身代わり婚相手が「最推し」だった件。~無表情な副社長の過剰な愛が限界オタクの俺には刺激が強すぎます!~

たら昆布

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8話

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 静寂。
 蓮が仕事へ向かった後の邸宅は、高級ホテルのスイートルームのように、ただひたすらに清潔で、無機質だった。
 
 旭はリビングのソファの端にちょこんと腰掛け、蓮が残していったメモを、まるで国宝でも扱うかのようにクリアファイルに収めていた。
 
(……無理をして笑わなくていい。一条さん、そんなこと言うなんて反則だ。無表情な顔でさらっとオタクの心臓を射抜くなんて。……いけない。浸っている場合じゃない。今日は掃除だ。推しの生活空間をより完璧に磨き上げる。それがファンとしての、そして『あゆみ』としての使命……)
 
 気合を入れ、立ち上がろうとしたその時だった。
 ピポーン、と快活な電子音がエントランスに響き渡る。
 
(……一条さん? 忘れ物? それともコンシェルジュさん?)
 
 急いでモニターを確認する。
 そこに映っていたのは、蓮に似た造作を持ちながら、もっと軽やかで、どこか危うい色気を放つ青年だった。
 
「はーい。兄さんの可愛いお嫁さんに会いに来たよー」
 
 旭の思考が、本日一度目の停止を記録した。
 
 玄関を開けると、そこにはふわりと弾むような金茶色の髪を揺らした男が立っていた。
 一条景。蓮の年の離れた弟であり、モデル界では「生意気な小悪魔」として名を馳せている。
 
(……景くんだ。本物の景くんだ! REN様の隣で毒を吐く名脇役。まさか、一族揃ってこの美貌とか、一条家の遺伝子どうなってるの。ユネスコの世界遺産に登録すべきじゃないか?)
 
「わ、一条様のご親族の方……でしょうか。あゆみ、と申します」
 
 旭は、精一杯の「あゆみ」を演じ、深々と頭を下げた。
 
「わっ、本当に可愛い。兄さんには勿体ないくらいだね」
 
 景は靴を脱ぎ散らかすと、ずかずかとリビングへ上がり込んだ。
 彼が動くたび、都会的なシトラスの香りが弾け、蓮のサンダルウッドの香りを一気に塗り替えていく。
 
「ねえ、あゆみさん。兄さんと結婚して楽しい? あの人、鉄仮面だし、面白くないでしょ」
 
「そんな……。一条様は、とてもお優しくて……」
 
「えー、意外。信じられないな」
 
 景はソファに飛び込むと、旭のすぐ隣に座り直した。
 距離が近い。
 旭の肩に、景の華奢な、けれど男のものだと分かる熱い腕が触れる。
 
「……っ!」
 
 旭の身体が、氷点下の池に落ちたように強張る。
 
「あはは、すごい。本当に石みたいになってる。可愛いなあ、兄さんには刺激が強すぎたんじゃない?」
 
 景の手が、旭のウィッグの毛先に伸びる。
 細い指先が、首筋のすぐ近くを彷徨う。
 
(……近い。一条家の人、距離感の概念がないの!? これ、ファンクラブの人に見られたら俺、消される……!)
 
「景。何をしている」
 
 地を這うような低い声が、リビングの温度を一瞬で数度下げた。
 
 玄関に、蓮が立っていた。
 
 手には忘れたはずのタブレット端末。
 けれど、その瞳には仕事の効率を求める冷徹さではなく、もっと原始的で、鋭い光が宿っている。
 
「お、兄さん。お帰り。お嫁さんと親睦を深めてたんだよ」
 
 景は悪びれる様子もなく、さらに旭の肩を抱き寄せた。
 
 蓮の顎のラインが、微かに硬くなる。
 彼は無言のまま、一歩一歩、重厚な革靴の音を響かせて歩み寄ってきた。
 
「そこは、私の席だ。……どけ」
 
「えー、ケチだなあ」
 
 蓮は景の手を旭の肩から強引に引き剥がすと、そのまま旭と景の間に、割り込むようにして腰を下ろした。
 
 旭は、二人の「一条」に挟まれ、逃げ場を失った。
 右からは蓮の、重厚でどこか焦りを含んだサンダルウッド。
 左からは景の、騒がしいシトラス。
 
「……あゆみさん。不快な思いをさせたな」
 
 蓮が、旭の方だけを向く。
 彼の瞳が、旭の顔を執拗にチェックする。
 景に触れられた場所に汚れでもついているかのような、そんな必死さが、無表情の裏側に透けて見えた。
 
「いえ、そんな……。景様は、その、お優しくしてくださって……」
 
「……そうか」
 
 蓮の声が、さらに一段低くなった。
 
「景。用が済んだなら帰れ。私はこれから、あゆみさんと話がある」
 
「話って? もしかして、新婚らしいこと? 兄さん、顔が怖いよ。嫉妬?」
 
「……下らないことを言うな。……帰れ」
 
 蓮の手が、旭の手を、ソファの上でそっと覆い隠した。
 大きな、熱い手のひら。
 旭の指先が、その熱に触れた瞬間、心臓が爆発しそうな勢いで拍動を始める。
 
「へえ……。兄さんがそんなに必死になるなんて。あゆみさん、面白くなりそうだね」
 
 景は愉快そうに笑うと、ひらひらと手を振って去って行った。
 
 扉が閉まり、静寂が戻る。
 
 けれど、部屋の空気は冷えたままだった。
 蓮は、旭の手を握ったまま、じっと前を見つめている。
 
「……一条様?」
 
「……あゆみさん。あいつは、誰にでもああなのだ。……あまり、近づかない方がいい」
 
「……はい」
 
 蓮が、旭の手を握る力を強める。
 その感触は、いつもの合理的な「気遣い」とは、何かが決定的に違っていた。
 
「……私の目が届くところに、いてくれ」
 
 蓮が、旭の耳元で囁く。
 
 低い、振動するような声。
 旭は、真っ赤になった顔を伏せることもできず、ただ、推しの不器用で、けれど確かな「独占欲」の熱量に、今度こそ意識を飛ばしそうになっていた。
 
 身代わりの結婚生活、八日目の昼。
 
 旭の平穏(という名のオタクライフ)は、一条兄弟という強烈な光に挟まれ、さらなる激動の渦へと巻き込まれていくのだった。
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