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7話
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眩い。
朝の光が、リビングの白い壁に反射して、寝不足の網膜を容赦なく刺してくる。
旭は洗面台の鏡の前で、唸るような吐息を漏らした。
コンシーラーのチップを手に取り、目の下の酷い隈を塗り潰していく。
(……死ぬ。一睡もできなかった。一条様とお揃いの枕の感触が良すぎて、逆に脳が覚醒してしまった。おまけに、寝返りを打つたびにあのサンダルウッドの香りが鼻腔をくすぐる。あれは安眠のための道具じゃない。オタクを狂わせるための罠だ)
指先で丁寧に叩き込み、肌の色を整える。
鏡の中に完成したのは、どこからどう見ても「少しお疲れ気味の淑やかな女性(偽)」だ。
ウィッグを整え、スカートのシワを伸ばし、旭は覚悟を決めてリビングへと足を踏み入れた。
途端、鼓膜を震わせたのは、重厚なマンションの静寂を切り裂くような、轟々という振動音だった。
ヴィィィィィン――。
キッチンのカウンター。
そこには、昨夜のシルクガウンとは打って変わり、仕立てのいいカシミアのニットを纏った蓮が立っていた。
彼の長い指先が、鈍い光を放つ最新型のミキサーを押さえている。
「……一条様。おはようございます」
旭の声に、蓮がゆっくりと顔を上げた。
ミキサーのスイッチが切られ、不自然なほどの静寂が戻ってくる。
「おはよう、あゆみさん。顔色が悪いな。やはり、昨夜はよく眠れなかったか」
蓮が歩み寄ってくる。
その切れ長の瞳が、旭の顔を上から下までスキャンするように舐めた。
「……いえ、そんなことはございません。一条様が用意してくださった寝具が、あまりにも素晴らしかったので……」
「無理をするな。君の細胞が、栄養を欲しているのが見える」
(……見える!? 一条さんの目には、俺の細胞レベルの飢餓状態が映ってるのか!? さすがトップモデル、観察眼の次元が違う)
蓮は、キッチンに並べられたグラスの一つを旭に差し出した。
そこには、なんとも形容しがたい……。
深い紫というか、どす黒い緑というか、とにかく「自然界では警告色とされる類」のドロリとした液体が満たされていた。
「特製のスムージーだ。ケール、ビーツ、アサイー、それから……。私が厳選した数種類のスーパーフードを配合した」
「……これを、私が?」
「そうだ。市販のジュースなどは、砂糖の塊でしかない。これが、君の身体を内側から作り変える」
旭は、恭しくグラスを受け取った。
指先に伝わる、ひんやりとしたガラスの感触。
鼻を近づけると、青臭い大地の香りと、ベリー系の鋭い酸味が混じり合い、本能が「これは薬だ」と告げてくる。
(……待てよ。これは、一条蓮の手作り。彼が自ら豆を挽き(コーヒーの話だが)、自らミキサーを回し、自ら注いだ液体。……つまり、これは実質、液体状の推し。聖水。……飲む以外の選択肢があるだろうか? いや、ない)
旭は、意を決してグラスを傾けた。
ドロリ、とした質感が舌の上を這い、喉を通り過ぎていく。
「……っ!」
衝撃が走った。
甘みは皆無。
強烈な苦みと、それを追いかける暴力的なまでの酸味。
けれど、飲み干した瞬間に、胃のあたりから熱がぶわっと広がるような、不思議な感覚があった。
「……どうだ」
蓮が、期待に満ちた(と言っても無表情だが)眼差しで旭を見つめている。
「……凄いです。全身の血流が、一気に加速したような……。魂が洗われる味がいたします」
「魂か。……面白い表現をする」
蓮の唇が、ほんの少しだけ緩んだ。
「君が気に入ったなら、明日からは私の分と一緒に作ろう。……素材はまだ、山ほどある」
蓮が冷蔵庫を指差す。
そこには、宝石箱のように美しく並べられた、見たこともないような海外産の野菜やフルーツが詰まっていた。
(……推しと、同じ聖水を、毎朝。……耐えられるのか、俺の心臓。いや、心臓より先に味覚がどうにかなりそうだけど、そんなの些細な問題だ)
蓮は、旭の空になったグラスを受け取ると、自らも残りのスムージーを一気に飲み干した。
喉仏が、大きく上下する。
白いニット越しに見える、逞しい肩のライン。
「あゆみさん。今日は、私が仕事の間、家のものは自由に使っていい。……何かあれば、コンシェルジュに」
「……はい。一条様。お仕事、いってらっしゃいませ」
蓮は、旭の言葉に頷くと、玄関へと向かった。
バタン、と。
重厚な扉が閉まり、リビングに再び静寂が戻る。
旭は、キッチンのカウンターに手をついて、深く息を吐き出した。
胃の奥から、先ほどのケールとビーツの香りが、じわじわと込み上げてくる。
(……美味しいとは言えない。正直、草を食べてる気分だ。でも、不思議と力が湧いてくる。……これが、推しの、供給の力……)
ふと見ると、蓮が使っていたミキサーの横に、小さなメモが置かれていた。
『無理をして笑わなくていい。疲れたら、休め。 蓮』
その、流れるような、けれど力強い筆致。
「……無理をしてるって、バレてる……?」
旭は、メモをそっと胸元に抱えた。
不愛想で、合理的で、ズレているけれど。
彼なりの「気遣い」の熱量が、スムージーの温かさと混ざり合って、旭の冷えた指先をじわりと溶かしていく。
身代わりの結婚生活、七日目の朝。
旭は、初めて少しだけ「あゆみ」としてではなく、自分自身の心臓が蓮の言葉に揺れたのを感じていた。
