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17話
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ユリアンが「お詫びの品」として置いていったのは、真珠のような輝きを放つ、最高級の聖獣用バスソルトだった。
『聖域の香りと浄化の雫』と銘打たれたそれは、ほんの少しお湯に溶かすだけで、森の奥深くにある泉のような、清々しくも甘い香りが立ち昇る。
「わあ、いい香り……。コン、これでお風呂に入ったら、もっとふわふわになれるかもね」
管理棟の裏手にある、聖獣専用の大きな浴場。リヒトは少年の姿のコンを連れて、準備を整えていた。
「リヒトといっしょ! コン、おふろだいすき!」
コンは尻尾を振り回して大喜びだ。リヒトがバスソルトを一掴み湯船に入れると、お湯は透き通った碧色に変わり、柔らかな魔力の泡がぷくぷくと浮かび上がった。
しかし、その極上の香りは、管理棟でくつろいでいた他の面々を黙らせてはくれなかった。
「がうっ?」
まず現れたのは、鼻をピクピクさせたフェンリルだった。その巨体で浴場の扉を押し開け、期待に満ちた金色の瞳でリヒトを見つめる。
「あ、フェンリル! 君にはちょっとこの浴槽は狭いよ。……わわっ、入ってきちゃダメだって!」
ドッバーン!!
フェンリルの乱入により、リヒトは頭から聖なるお湯を被り、浴場は一瞬にして洪水状態となった。
さらに、窓からはピピ(翠嵐鳥)が飛び込み、泡を突いて遊び始め、コンはフェンリルの背中に登って「おふねだー!」とはしゃぎ回る。
「みんな、落ち着いて! お湯がなくなっちゃうよ!」
濡れそぞろになったリヒトが、滑りやすい床で悪戦苦闘していると、背後の扉が静かに開いた。
「……何の騒ぎだ、これは」
現れたのは、視察帰りのジークヴァルトだった。
彼は、湯気に煙る浴場の中で、びしょ濡れのブラウスが肌に張り付き、困り果てているリヒトの姿を目にし、一瞬だけ呼吸を忘れた。
「あ、ジークヴァルト様! すみません、みんながこの香りに誘われて集まってきちゃって……」
リヒトが顔を赤らめて弁明する。ジークヴァルトは、視線をどこに置くべきか迷うように一度天を仰いだが、すぐに覚悟を決めたように袖を捲り上げた。
「……仕方ない。ハンスを呼ぶまでもない。私が手伝おう」
「えっ、団長様が!? でも、服が汚れちゃいます!」
「構わん。このままだとお前が転んで怪我をする」
ジークヴァルトは漆黒の外套を脱ぎ捨て、リヒトの隣に膝をついた。
彼は大きな手で、暴れるコンの体をしっかりと固定する。
「いいか、小僧。リヒトを困らせるなと言ったはずだ。……リヒト、今のうちにこいつの頭を洗ってやれ」
「あ、はい! ありがとうございます」
図らずも、狭い浴場の中でリヒトとジークヴァルトの距離が急接近した。
リヒトがコンに泡を乗せて洗うたび、ジークヴァルトの逞しい腕とリヒトの細い腕が何度も触れ合う。お互いの肌に伝わる、バスソルトの温かさと、微かな聖力の脈動。
「……ジークヴァルト様、意外とお上手ですね」
「……以前、遠征先で軍馬を洗った経験があるだけだ」
ジークヴァルトは無愛想に答えるが、その手つきは驚くほど優しかった。
やがて、全員が洗い終わる頃には、浴場は至福の香りと満足げな吐息に包まれていた。
フェンリルは濡れた毛をブルブルと振るわせ(これによってジークヴァルトも完全にびしょ濡れになった)、コンはリヒトの膝の上で、湯冷めしないようにタオルに包まれてウトウトしている。
「……ふふ、ジークヴァルト様。なんだか、本当の家族みたいですね」
リヒトがふと漏らした言葉に、ジークヴァルトの胸が大きく跳ねた。
「家族……か」
ジークヴァルトは、濡れて額に張り付いたリヒトの銀髪を、指先でそっと掻き上げた。
「……悪くない響きだ」
そう呟くジークヴァルトの瞳は、これまでにないほど穏やかで、深い慈しみに満ちていた。
お風呂上がりのリヒトの頬は桃色に染まり、バスソルトの香りが二人の間を優しく繋いでいる。
騎士団長としての厳格な仮面は、温かな湯気の中に、すっかり溶け去っていた。
『聖域の香りと浄化の雫』と銘打たれたそれは、ほんの少しお湯に溶かすだけで、森の奥深くにある泉のような、清々しくも甘い香りが立ち昇る。
「わあ、いい香り……。コン、これでお風呂に入ったら、もっとふわふわになれるかもね」
管理棟の裏手にある、聖獣専用の大きな浴場。リヒトは少年の姿のコンを連れて、準備を整えていた。
「リヒトといっしょ! コン、おふろだいすき!」
コンは尻尾を振り回して大喜びだ。リヒトがバスソルトを一掴み湯船に入れると、お湯は透き通った碧色に変わり、柔らかな魔力の泡がぷくぷくと浮かび上がった。
しかし、その極上の香りは、管理棟でくつろいでいた他の面々を黙らせてはくれなかった。
「がうっ?」
まず現れたのは、鼻をピクピクさせたフェンリルだった。その巨体で浴場の扉を押し開け、期待に満ちた金色の瞳でリヒトを見つめる。
「あ、フェンリル! 君にはちょっとこの浴槽は狭いよ。……わわっ、入ってきちゃダメだって!」
ドッバーン!!
