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9話
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静寂が、寝室の空気を冷たく研ぎ澄ましていた。
天井の隅で微かに光る、非常用ライトの淡い緑。それが、部屋の広さを不気味なほど強調している。
旭は、自室のベッドの上で膝を抱え、先ほどのリビングでの出来事を反芻していた。
蓮が握った、手のひらの熱。
あんなに不機嫌な、けれどどこか焦ったような彼の瞳。
(……私の目が届くところに、いてくれ。……反則だ。そんなの、公式からの特大ファンサービスどころじゃない。全俺が爆発四散した。でも、なんで。形だけの夫婦だし、姉さんの身代わりなのに。……一条さん、本当は姉さんに未練があるとか?)
そんな不安を打ち消すように、廊下から規則正しい足音が近づいてきた。
コン、コン。
「あゆみさん。入るぞ」
返事をする前に、扉が開く。
そこに立っていたのは、シルクのパジャマの上からガウンを羽織った蓮だった。
その手には、枕が一つ。
「……一条様? あの、どうされましたか、夜分に」
「景が、このマンションの予備の暗証番号を知っている」
蓮は、至極真面目な顔で、とんでもないことを言い出した。
「……え?」
「あいつは、一度興味を持つと手段を選ばない。……夜中に、君の部屋へ忍び込む可能性がゼロではない。……よって、今日から私がこの部屋で寝る」
旭の脳内CPUが、本日二度目のフリーズを引き起こした。
(……待て。理論の飛躍がすごすぎる。弟さんが忍び込むのが怖いなら、番号を変えればいいだけじゃ? なんでそうなる。なんで『推しと一緒に寝る』という死刑判決が下されるんだ?)
「あ、一条様! 番号なら、明日私がコンシェルジュさんに頼んで……」
「もう変えた。……だが、あいつは壁を登ってでも入ってくる男だ。私の目が届く範囲にいないと、安心できない」
蓮は、旭の反論を柳に風と受け流すと、広いダブルベッドの左側に、自分の枕をどさりと置いた。
シーツが擦れる、滑らかな音。
旭は、ベッドの端へ、今にも落ちそうなほど身を寄せた。
「……本当に、宜しいのですか? 形だけの、契約なのに」
「形だけの夫婦だからこそ、外聞を気にしなければならない。……使用人や親族に不審がられて、契約が台無しになるのは本望ではないだろう?」
もっともらしい理屈だ。
だが、蓮の視線は、一度も旭と合わない。
彼は淡々とガウンを脱ぎ、ベッドへと潜り込んだ。
沈み込む、マットレス。
旭の身体が、重力に従って、蓮の方へと僅かに傾く。
(……ああ、死ぬ。これ、確実に死ぬ。隣に、本物のREN様がいる。パジャマ姿の。無防備な。首筋から、あのサンダルウッドの香りが、直通で届いてくる。……酸素。誰か、医療用酸素を持ってきてくれ)
「……電気を消すぞ」
パチン、と。
部屋が完全な闇に包まれた。
視界が閉ざされたことで、他の感覚が異常なほど鋭敏になる。
シーツ越しに伝わってくる、蓮の体温。
すぐ隣で繰り返される、深くて静かな呼吸の音。
旭は、石のように硬直した。
指先一つ動かせない。
もし動いて、隣に触れてしまったら、その瞬間に自分の正体がバレるどころか、この尊い空間を汚してしまう気がした。
「……あゆみさん」
闇の中から、低い声が届く。
枕を介して、その振動が直接、旭の耳の奥を揺らした。
「……っ、はい」
「あいつに……景に、何をされた」
「……え? 何も。……ただ、可愛いと言ってくださって……」
隣で、布団が大きく動く気配がした。
蓮がこちらを向いたのだと、空気の動きで分かる。
「……あいつは、誰にでもそう言う。……本気にするな。……お前の、その……」
言葉が、途切れる。
蓮の手が、暗闇の中を彷徨い、旭の掛けている毛布の端を握った。
「……一条、様?」
「……寝ろ。……明日は早い」
蓮はそれだけ言うと、背を向けた。
けれど、握られた毛布の端から、彼の指先の震えが、旭の肩まで伝わってくる。
(……一条さん。もしかして、怒ってるんじゃなくて……怖がってる? 俺がいなくなるのを? いや、そんなはずない。俺はただの身代わりなのに……)
旭は、真っ赤になった顔を枕に沈めた。
心臓の音が、うるさくて仕方ない。
ドク、ドク、と。
自分のものか、それとも隣で眠る彼のものか分からないほど、激しい鼓動が夜の闇に溶け合っていく。
形だけの夫婦。
触れてはいけない、二人の距離。
けれど、この広すぎるベッドの中で、二人が共有している熱だけは、あまりにも確かで、残酷なほど甘かった。
旭は、握りしめた拳を胸元に寄せ、一生終わらないでほしいような、けれど今すぐ逃げ出したいような、矛盾した夜の淵を、ただ一人彷徨い続けることになった。
窓の外、深夜の都会を走る車の走行音が、遠い雨音のように聞こえてくる。
夜明けまで、あと数時間。
限界オタクの精神は、推しの寝息という究極の癒やしと拷問の間で、完全に崩壊の一途を辿っていた。
天井の隅で微かに光る、非常用ライトの淡い緑。それが、部屋の広さを不気味なほど強調している。
旭は、自室のベッドの上で膝を抱え、先ほどのリビングでの出来事を反芻していた。
蓮が握った、手のひらの熱。
あんなに不機嫌な、けれどどこか焦ったような彼の瞳。
(……私の目が届くところに、いてくれ。……反則だ。そんなの、公式からの特大ファンサービスどころじゃない。全俺が爆発四散した。でも、なんで。形だけの夫婦だし、姉さんの身代わりなのに。……一条さん、本当は姉さんに未練があるとか?)
