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3話
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ロストック城の朝は早い。
騎士たちが訓練場で上げる気合の声が響く中、ユアンは誰よりも早く中庭に出ていた。
彼が指先で円を描くと、朝露を含んだ柔らかな風が、植えたばかりの苗を優しく撫でる。その魔法に応えるように、数日前に植えた『ハニーベリー』が、奇跡のような速さで小さな白い花を咲かせていた。
「おはよう。今日もいい子だね」
ユアンが魔法で成長を促していることは、まだ誰にも秘密だ。あまりに早く育ちすぎると、変に怪しまれて「お飾り」の平穏が壊れるかもしれないから。
しかし、そんなユアンの秘密基地にも、新しい来客が現れた。
「……ユアン様。またこちらにおられましたか」
声をかけてきたのは、城の料理長を務める恰幅の良い男性、バルトだ。彼は最初、ひょろりとした貴族の坊ちゃんであるユアンを訝しんでいたが、ユアンが「この香草、スープに入れると臭みが消えますよ」と庭の隅に生えていた野草を差し出して以来、すっかり意気投合していた。
「バルトさん、おはようございます。見てください、ハニーベリーが咲きましたよ」
「ほう、これは見事な。この寒冷な北の地で、これほど早く花をつけるとは……。ユアン様、あんたは本当に不思議な手をお持ちだ」
バルトは感心したように頷き、大きな手でユアンの肩を叩いた。
ユアンはくすぐったそうに笑う。城の使用人たちは、主であるアルヴィスを恐れている分、新しくやってきた物腰の柔らかい「奥様(仮)」であるユアンを、温かく受け入れ始めていた。
だが、その様子を遠くの回廊から見つめる、鋭い金色の瞳があった。
「…………」
アルヴィス・フォン・ロストックは、執務室へ向かう足を止め、中庭を見下ろしていた。
そこには、朝日に照らされて柔らかそうに髪を揺らすユアンと、彼と親しげに談笑する料理長の姿がある。
ユアンがバルトに対して見せている、あの花が咲いたような笑顔。
アルヴィスは、自分があの笑顔を向けられたことが一度もないことに、不意に気づいてしまった。
(……馴れ馴れしい。料理長は、厨房に戻るべきではないのか)
胸の奥に、得体の知れない「もやもや」が広がる。それは呪いによる熱とは違う、もっと重苦しくて、じりじりとした不快感だった。
彼は無意識に拳を握りしめ、そのまま執務室へと向かった。
数時間後。
ユアンは契約通り、アルヴィスの「冷却」のために執務室を訪れた。
「失礼します、閣下。お疲れではありませんか?」
ユアンが中に入ると、部屋の中はいつも以上に張り詰めた空気が漂っていた。アルヴィスは山積みの書類を前に、鬼のような形相でペンを動かしている。
「……何でもない。勝手に始めろ」
冷たい声。ユアンは「おや?」と思った。今日はいつにも増して、彼から放出されている熱気が鋭い気がする。
ユアンはそっとアルヴィスの背後に回り、いつものように指先から風を紡いだ。
「『そよ風さん、森の木陰を連れてきて』」
ふわり、と室内に森の香りが混じった冷気が流れる。
アルヴィスの肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。だが、彼は顔を上げない。
「……お前は、庭仕事がそんなに楽しいのか」
「えっ? はい、とっても! バルトさんからも褒めてもらえましたし、次はトマトを植えようかと思っているんです」
ユアンが嬉しそうに語ると、アルヴィスのペンの動きがピタリと止まった。
「……料理長と、何を話していた」
「ええと、料理のコツとか、この土地に合う野菜の話とか……。あ、そうだ! 閣下、これ」
ユアンは懐から、小さな瓶を取り出した。中には、ハニーベリーの花びらを乾燥させたものが入っている。
「これをお茶に入れると、すごく心が落ち着くんです。閣下はいつもお忙しそうだから、少しでもリラックスしてほしくて」
ユアンは、アルヴィスの机の端にあるティーカップに、ぱらりとその花びらを散らした。
甘く、どこか懐かしい香りが部屋に広がる。
「……私に、毒など入っていないだろうなと言ったはずだが」
「毒なんて入れませんよ。僕、閣下にはずっと元気でいてほしいんです。じゃないと、僕、ここを追い出されちゃいますから」
ユアンは茶目っ気たっぷりに笑った。
その言葉の半分は本音で、半分は彼なりの気遣いだった。自分をここに置いてくれている唯一の恩人に、健やかでいてほしい。
アルヴィスは、差し出されたカップをじっと見つめた。
そして、おもむろにそれを口に運ぶ。
「…………甘いな」
「でしょう? ハニーベリーの魔法です」
アルヴィスは、カップを持つ手に僅かに力を入れた。
先ほどまでの「もやもや」が、この一杯の茶で消えるわけではない。だが、ユアンが「自分を追い出さないでほしい」と言ったことに、何故か少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
「……悪くない」
ボソリと呟かれたその言葉は、ユアンの風に乗って、彼の耳にしっかりと届いた。
「よかった。また明日も持ってきますね」
