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3話
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約束の一週間が始まった。
ガンツは朝一番に、居間の長椅子に座ってルカと向かい合った。テーブルの上には、彼が傭兵時代に培った効率的な「生活表」が広げられている。
「いいか。居候させる条件は『俺の邪魔をしないこと』だ。あんたが家事を手伝うってんなら、まずはこの皿洗いと洗濯からやってもらう」
「はい、ガンツ様!僕、頑張ります。あなたの愛する家を、僕の手でピカピカにしてみせます!」
ルカは短髪を揺らし、期待に満ちた目で拳を握った。その背後には、幻の尻尾が激しく左右に振られているのが見える。
ガンツは嫌な予感を拭いきれないまま、朝食の片付けをルカに託し、自分は裏の畑の様子を見に行くことにした。
三十分後。
畑の雑草を抜いていたガンツの耳に、乾いた破壊音が届いた。
――ガシャン!
一度ではない。二度、三度。まるで、何かの崩落事故でも起きたかのような連続音だ。
ガンツは泥のついた手を拭う間もなく、跳ねるように家の中へ駆け込んだ。
「おい!何事だ!」
台所に飛び込んだガンツの視界に入ったのは、床に散らばる陶器の残骸と、その中心で呆然と立ち尽くす王子の姿だった。
「あ、あの……。お皿が、僕の手から逃げていくんです。石鹸の泡がついた瞬間、まるで生き物みたいに……」
ルカは泣きそうな顔で、残った一枚を抱きしめていた。だが、その指先が震えた拍子に、最後の一枚も無残に床へダイブし、粉々に砕け散った。
「……あんた、皿一枚洗うのにどれだけ派手な戦いをしてるんだ」
「ごめんなさい……っ。僕、力加減が分からなくて。汚れを落とそうと力を入れると、指の間から滑り落ちてしまうんです」
ガンツは深く、長く、肺の底から溜息を吐き出した。
「どけ。破片で足を切る。あとは俺がやるから、あんたは洗濯物を持って外へ行け。いいか、絞る時は優しくだぞ」
「はい……。次は絶対に失敗しません!」
しょげ返っていたルカだったが、新しい任務を与えられると、現金なことにすぐさま顔を輝かせた。
しかし、平和は長くは続かなかった。
ガンツが台所の掃除を終え、割れた皿の供養(埋却)を終えた頃、今度は庭から「びりっ」という、布が断末魔を上げるような音が聞こえてきた。
嫌な汗が背中を伝う。ガンツが慌てて庭へ出ると、そこには麻のシャツを手に、固まっているルカがいた。
シャツの袖口は、あろうことか根元から引きちぎられている。
「……ルカ」
「あ、あの!ガンツ様!これはその、決してふざけているわけではなくて!汚れをしっかり落とそうと思って、一生懸命に絞っただけなんです!」
「絞るってのは、布を引き裂くことじゃねえ。……つーか、あんたの握力はどうなってやがる」
ルカは見た目こそ華奢で美しいが、無意識に発揮される「馬鹿力」には目を見張るものがあった。本人は加減を知らないため、触れるものすべてを破壊していく歩く災害と化している。