そんな不安を打ち消すように、廊下から規則正しい足音が近づいてきた。
コン、コン。
「あゆみさん。入るぞ」
返事をする前に、扉が開く。
そこに立っていたのは、シルクのパジャマの上からガウンを羽織った蓮だった。
その手には、枕が一つ。
「……一条様? あの、どうされましたか、夜分に」
「景が、このマンションの予備の暗証番号を知っている」
蓮は、至極真面目な顔で、とんでもないことを言い出した。
「……え?」
「あいつは、一度興味を持つと手段を選ばない。……夜中に、君の部屋へ忍び込む可能性がゼロではない。……よって、今日から私がこの部屋で寝る」
旭の脳内CPUが、本日二度目のフリーズを引き起こした。
(……待て。理論の飛躍がすごすぎる。弟さんが忍び込むのが怖いなら、番号を変えればいいだけじゃ? なんでそうなる。なんで『推しと一緒に寝る』という死刑判決が下されるんだ?)
「あ、一条様! 番号なら、明日私がコンシェルジュさんに頼んで……」
「もう変えた。……だが、あいつは壁を登ってでも入ってくる男だ。私の目が届く範囲にいないと、安心できない」
蓮は、旭の反論を柳に風と受け流すと、広いダブルベッドの左側に、自分の枕をどさりと置いた。
シーツが擦れる、滑らかな音。
旭は、ベッドの端へ、今にも落ちそうなほど身を寄せた。
「……本当に、宜しいのですか? 形だけの、契約なのに」
「形だけの夫婦だからこそ、外聞を気にしなければならない。……使用人や親族に不審がられて、契約が台無しになるのは本望ではないだろう?」
もっともらしい理屈だ。
だが、蓮の視線は、一度も旭と合わない。
彼は淡々とガウンを脱ぎ、ベッドへと潜り込んだ。
沈み込む、マットレス。
旭の身体が、重力に従って、蓮の方へと僅かに傾く。
(……ああ、死ぬ。これ、確実に死ぬ。隣に、本物のREN様がいる。パジャマ姿の。無防備な。首筋から、あのサンダルウッドの香りが、直通で届いてくる。……酸素。誰か、医療用酸素を持ってきてくれ)
「……電気を消すぞ」
パチン、と。
部屋が完全な闇に包まれた。
視界が閉ざされたことで、他の感覚が異常なほど鋭敏になる。
シーツ越しに伝わってくる、蓮の体温。
すぐ隣で繰り返される、深くて静かな呼吸の音。
旭は、石のように硬直した。
指先一つ動かせない。
もし動いて、隣に触れてしまったら、その瞬間に自分の正体がバレるどころか、この尊い空間を汚してしまう気がした。
「……あゆみさん」
闇の中から、低い声が届く。
枕を介して、その振動が直接、旭の耳の奥を揺らした。
「……っ、はい」
「あいつに……景に、何をされた」
「……え? 何も。……ただ、可愛いと言ってくださって……」
隣で、布団が大きく動く気配がした。
蓮がこちらを向いたのだと、空気の動きで分かる。
「……あいつは、誰にでもそう言う。……本気にするな。……お前の、その……」
言葉が、途切れる。
蓮の手が、暗闇の中を彷徨い、旭の掛けている毛布の端を握った。
「……一条、様?」
「……寝ろ。……明日は早い」
蓮はそれだけ言うと、背を向けた。
けれど、握られた毛布の端から、彼の指先の震えが、旭の肩まで伝わってくる。
(……一条さん。もしかして、怒ってるんじゃなくて……怖がってる? 俺がいなくなるのを? いや、そんなはずない。俺はただの身代わりなのに……)
旭は、真っ赤になった顔を枕に沈めた。
心臓の音が、うるさくて仕方ない。
ドク、ドク、と。
自分のものか、それとも隣で眠る彼のものか分からないほど、激しい鼓動が夜の闇に溶け合っていく。
形だけの夫婦。
触れてはいけない、二人の距離。
けれど、この広すぎるベッドの中で、二人が共有している熱だけは、あまりにも確かで、残酷なほど甘かった。
旭は、握りしめた拳を胸元に寄せ、一生終わらないでほしいような、けれど今すぐ逃げ出したいような、矛盾した夜の淵を、ただ一人彷徨い続けることになった。
窓の外、深夜の都会を走る車の走行音が、遠い雨音のように聞こえてくる。
夜明けまで、あと数時間。
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