フェンリルの乱入により、リヒトは頭から聖なるお湯を被り、浴場は一瞬にして洪水状態となった。
さらに、窓からはピピ(翠嵐鳥)が飛び込み、泡を突いて遊び始め、コンはフェンリルの背中に登って「おふねだー!」とはしゃぎ回る。
「みんな、落ち着いて! お湯がなくなっちゃうよ!」
濡れそぞろになったリヒトが、滑りやすい床で悪戦苦闘していると、背後の扉が静かに開いた。
「……何の騒ぎだ、これは」
現れたのは、視察帰りのジークヴァルトだった。
彼は、湯気に煙る浴場の中で、びしょ濡れのブラウスが肌に張り付き、困り果てているリヒトの姿を目にし、一瞬だけ呼吸を忘れた。
「あ、ジークヴァルト様! すみません、みんながこの香りに誘われて集まってきちゃって……」
リヒトが顔を赤らめて弁明する。ジークヴァルトは、視線をどこに置くべきか迷うように一度天を仰いだが、すぐに覚悟を決めたように袖を捲り上げた。
「……仕方ない。ハンスを呼ぶまでもない。私が手伝おう」
「えっ、団長様が!? でも、服が汚れちゃいます!」
「構わん。このままだとお前が転んで怪我をする」
ジークヴァルトは漆黒の外套を脱ぎ捨て、リヒトの隣に膝をついた。
彼は大きな手で、暴れるコンの体をしっかりと固定する。
「いいか、小僧。リヒトを困らせるなと言ったはずだ。……リヒト、今のうちにこいつの頭を洗ってやれ」
「あ、はい! ありがとうございます」
図らずも、狭い浴場の中でリヒトとジークヴァルトの距離が急接近した。
リヒトがコンに泡を乗せて洗うたび、ジークヴァルトの逞しい腕とリヒトの細い腕が何度も触れ合う。お互いの肌に伝わる、バスソルトの温かさと、微かな聖力の脈動。
「……ジークヴァルト様、意外とお上手ですね」
「……以前、遠征先で軍馬を洗った経験があるだけだ」
ジークヴァルトは無愛想に答えるが、その手つきは驚くほど優しかった。
やがて、全員が洗い終わる頃には、浴場は至福の香りと満足げな吐息に包まれていた。
フェンリルは濡れた毛をブルブルと振るわせ(これによってジークヴァルトも完全にびしょ濡れになった)、コンはリヒトの膝の上で、湯冷めしないようにタオルに包まれてウトウトしている。
「……ふふ、ジークヴァルト様。なんだか、本当の家族みたいですね」
リヒトがふと漏らした言葉に、ジークヴァルトの胸が大きく跳ねた。
「家族……か」
ジークヴァルトは、濡れて額に張り付いたリヒトの銀髪を、指先でそっと掻き上げた。
「……悪くない響きだ」
そう呟くジークヴァルトの瞳は、これまでにないほど穏やかで、深い慈しみに満ちていた。
お風呂上がりのリヒトの頬は桃色に染まり、バスソルトの香りが二人の間を優しく繋いでいる。
騎士団長としての厳格な仮面は、温かな湯気の中に、すっかり溶け去っていた。
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