ユアンが去った後、アルヴィスは空になったカップを見つめながら、自分の心が少しずつ「番」のペースに巻き込まれていることを自覚し始めていた。
契約終了まで、残り351日。
冷徹な騎士王の執務室に、初めて「お茶の時間」という穏やかな習慣が加わった。
騎士たちが訓練場で上げる気合の声が響く中、ユアンは誰よりも早く中庭に出ていた。
彼が指先で円を描くと、朝露を含んだ柔らかな風が、植えたばかりの苗を優しく撫でる。その魔法に応えるように、数日前に植えた『ハニーベリー』が、奇跡のような速さで小さな白い花を咲かせていた。
「おはよう。今日もいい子だね」
ユアンが魔法で成長を促していることは、まだ誰にも秘密だ。あまりに早く育ちすぎると、変に怪しまれて「お飾り」の平穏が壊れるかもしれないから。
しかし、そんなユアンの秘密基地にも、新しい来客が現れた。
「……ユアン様。またこちらにおられましたか」
声をかけてきたのは、城の料理長を務める恰幅の良い男性、バルトだ。彼は最初、ひょろりとした貴族の坊ちゃんであるユアンを訝しんでいたが、ユアンが「この香草、スープに入れると臭みが消えますよ」と庭の隅に生えていた野草を差し出して以来、すっかり意気投合していた。
「バルトさん、おはようございます。見てください、ハニーベリーが咲きましたよ」
「ほう、これは見事な。この寒冷な北の地で、これほど早く花をつけるとは……。ユアン様、あんたは本当に不思議な手をお持ちだ」
バルトは感心したように頷き、大きな手でユアンの肩を叩いた。
ユアンはくすぐったそうに笑う。城の使用人たちは、主であるアルヴィスを恐れている分、新しくやってきた物腰の柔らかい「奥様(仮)」であるユアンを、温かく受け入れ始めていた。
だが、その様子を遠くの回廊から見つめる、鋭い金色の瞳があった。
「…………」
アルヴィス・フォン・ロストックは、執務室へ向かう足を止め、中庭を見下ろしていた。
そこには、朝日に照らされて柔らかそうに髪を揺らすユアンと、彼と親しげに談笑する料理長の姿がある。
ユアンがバルトに対して見せている、あの花が咲いたような笑顔。
アルヴィスは、自分があの笑顔を向けられたことが一度もないことに、不意に気づいてしまった。
(……馴れ馴れしい。料理長は、厨房に戻るべきではないのか)
胸の奥に、得体の知れない「もやもや」が広がる。それは呪いによる熱とは違う、もっと重苦しくて、じりじりとした不快感だった。
彼は無意識に拳を握りしめ、そのまま執務室へと向かった。
数時間後。
ユアンは契約通り、アルヴィスの「冷却」のために執務室を訪れた。
「失礼します、閣下。お疲れではありませんか?」
ユアンが中に入ると、部屋の中はいつも以上に張り詰めた空気が漂っていた。アルヴィスは山積みの書類を前に、鬼のような形相でペンを動かしている。
「……何でもない。勝手に始めろ」
冷たい声。ユアンは「おや?」と思った。今日はいつにも増して、彼から放出されている熱気が鋭い気がする。
ユアンはそっとアルヴィスの背後に回り、いつものように指先から風を紡いだ。
「『そよ風さん、森の木陰を連れてきて』」
ふわり、と室内に森の香りが混じった冷気が流れる。
アルヴィスの肩の力が、ほんの少しだけ抜けた。だが、彼は顔を上げない。
「……お前は、庭仕事がそんなに楽しいのか」
「えっ? はい、とっても! バルトさんからも褒めてもらえましたし、次はトマトを植えようかと思っているんです」
ユアンが嬉しそうに語ると、アルヴィスのペンの動きがピタリと止まった。
「……料理長と、何を話していた」
「ええと、料理のコツとか、この土地に合う野菜の話とか……。あ、そうだ! 閣下、これ」
ユアンは懐から、小さな瓶を取り出した。中には、ハニーベリーの花びらを乾燥させたものが入っている。
「これをお茶に入れると、すごく心が落ち着くんです。閣下はいつもお忙しそうだから、少しでもリラックスしてほしくて」
ユアンは、アルヴィスの机の端にあるティーカップに、ぱらりとその花びらを散らした。
甘く、どこか懐かしい香りが部屋に広がる。
「……私に、毒など入っていないだろうなと言ったはずだが」
「毒なんて入れませんよ。僕、閣下にはずっと元気でいてほしいんです。じゃないと、僕、ここを追い出されちゃいますから」
ユアンは茶目っ気たっぷりに笑った。
その言葉の半分は本音で、半分は彼なりの気遣いだった。自分をここに置いてくれている唯一の恩人に、健やかでいてほしい。
アルヴィスは、差し出されたカップをじっと見つめた。
そして、おもむろにそれを口に運ぶ。
「…………甘いな」
「でしょう? ハニーベリーの魔法です」
アルヴィスは、カップを持つ手に僅かに力を入れた。
先ほどまでの「もやもや」が、この一杯の茶で消えるわけではない。だが、ユアンが「自分を追い出さないでほしい」と言ったことに、何故か少しだけ呼吸が楽になったような気がした。
「……悪くない」
ボソリと呟かれたその言葉は、ユアンの風に乗って、彼の耳にしっかりと届いた。
「よかった。また明日も持ってきますね」
ユアンが去った後、アルヴィスは空になったカップを見つめながら、自分の心が少しずつ「番」のペースに巻き込まれていることを自覚し始めていた。
契約終了まで、残り351日。
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