窓の外、都会の空は抜けるように青く、新しい一日が始まったことを告げている。
朝の光が、リビングの白い壁に反射して、寝不足の網膜を容赦なく刺してくる。
旭は洗面台の鏡の前で、唸るような吐息を漏らした。
コンシーラーのチップを手に取り、目の下の酷い隈を塗り潰していく。
(……死ぬ。一睡もできなかった。一条様とお揃いの枕の感触が良すぎて、逆に脳が覚醒してしまった。おまけに、寝返りを打つたびにあのサンダルウッドの香りが鼻腔をくすぐる。あれは安眠のための道具じゃない。オタクを狂わせるための罠だ)
指先で丁寧に叩き込み、肌の色を整える。
鏡の中に完成したのは、どこからどう見ても「少しお疲れ気味の淑やかな女性(偽)」だ。
ウィッグを整え、スカートのシワを伸ばし、旭は覚悟を決めてリビングへと足を踏み入れた。
途端、鼓膜を震わせたのは、重厚なマンションの静寂を切り裂くような、轟々という振動音だった。
ヴィィィィィン――。
キッチンのカウンター。
そこには、昨夜のシルクガウンとは打って変わり、仕立てのいいカシミアのニットを纏った蓮が立っていた。
彼の長い指先が、鈍い光を放つ最新型のミキサーを押さえている。
「……一条様。おはようございます」
旭の声に、蓮がゆっくりと顔を上げた。
ミキサーのスイッチが切られ、不自然なほどの静寂が戻ってくる。
「おはよう、あゆみさん。顔色が悪いな。やはり、昨夜はよく眠れなかったか」
蓮が歩み寄ってくる。
その切れ長の瞳が、旭の顔を上から下までスキャンするように舐めた。
「……いえ、そんなことはございません。一条様が用意してくださった寝具が、あまりにも素晴らしかったので……」
「無理をするな。君の細胞が、栄養を欲しているのが見える」
(……見える!? 一条さんの目には、俺の細胞レベルの飢餓状態が映ってるのか!? さすがトップモデル、観察眼の次元が違う)
蓮は、キッチンに並べられたグラスの一つを旭に差し出した。
そこには、なんとも形容しがたい……。
深い紫というか、どす黒い緑というか、とにかく「自然界では警告色とされる類」のドロリとした液体が満たされていた。
「特製のスムージーだ。ケール、ビーツ、アサイー、それから……。私が厳選した数種類のスーパーフードを配合した」
「……これを、私が?」
「そうだ。市販のジュースなどは、砂糖の塊でしかない。これが、君の身体を内側から作り変える」
旭は、恭しくグラスを受け取った。
指先に伝わる、ひんやりとしたガラスの感触。
鼻を近づけると、青臭い大地の香りと、ベリー系の鋭い酸味が混じり合い、本能が「これは薬だ」と告げてくる。
(……待てよ。これは、一条蓮の手作り。彼が自ら豆を挽き(コーヒーの話だが)、自らミキサーを回し、自ら注いだ液体。……つまり、これは実質、液体状の推し。聖水。……飲む以外の選択肢があるだろうか? いや、ない)
旭は、意を決してグラスを傾けた。
ドロリ、とした質感が舌の上を這い、喉を通り過ぎていく。
「……っ!」
衝撃が走った。
甘みは皆無。
強烈な苦みと、それを追いかける暴力的なまでの酸味。
けれど、飲み干した瞬間に、胃のあたりから熱がぶわっと広がるような、不思議な感覚があった。
「……どうだ」
蓮が、期待に満ちた(と言っても無表情だが)眼差しで旭を見つめている。
「……凄いです。全身の血流が、一気に加速したような……。魂が洗われる味がいたします」
「魂か。……面白い表現をする」
蓮の唇が、ほんの少しだけ緩んだ。
「君が気に入ったなら、明日からは私の分と一緒に作ろう。……素材はまだ、山ほどある」
蓮が冷蔵庫を指差す。
そこには、宝石箱のように美しく並べられた、見たこともないような海外産の野菜やフルーツが詰まっていた。
(……推しと、同じ聖水を、毎朝。……耐えられるのか、俺の心臓。いや、心臓より先に味覚がどうにかなりそうだけど、そんなの些細な問題だ)
蓮は、旭の空になったグラスを受け取ると、自らも残りのスムージーを一気に飲み干した。
喉仏が、大きく上下する。
白いニット越しに見える、逞しい肩のライン。
「あゆみさん。今日は、私が仕事の間、家のものは自由に使っていい。……何かあれば、コンシェルジュに」
「……はい。一条様。お仕事、いってらっしゃいませ」
蓮は、旭の言葉に頷くと、玄関へと向かった。
バタン、と。
重厚な扉が閉まり、リビングに再び静寂が戻る。
旭は、キッチンのカウンターに手をついて、深く息を吐き出した。
胃の奥から、先ほどのケールとビーツの香りが、じわじわと込み上げてくる。
(……美味しいとは言えない。正直、草を食べてる気分だ。でも、不思議と力が湧いてくる。……これが、推しの、供給の力……)
ふと見ると、蓮が使っていたミキサーの横に、小さなメモが置かれていた。
『無理をして笑わなくていい。疲れたら、休め。 蓮』
その、流れるような、けれど力強い筆致。
「……無理をしてるって、バレてる……?」
旭は、メモをそっと胸元に抱えた。
不愛想で、合理的で、ズレているけれど。
彼なりの「気遣い」の熱量が、スムージーの温かさと混ざり合って、旭の冷えた指先をじわりと溶かしていく。
身代わりの結婚生活、七日目の朝。
旭は、初めて少しだけ「あゆみ」としてではなく、自分自身の心臓が蓮の言葉に揺れたのを感じていた。
窓の外、都会の空は抜けるように青く、新しい一日が始まったことを告げている。
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