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10話
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収穫祭の熱気が冷めやらぬ翌朝。ロストック城を包む空気は、どこか昨晩の余韻を孕んで甘やかだった。
ユアンはいつものように早起きをして、中庭の『雪どけ草』に朝露を模した魔法の水をかけていた。指先から溢れる微風が、花びらを優しく震わせる。
「昨日は楽しかったね」
花に話しかけるユアンの頬は、今も少しだけ赤い。昨晩、アルヴィスに手を握られた感触が、まだ掌に残っているような気がしたからだ。
そんな穏やかな時間に、足早な靴音が近づいてきた。やってきたのは、副官のリアムだ。その手には一通の手紙が握られている。
「ユアン様、おはようございます。マクレーン男爵家から、あなた宛てに手紙が届いていますよ」
ユアンは驚いて手を止めた。
実家からの連絡など、ここへ売られるようにやってきて以来、一度もなかったからだ。
「……父から、でしょうか?」
「いえ、差出人は長兄のアーサー様のようです。封を切ってお渡ししましょうか?」
「あ、ありがとうございます」
ユアンが手紙を受け取ると、リアムは意味深な笑みを浮かべて、回廊の陰を指差した。そこには、柱に身を隠すようにして(と言っても、その巨体では隠れきれていないのだが)、こちらをじっと見つめるアルヴィスの姿があった。
「閣下、あそこで十五分前から待機していらしたんですよ。手紙が届いたと知るやいなや、仕事の手を止めて飛び出してこられました」
「えっ、閣下が……?」
ユアンが視線を向けると、アルヴィスは「見つかったか」という顔で、咳払いをしながら堂々と歩み寄ってきた。表情こそいつもの冷徹なものだが、その金色の瞳は落ち着きなくユアンの手元を往復している。
「……ユアン。朝の挨拶がまだだったな」
「おはようございます、閣下。あの、手紙が届いたんです」
「…………そうか。実家から、か」
アルヴィスの声が、わずかに低くなった。
彼の脳内では、今まさに最悪のシミュレーションが展開されていた。
(マクレーン家が借金を完済し、ユアンを連れ戻しに来るのではないか? あるいは、別の有力貴族からさらに良い条件の縁談が舞い込み、契約を破棄しようとしているのでは……?)
一度芽生えた独占欲は、冷徹だったはずの彼の思考を驚くほど短絡的なものに変えていた。
「読んで……もいいですか?」
「構わん。お前の自由だ。……だが、もし不当な要求や、無理な帰還を命じられたなら、私が……」
「閣下?」
ユアンは不思議そうに首を傾げながら、手紙に目を落とした。
そこには、真面目すぎて面白みがないことで有名だった長兄・アーサーの、几帳面な文字が並んでいた。
『ユアンへ。元気でやっているか。お前がロストック公爵閣下の元へ行ってから、家の中は妙に静かになった。父上は相変わらずだが、お前が贈ってくれたという先月の「ハニーベリーのジャム」は、母上がとても喜んで食べていた。閣下に粗相をして、追い出されたりはしていないだろうな。もし居場所がないと感じたら、いつでも手紙を書け。兄として、お前の生活の足しになるくらいの金は工面してやる。……体に気をつけるんだぞ』
読み進めるうちに、ユアンの目尻がじんわりと熱くなった。
冷淡な父とは違い、兄は兄なりに、自分のことを案じてくれていたのだ。
「……ユアン? なぜ泣いている」
アルヴィスの声が、今度は焦りに染まった。
彼は大きな手をユアンの肩に置き、覗き込むように顔を近づける。その距離は、昨晩の祭りでの密着を思い出させるほどに近かった。
「ひどい内容だったのか。やはり、すぐにでも戻れと……?」
「いえ、違います。兄が、心配してくれていて。……僕が追い出されてないか、って。それに、いつでも頼れって書いてあったんです」
ユアンが鼻を啜りながら笑うと、アルヴィスは目に見えて安堵の溜息をついた。
だが、安堵の直後、新たな不安が彼を襲う。
(兄を頼れ……? ということは、ユアンにとって、ここはまだ「戻る場所があるまでの仮宿」でしかないということか?)
