼓動を銀座の雑踏の中へと紛れ込ませた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【本編完結】才色兼備の幼馴染♂に振り回されるくらいなら、いっそ赤い糸で縛って欲しい。

ホマレ
BL
才色兼備で『氷の王子』と呼ばれる幼なじみ、藍と俺は気づけばいつも一緒にいた。 その関係が当たり前すぎて、壊れるなんて思ってなかった——藍が「彼女作ってもいい?」なんて言い出すまでは。 胸の奥がざわつき、藍が他の誰かに取られる想像だけで苦しくなる。 それでも「友達」のままでいられるならと思っていたのに、藍の言葉に行動に振り回されていく。 運命の赤い糸が見えていれば、この関係を紐解けるのに。

王命で第二王子と婚姻だそうです(王子目線追加)

かのこkanoko
BL
第二王子と婚姻せよ。 はい? 自分、末端貴族の冴えない魔法使いですが? しかも、男なんですが? BL初挑戦! ヌルイです。 王子目線追加しました。 沢山の方に読んでいただき、感謝します!! 6月3日、BL部門日間1位になりました。 ありがとうございます!!!

バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?

cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき) ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。 「そうだ、バイトをしよう!」 一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。 教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった! なんで元カレがここにいるんだよ! 俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。 「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」 「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」 なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ! もう一度期待したら、また傷つく? あの時、俺たちが別れた本当の理由は──? 「そろそろ我慢の限界かも」

寂しいを分け与えた

こじらせた処女
BL
 いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。  昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。

『アルファ拒食症』のオメガですが、運命の番に出会いました

小池 月
BL
 大学一年の半田壱兎<はんだ いちと>は男性オメガ。壱兎は生涯ひとりを貫くことを決めた『アルファ拒食症』のバース性診断をうけている。  壱兎は過去に、オメガであるために男子の輪に入れず、女子からは異端として避けられ、孤独を経験している。  加えてベータ男子からの性的からかいを受けて不登校も経験した。そんな経緯から徹底してオメガ性を抑えベータとして生きる『アルファ拒食症』の道を選んだ。  大学に入り壱兎は初めてアルファと出会う。  そのアルファ男性が、壱兎とは違う学部の相川弘夢<あいかわ ひろむ>だった。壱兎と弘夢はすぐに仲良くなるが、弘夢のアルファフェロモンの影響で壱兎に発情期が来てしまう。そこから壱兎のオメガ性との向き合い、弘夢との関係への向き合いが始まるーー。 ☆BLです。全年齢対応作品です☆

僕を惑わせるのは素直な君

秋元智也
BL
父と妹、そして兄の家族3人で暮らして来た。 なんの不自由もない。 5年前に病気で母親を亡くしてから家事一切は兄の歩夢が 全てやって居た。 そこへいきなり父親からも唐突なカミングアウト。 「俺、再婚しようと思うんだけど……」 この言葉に驚きと迷い、そして一縷の不安が過ぎる。 だが、好きになってしまったになら仕方がない。 反対する事なく母親になる人と会う事に……。 そこには兄になる青年がついていて…。 いきなりの兄の存在に戸惑いながらも興味もあった。 だが、兄の心の声がどうにもおかしくて。 自然と聞こえて来てしまう本音に戸惑うながら惹かれて いってしまうが……。 それは兄弟で、そして家族で……同性な訳で……。 何もかも不幸にする恋愛などお互い苦しみしかなく……。

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

姉の代わりに舞踏会に行ったら呪われた第三王子の初恋を奪ってしまった

近井とお
BL
幼少期、ユーリは姉によく似ていることから彼女の代わりに社交の場に出席することが多々あった。ある舞踏会の夜、中庭に姿を眩ませたユーリに誰かがぶつかってくる。その正体は呪われていると噂の第三王子であったが、ぶつかられたことに腹を立てたユーリは強気に接し、ダンスを踊った後、彼を捜している気配を感じてからかいながら立ち去る。 それから数年後、第三王子は初恋の令嬢を探し始めたが、それはユーリに違いなく……。 初恋の相手を捜す第三王子×軽口令息

処理中です...