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4話
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ロストック城に新しい風が吹き始めていた。
それはユアンが放つ魔法の風だけでなく、城内の空気そのものが、どこか柔らかくほぐれ始めているような変化だ。
その変化を最も敏感に察知したのは、アルヴィスの右腕であり、この城の副官を務めるリアムだった。
「――というわけで閣下、来月の演習の予算案ですが……おや、何か良い香りですね?」
執務室に入ってきたリアムは、鼻をひくつかせた。
無機質で、常に張り詰めた殺気が漂っていたはずの部屋に、微かに甘いハニーベリーの香りが残っている。そして何より、机に向かう主人の表情が、心なしかいつもより「険しくない」。
「……気のせいだ。報告を続けろ」
「いえいえ、これはユアン様がお淹れになったお茶でしょう? 騎士団の間でも噂ですよ。最近、閣下が穏やかになられたのは『お飾り様』の魔法のおかげだって」
リアムがニヤニヤしながら告げると、アルヴィスは持っていたペンをピシリと止めた。
「『お飾り』などと、誰が呼んでいる」
「おっと、失礼。愛称のようなものですよ。何しろ、あのマクレーン家の令息が、今や城の料理番や庭師たちのアイドルですからね。昨日も訓練場の裏で、若い騎士たちにハーブの効能を教えていらした」
アルヴィスの眉間の皺が、一気に深くなった。
自分が知らないところで、ユアンが他人と親しくしている。それも、血気盛んな若い騎士たちと。
「……ユアンは私の『番』だ。あまり勝手な真似をされては困る」
「ははあ、なるほど。心配ですか? でしたら、閣下ももっと素直にユアン様を構ってあげればよろしいのに」
リアムの軽口を無視するように、アルヴィスは立ち上がった。
ちょうどそこへ、ノックの音が響く。
「失礼します、閣下。冷却の時間ですが……あ、リアムさんもいたんですね。お疲れ様です!」
入ってきたのは、麻のシャツの袖をまくり、少し土のついたエプロン姿のユアンだった。その手には、摘みたての青々としたハーブの束が握られている。
「やあ、ユアン様。今日も元気そうですね」
「はい! リアムさん、先日教えたミントの湿布、効きましたか?」
「ええ、おかげさまで打ち身の痛みが引きましたよ。今度またお礼をさせてください」
親しげに笑い合う二人。
その間に、突如として氷点下の冷気が――いや、実際にはアルヴィスから発せられる強烈な「圧」が割り込んだ。
「……冷却を。リアム、貴様は仕事に戻れ」
「おや、お邪魔虫は退散ですね。ではユアン様、また後ほど」
リアムは楽しそうに肩をすくめて部屋を出ていった。
残された室内には、気まずい沈黙が流れる。ユアンは小首を傾げながら、アルヴィスの側に寄った。
「閣下、何か怒ってますか? もしかして、またお熱が上がって……」
「……不注意だぞ」
「えっ?」
アルヴィスは、ユアンの頬に一粒だけ付いていた土を、大きな親指で拭った。
その手つきは、自分でも驚くほど慎重で、まるで壊れやすい宝物に触れるかのようだった。
「騎士たちに、安安と触らせるな。お前は、契約上は私の妻だ」
「あ……。はい、すみません。でも、皆さん訓練で怪我が多かったので、少しでも役に立てればと」
ユアンは申し訳なさそうに視線を落とした。
アルヴィスは、自分でも自分の感情がよく分からなかった。執着などしていないはずだ。これはあくまで『番』としての面目の問題だ、と言い聞かせる。
「……私の前だけでいい。その魔法も、笑顔も」
最後の一言は、ほとんど呟きに近いほど小さかった。
ユアンにはそれが「契約者としての命令」に聞こえた。
「分かりました。閣下の前では、一番いい魔法を使いますね!」
そう言って、ユアンはアルヴィスの火照った首筋に手を添え、『微風』を贈る。
アルヴィスは目を閉じ、その涼しさを享受しながら思った。
一年の契約が終わった時、自分はこの風を、この穏やかな温度を、手放すことができるのだろうかと。
契約終了まで、残り345日。