「……追い出すわけがないだろう」
アルヴィスは、自分でも驚くほど独占的な響きを含んだ声で呟いた。
そして、その日から彼の「奇妙な行動」が始まったのである。
ユアンが厨房へ行こうとすれば、なぜかアルヴィスが「私も少し腹が減った」と付いてくる。
ユアンが庭仕事に戻れば、アルヴィスは近くの東屋で難解そうな軍事書を広げ、五分おきにユアンの様子を確認する。
「冷却」の時間に至っては、本来なら十分程度で終わるはずの魔法を、「今日はまだ少し熱が残っている気がする」と何だかんだ理由をつけて、一時間近くもユアンを側に留め置くようになった。
三日目にして、ユアンはついに尋ねた。
「あの、閣下。……今日はずっと、僕の側にいませんか?」
「……気のせいだ。公爵として、城内の見回りを強化しているだけだ」
「でも、さっきから僕が植えたトマトの苗を、じっと見つめながら書類を読んでますよ。……逆さまですけど」
ユアンが指差すと、アルヴィスは硬直した。
確かに、彼が持っている報告書は上下が逆転していた。
「…………」
「閣下」
ユアンはくすくすと笑いながら、アルヴィスの大きな手のひらに、自分の手をそっと重ねた。
「手紙を読んで、少しだけ実家が恋しくなったのは本当です。でも……僕は、ここが好きですよ。お花も、バルトさんも、リアムさんも」
ユアンはそこで一度言葉を切り、少しだけ恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐにアルヴィスの瞳を見上げた。
「そして……僕に、こんなに広いお庭をくれた閣下のことが、一番好きです。だから、どこにも行きません。契約が終わるその日まで……いえ、終わっても、ここにいたいくらいです」
それは、ユアンなりの最大限の「安心させてあげたい」という気持ちだった。
だが、その言葉を受けたアルヴィスの反応は、ユアンの予想を遥かに超えるものだった。
「…………今、なんと言った」
「えっ? ですから、閣下のことが一番好きで……」
アルヴィスは、重ねられたユアンの手をギュッと握りしめた。
その力強さは、決して逃がさないという誓いのようであり、同時に、震えるほどに繊細な懇願のようでもあった。
「……契約が終わっても、と言ったな。それは、二度と取り消せんぞ」
「ふふ、はい。取り消しません。……だから、そんなに怖そうな顔で回廊から覗くのは、もうおしまいにしてくださいね?」
アルヴィスは、バツが悪そうに視線を逸らした。
彼の耳は、秋の夕日を反射して、見たこともないほど真っ赤に染まっていた。
一通の手紙がもたらした騒動は、結果として、不器用な二人の距離を「お飾り」という概念が通用しない場所まで押し進めてしまった。
契約終了まで、残り290日。
冷徹な騎士王の「見守り(という名の執着)」は、これからも日々、その熱量を増していくことになる。
ユアンはいつものように早起きをして、中庭の『雪どけ草』に朝露を模した魔法の水をかけていた。指先から溢れる微風が、花びらを優しく震わせる。
「昨日は楽しかったね」
花に話しかけるユアンの頬は、今も少しだけ赤い。昨晩、アルヴィスに手を握られた感触が、まだ掌に残っているような気がしたからだ。
そんな穏やかな時間に、足早な靴音が近づいてきた。やってきたのは、副官のリアムだ。その手には一通の手紙が握られている。
「ユアン様、おはようございます。マクレーン男爵家から、あなた宛てに手紙が届いていますよ」
ユアンは驚いて手を止めた。
実家からの連絡など、ここへ売られるようにやってきて以来、一度もなかったからだ。
「……父から、でしょうか?」
「いえ、差出人は長兄のアーサー様のようです。封を切ってお渡ししましょうか?」
「あ、ありがとうございます」
ユアンが手紙を受け取ると、リアムは意味深な笑みを浮かべて、回廊の陰を指差した。そこには、柱に身を隠すようにして(と言っても、その巨体では隠れきれていないのだが)、こちらをじっと見つめるアルヴィスの姿があった。
「閣下、あそこで十五分前から待機していらしたんですよ。手紙が届いたと知るやいなや、仕事の手を止めて飛び出してこられました」
「えっ、閣下が……?」
ユアンが視線を向けると、アルヴィスは「見つかったか」という顔で、咳払いをしながら堂々と歩み寄ってきた。表情こそいつもの冷徹なものだが、その金色の瞳は落ち着きなくユアンの手元を往復している。
「……ユアン。朝の挨拶がまだだったな」
「おはようございます、閣下。あの、手紙が届いたんです」
「…………そうか。実家から、か」
アルヴィスの声が、わずかに低くなった。
彼の脳内では、今まさに最悪のシミュレーションが展開されていた。
(マクレーン家が借金を完済し、ユアンを連れ戻しに来るのではないか? あるいは、別の有力貴族からさらに良い条件の縁談が舞い込み、契約を破棄しようとしているのでは……?)