「あああ、僕なんて……!家事すらできないなんて、ガンツ様の隣に立つ資格がありません!いっそこの破れたシャツで、僕の首を絞めてください!」
ルカは庭に蹲り、またしても全力の号泣を開始した。
「無茶を言うな。シャツがもったいねえだろうが」
ガンツはルカの隣に膝をつき、その大きな手で王子の後頭部をぐいと掴んだ。
泣きじゃくるルカの身体が、一瞬だけびくんと跳ねる。
「……俺の服は、俺が縫い直す。あんたは黙って見てろ」
「縫い……直す?ガンツ様がですか?」
涙で濡れた顔を上げたルカは、驚きに目を見開いた。
ガンツは無言で家に入り、棚から小さな裁縫箱を取り出した。傭兵時代、衣服の破れは自分で直すのが当たり前だったし、それが高じて今の彼は刺繍が趣味になるほどの上級者だ。
縁側に座り、無骨な指先で針に糸を通す。ルカはその様子を、息を呑んで隣で見守っていた。
「……すごい。ガンツ様の指、あんなに太いのに、妖精の仕業みたいに繊細だ……」
「妖精なんて柄じゃねえよ」
ガンツは淡々と針を動かし、ルカが引きちぎった袖口を、元の状態よりもさらに強固に縫い合わせていく。
ルカはいつの間にか泣き止み、ガンツの横顔を熱っぽい視線で見つめていた。
「やっぱり、ガンツ様は僕の憧れです。強くて、怖くて、でもこんなに優しい。あぁ、僕、もっとあなたのことが好きになりました」
「……仕事の邪魔だ。黙ってろと言っただろうが」
ガンツは耳の付け根が熱くなるのを感じ、わざとらしくぶっきらぼうに返した。
ルカの視線が、物理的な重さを持って肌に刺さる。
隠居生活三日目にして、ガンツは理解し始めていた。
この王子にとって、家事ができるかどうかなど、大した問題ではないのだ。彼はただ、あらゆる手段を使ってガンツの視界に入り、その存在を刻み込もうとしている。
それは、戦場での奇襲よりも巧妙で、回避不能な攻撃だった。
「ガンツ様。あの、次は……僕にその、縫い物を教えてくれませんか?」
「あんたに針を持たせたら、指を穴だらけにするのが目に見えてる。却下だ」
「えぇーっ、そこをなんとか!あなたの指に触れながら教わりたいんです!」
「下心が透けてんだよ、このバカ王子!」
辺境の静かなはずの午後に、ガンツの怒号が響き渡る。
だが、その声には、初日のような本気の拒絶は含まれていなかった。
ボロボロになった家を眺めながら、ガンツは「一週間で追い出す」という決意が、砂の城のように脆く崩れていくのを、必死に無視し続けていた。
ガンツは朝一番に、居間の長椅子に座ってルカと向かい合った。テーブルの上には、彼が傭兵時代に培った効率的な「生活表」が広げられている。
「いいか。居候させる条件は『俺の邪魔をしないこと』だ。あんたが家事を手伝うってんなら、まずはこの皿洗いと洗濯からやってもらう」
「はい、ガンツ様!僕、頑張ります。あなたの愛する家を、僕の手でピカピカにしてみせます!」
ルカは短髪を揺らし、期待に満ちた目で拳を握った。その背後には、幻の尻尾が激しく左右に振られているのが見える。
ガンツは嫌な予感を拭いきれないまま、朝食の片付けをルカに託し、自分は裏の畑の様子を見に行くことにした。
三十分後。
畑の雑草を抜いていたガンツの耳に、乾いた破壊音が届いた。
――ガシャン!