冷徹な騎士王は、自分の中に芽生えた「独占欲」という名の熱に、まだ名前を付けられずにいた。
それはユアンが放つ魔法の風だけでなく、城内の空気そのものが、どこか柔らかくほぐれ始めているような変化だ。
その変化を最も敏感に察知したのは、アルヴィスの右腕であり、この城の副官を務めるリアムだった。
「――というわけで閣下、来月の演習の予算案ですが……おや、何か良い香りですね?」
執務室に入ってきたリアムは、鼻をひくつかせた。
無機質で、常に張り詰めた殺気が漂っていたはずの部屋に、微かに甘いハニーベリーの香りが残っている。そして何より、机に向かう主人の表情が、心なしかいつもより「険しくない」。
「……気のせいだ。報告を続けろ」
「いえいえ、これはユアン様がお淹れになったお茶でしょう? 騎士団の間でも噂ですよ。最近、閣下が穏やかになられたのは『お飾り様』の魔法のおかげだって」
リアムがニヤニヤしながら告げると、アルヴィスは持っていたペンをピシリと止めた。
「『お飾り』などと、誰が呼んでいる」
「おっと、失礼。愛称のようなものですよ。何しろ、あのマクレーン家の令息が、今や城の料理番や庭師たちのアイドルですからね。昨日も訓練場の裏で、若い騎士たちにハーブの効能を教えていらした」
アルヴィスの眉間の皺が、一気に深くなった。
自分が知らないところで、ユアンが他人と親しくしている。それも、血気盛んな若い騎士たちと。
「……ユアンは私の『番』だ。あまり勝手な真似をされては困る」
「ははあ、なるほど。心配ですか? でしたら、閣下ももっと素直にユアン様を構ってあげればよろしいのに」
リアムの軽口を無視するように、アルヴィスは立ち上がった。
ちょうどそこへ、ノックの音が響く。
「失礼します、閣下。冷却の時間ですが……あ、リアムさんもいたんですね。お疲れ様です!」
入ってきたのは、麻のシャツの袖をまくり、少し土のついたエプロン姿のユアンだった。その手には、摘みたての青々としたハーブの束が握られている。
「やあ、ユアン様。今日も元気そうですね」
「はい! リアムさん、先日教えたミントの湿布、効きましたか?」
「ええ、おかげさまで打ち身の痛みが引きましたよ。今度またお礼をさせてください」
親しげに笑い合う二人。
その間に、突如として氷点下の冷気が――いや、実際にはアルヴィスから発せられる強烈な「圧」が割り込んだ。
「……冷却を。リアム、貴様は仕事に戻れ」
「おや、お邪魔虫は退散ですね。ではユアン様、また後ほど」
リアムは楽しそうに肩をすくめて部屋を出ていった。
残された室内には、気まずい沈黙が流れる。ユアンは小首を傾げながら、アルヴィスの側に寄った。
「閣下、何か怒ってますか? もしかして、またお熱が上がって……」
「……不注意だぞ」
「えっ?」
アルヴィスは、ユアンの頬に一粒だけ付いていた土を、大きな親指で拭った。
その手つきは、自分でも驚くほど慎重で、まるで壊れやすい宝物に触れるかのようだった。
「騎士たちに、安安と触らせるな。お前は、契約上は私の妻だ」
「あ……。はい、すみません。でも、皆さん訓練で怪我が多かったので、少しでも役に立てればと」
ユアンは申し訳なさそうに視線を落とした。
アルヴィスは、自分でも自分の感情がよく分からなかった。執着などしていないはずだ。これはあくまで『番』としての面目の問題だ、と言い聞かせる。
「……私の前だけでいい。その魔法も、笑顔も」
最後の一言は、ほとんど呟きに近いほど小さかった。
ユアンにはそれが「契約者としての命令」に聞こえた。
「分かりました。閣下の前では、一番いい魔法を使いますね!」
そう言って、ユアンはアルヴィスの火照った首筋に手を添え、『微風』を贈る。
アルヴィスは目を閉じ、その涼しさを享受しながら思った。
一年の契約が終わった時、自分はこの風を、この穏やかな温度を、手放すことができるのだろうかと。
契約終了まで、残り345日。
冷徹な騎士王は、自分の中に芽生えた「独占欲」という名の熱に、まだ名前を付けられずにいた。
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