一度芽生えた独占欲は、冷徹だったはずの彼の思考を驚くほど短絡的なものに変えていた。
「読んで……もいいですか?」
「構わん。お前の自由だ。……だが、もし不当な要求や、無理な帰還を命じられたなら、私が……」
「閣下?」
ユアンは不思議そうに首を傾げながら、手紙に目を落とした。
そこには、真面目すぎて面白みがないことで有名だった長兄・アーサーの、几帳面な文字が並んでいた。
『ユアンへ。元気でやっているか。お前がロストック公爵閣下の元へ行ってから、家の中は妙に静かになった。父上は相変わらずだが、お前が贈ってくれたという先月の「ハニーベリーのジャム」は、母上がとても喜んで食べていた。閣下に粗相をして、追い出されたりはしていないだろうな。もし居場所がないと感じたら、いつでも手紙を書け。兄として、お前の生活の足しになるくらいの金は工面してやる。……体に気をつけるんだぞ』
読み進めるうちに、ユアンの目尻がじんわりと熱くなった。
冷淡な父とは違い、兄は兄なりに、自分のことを案じてくれていたのだ。
「……ユアン? なぜ泣いている」
アルヴィスの声が、今度は焦りに染まった。
彼は大きな手をユアンの肩に置き、覗き込むように顔を近づける。その距離は、昨晩の祭りでの密着を思い出させるほどに近かった。
「ひどい内容だったのか。やはり、すぐにでも戻れと……?」
「いえ、違います。兄が、心配してくれていて。……僕が追い出されてないか、って。それに、いつでも頼れって書いてあったんです」
ユアンが鼻を啜りながら笑うと、アルヴィスは目に見えて安堵の溜息をついた。
だが、安堵の直後、新たな不安が彼を襲う。
(兄を頼れ……? ということは、ユアンにとって、ここはまだ「戻る場所があるまでの仮宿」でしかないということか?)
「……追い出すわけがないだろう」
アルヴィスは、自分でも驚くほど独占的な響きを含んだ声で呟いた。
そして、その日から彼の「奇妙な行動」が始まったのである。
ユアンが厨房へ行こうとすれば、なぜかアルヴィスが「私も少し腹が減った」と付いてくる。
ユアンが庭仕事に戻れば、アルヴィスは近くの東屋で難解そうな軍事書を広げ、五分おきにユアンの様子を確認する。
「冷却」の時間に至っては、本来なら十分程度で終わるはずの魔法を、「今日はまだ少し熱が残っている気がする」と何だかんだ理由をつけて、一時間近くもユアンを側に留め置くようになった。
三日目にして、ユアンはついに尋ねた。
「あの、閣下。……今日はずっと、僕の側にいませんか?」
「……気のせいだ。公爵として、城内の見回りを強化しているだけだ」
「でも、さっきから僕が植えたトマトの苗を、じっと見つめながら書類を読んでますよ。……逆さまですけど」
ユアンが指差すと、アルヴィスは硬直した。
確かに、彼が持っている報告書は上下が逆転していた。
「…………」
「閣下」
ユアンはくすくすと笑いながら、アルヴィスの大きな手のひらに、自分の手をそっと重ねた。
「手紙を読んで、少しだけ実家が恋しくなったのは本当です。でも……僕は、ここが好きですよ。お花も、バルトさんも、リアムさんも」
ユアンはそこで一度言葉を切り、少しだけ恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐにアルヴィスの瞳を見上げた。
「そして……僕に、こんなに広いお庭をくれた閣下のことが、一番好きです。だから、どこにも行きません。契約が終わるその日まで……いえ、終わっても、ここにいたいくらいです」
それは、ユアンなりの最大限の「安心させてあげたい」という気持ちだった。
だが、その言葉を受けたアルヴィスの反応は、ユアンの予想を遥かに超えるものだった。
「…………今、なんと言った」
「えっ? ですから、閣下のことが一番好きで……」
アルヴィスは、重ねられたユアンの手をギュッと握りしめた。
その力強さは、決して逃がさないという誓いのようであり、同時に、震えるほどに繊細な懇願のようでもあった。
「……契約が終わっても、と言ったな。それは、二度と取り消せんぞ」
「ふふ、はい。取り消しません。……だから、そんなに怖そうな顔で回廊から覗くのは、もうおしまいにしてくださいね?」
アルヴィスは、バツが悪そうに視線を逸らした。
彼の耳は、秋の夕日を反射して、見たこともないほど真っ赤に染まっていた。
一通の手紙がもたらした騒動は、結果として、不器用な二人の距離を「お飾り」という概念が通用しない場所まで押し進めてしまった。
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