一度ではない。二度、三度。まるで、何かの崩落事故でも起きたかのような連続音だ。
ガンツは泥のついた手を拭う間もなく、跳ねるように家の中へ駆け込んだ。
「おい!何事だ!」
台所に飛び込んだガンツの視界に入ったのは、床に散らばる陶器の残骸と、その中心で呆然と立ち尽くす王子の姿だった。
「あ、あの……。お皿が、僕の手から逃げていくんです。石鹸の泡がついた瞬間、まるで生き物みたいに……」
ルカは泣きそうな顔で、残った一枚を抱きしめていた。だが、その指先が震えた拍子に、最後の一枚も無残に床へダイブし、粉々に砕け散った。
「……あんた、皿一枚洗うのにどれだけ派手な戦いをしてるんだ」
「ごめんなさい……っ。僕、力加減が分からなくて。汚れを落とそうと力を入れると、指の間から滑り落ちてしまうんです」
ガンツは深く、長く、肺の底から溜息を吐き出した。
「どけ。破片で足を切る。あとは俺がやるから、あんたは洗濯物を持って外へ行け。いいか、絞る時は優しくだぞ」
「はい……。次は絶対に失敗しません!」
しょげ返っていたルカだったが、新しい任務を与えられると、現金なことにすぐさま顔を輝かせた。
しかし、平和は長くは続かなかった。
ガンツが台所の掃除を終え、割れた皿の供養(埋却)を終えた頃、今度は庭から「びりっ」という、布が断末魔を上げるような音が聞こえてきた。
嫌な汗が背中を伝う。ガンツが慌てて庭へ出ると、そこには麻のシャツを手に、固まっているルカがいた。
シャツの袖口は、あろうことか根元から引きちぎられている。
「……ルカ」
「あ、あの!ガンツ様!これはその、決してふざけているわけではなくて!汚れをしっかり落とそうと思って、一生懸命に絞っただけなんです!」
「絞るってのは、布を引き裂くことじゃねえ。……つーか、あんたの握力はどうなってやがる」
ルカは見た目こそ華奢で美しいが、無意識に発揮される「馬鹿力」には目を見張るものがあった。本人は加減を知らないため、触れるものすべてを破壊していく歩く災害と化している。
「あああ、僕なんて……!家事すらできないなんて、ガンツ様の隣に立つ資格がありません!いっそこの破れたシャツで、僕の首を絞めてください!」
ルカは庭に蹲り、またしても全力の号泣を開始した。
「無茶を言うな。シャツがもったいねえだろうが」
ガンツはルカの隣に膝をつき、その大きな手で王子の後頭部をぐいと掴んだ。
泣きじゃくるルカの身体が、一瞬だけびくんと跳ねる。
「……俺の服は、俺が縫い直す。あんたは黙って見てろ」
「縫い……直す?ガンツ様がですか?」
涙で濡れた顔を上げたルカは、驚きに目を見開いた。
ガンツは無言で家に入り、棚から小さな裁縫箱を取り出した。傭兵時代、衣服の破れは自分で直すのが当たり前だったし、それが高じて今の彼は刺繍が趣味になるほどの上級者だ。
縁側に座り、無骨な指先で針に糸を通す。ルカはその様子を、息を呑んで隣で見守っていた。
「……すごい。ガンツ様の指、あんなに太いのに、妖精の仕業みたいに繊細だ……」
「妖精なんて柄じゃねえよ」
ガンツは淡々と針を動かし、ルカが引きちぎった袖口を、元の状態よりもさらに強固に縫い合わせていく。
ルカはいつの間にか泣き止み、ガンツの横顔を熱っぽい視線で見つめていた。
「やっぱり、ガンツ様は僕の憧れです。強くて、怖くて、でもこんなに優しい。あぁ、僕、もっとあなたのことが好きになりました」
「……仕事の邪魔だ。黙ってろと言っただろうが」
ガンツは耳の付け根が熱くなるのを感じ、わざとらしくぶっきらぼうに返した。
ルカの視線が、物理的な重さを持って肌に刺さる。
隠居生活三日目にして、ガンツは理解し始めていた。
この王子にとって、家事ができるかどうかなど、大した問題ではないのだ。彼はただ、あらゆる手段を使ってガンツの視界に入り、その存在を刻み込もうとしている。
それは、戦場での奇襲よりも巧妙で、回避不能な攻撃だった。
「ガンツ様。あの、次は……僕にその、縫い物を教えてくれませんか?」
「あんたに針を持たせたら、指を穴だらけにするのが目に見えてる。却下だ」
「えぇーっ、そこをなんとか!あなたの指に触れながら教わりたいんです!」
「下心が透けてんだよ、このバカ王子!」
辺境の静かなはずの午後に、ガンツの怒号が響き渡る。
だが、その声には、初日のような本気の拒絶は含まれていなかった。
ボロボロになった家を眺めながら、ガンツは「一週間で追い出す」という決意が、砂の城のように脆く崩れていくのを、必死に無視し続けていた。
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