身代わり婚相手が「最推し」だった件。~無表情な副社長の過剰な愛が限界オタクの俺には刺激が強すぎます!~

たら昆布

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6話

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 夜の静寂が、広大なリビングを支配している。
 加湿器から吹き出す微細な霧が、月光に照らされて銀色に煙っていた。
 
 旭は自室のベッドに腰掛け、昼間に蓮が選んでくれたスカーフを、宝石を扱うような手つきで畳んでいた。
 
(……これだ。絹の、この吸い付くようなしなやかさ。そして、微かに残るサンダルウッドの残り香。これだけで、一ヶ月は白飯抜きで生きていける。……いや、今は一条様の『あゆみさん』として、しっかり栄養を摂らなきゃいけないんだった)
 
 ふわり、とスカーフを鼻先に近づける。
 肺の奥まで推しの香りで満たされる至福。脳内のエンドルフィンが、ナイアガラの滝のごとく溢れ出す。
 
 その時だ。
 
 ドアを叩く音が、静かな空気を震わせた。
 
「あゆみさん。少し、入るぞ」
 
「ひぇっ、はい! どうぞ!」
 
 慌ててスカーフを背後に隠す。
 現れた蓮は、紺色のシルクのガウンを羽織っていた。
 V字に開いた胸元から、鍛えられた鎖骨が覗く。風呂上がりなのだろうか。髪は少し湿り気を帯び、そこから立ち上る湯気が、彼の美貌をさらに非現実的なものに昇華させていた。
 
(……待って。その格好は規約違反。全俺の網膜が、あまりの輝きに悲鳴を上げている。これ、ライブのアンコールで見せるやつじゃん。特典映像でしか見られないやつじゃん)
 
 旭の心臓が、肋骨を裏側から激しく連打する。
 蓮は、旭の動揺に気づく様子もなく、背後に控えていたコンシェルジュに合図を送った。
 
 運び込まれたのは、巨大な、そして見るからに高級そうな寝具一式だった。
 
「……一条様、これ、は?」
 
「今日の買い物で気づいた。君は、自分の体調に無頓着すぎる」
 
 蓮が、一歩、旭に歩み寄る。
 スリッパが絨毯を踏む、僅かな沈み込みの音。
 
「君の手の冷たさ。そして、時折見せる顔色の悪さ。……睡眠環境が劣悪な証拠だ。私が使っているものと同じメーカーの、最上位モデルを用意させた」
 
「えっ、あ、同じ……!?」
 
 旭の脳内CPUが、瞬時にショートした。
 
「同じ」という言葉の破壊力。
 それは、実質、推しとお揃い。あるいは、推しの温もりを間接的に共有することを意味する。
 
「一条様、滅相もございません! 私のような身代わりが、そのような贅沢品を……!」
 
「贅沢ではない。投資だ」
 
 蓮は、旭の抗議を柳に風と受け流し、コンシェルジュが手際よく整えた枕を指先で押した。
 
「低反発、かつ体温調整機能付きの枕だ。頭を預けてみろ。……ほら」
 
 有無を言わさぬ空気感。
 蓮が、旭の肩に手を置く。
 薄い生地越しに、彼の指先の形がはっきりと伝わってきた。
 
(……触れ、た。肩に。さっきのスカーフどころじゃない。直通だ。一条様の熱が、俺の、この薄汚れた肩に……!)
 
 旭は、操り人形のようにベッドへと横たわらされた。
 
 頭を包み込む、未知の感触。
 重力を忘れるほどの柔らかさと、それでいて芯のある支え。
 けれど、旭が感じているのは、枕の性能ではなかった。
 
 至近距離に、蓮がいる。
 
 蓮はベッドの脇に膝をつき、旭の顔を覗き込んだ。
 
「どうだ。首の角度はきつくないか」
 
「……っ、だい、じょうぶ、です」
 
 声が、掠れた。
 蓮の睫毛が、瞬きに合わせて扇のように揺れる。
 その瞳に映り込む自分を見て、旭は呼吸の仕方を忘れた。
 
「……そうか。ならいい」
 
 蓮の指が、旭の耳元に触れる。
 後れ毛を払うような、その繊細な動作。
 指先が頬を掠めるたび、そこから火花が散るような衝撃が走る。
 
「……一条様、その……あまりにも、近いです……」
 
「不快か」
 
「いいえ! とんでもない! むしろ、光栄すぎて……その、寿命が縮まりそうで……」
 
 蓮は、旭の支離滅裂な答えを聞き、微かに目を細めた。
 
「……変なことを言うな。君には、長生きしてもらわなくては困る」
 
 蓮が立ち上がる。
 
「明日の朝食は八時だ。それまで、ゆっくり休め。……いい夢を、あゆみさん」
 
 パチン、と照明が消された。
 
 扉が閉まる音がし、完全な闇が訪れる。
 
 旭は、真っ暗闇の中で、バクバクと暴れる心臓を両手で押さえた。
 
(無理。寝れるわけがない。こんな、一条様とお揃いの枕で。しかも、今の、あの耳元の……あれ、なんていうファンサービス? いや、サービスどころじゃない。一対一の、独占供給。……死ぬ。明日、俺の死体がこの最高級羽毛布団の中から発見されるかもしれない)
 
 枕からは、新しい布地の匂いと、そして、ほんの少しだけ、蓮の部屋から漂ってきたであろう、あのサンダルウッドの香りが移っている気がした。
 
 旭は、シーツを顔の半分まで引き上げた。
 
 暗闇の中、熱くなった頬の感覚だけが鮮明に残っている。
 
 身代わりの結婚生活、六日目の夜。
 
 旭は、推しから贈られた「安眠」という名の「拷問」に身を任せ、一睡もできないまま、夜明けの光を待つことになった。
 
 窓の外、都会の夜景が、旭の乱れた呼吸を嘲笑うように瞬いている。
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