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26話
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領民たちに野菜を配り終えた翌朝、ロストック城は昨日の熱狂が嘘のような、静かな雪解けの朝を迎えていた。
ユアンはいつものように、アルヴィスの大きな腕の中から這い出すと、寝巻きの上に厚手のガウンを羽織って中庭の温室へと足を運んだ。アルヴィスは、まだ眠気が残っている様子だったが、ユアンが部屋を出る気配を感じるなり、吸い寄せられるようにその背中を追って歩き出している。
温室の奥にあるシリルの「移動研究室」兼、特設の植え替え場。そこには、シリルが昨夜から一睡もせずに見守り続けていた、小さな銀色の芽が揺れていた。
「……ユアン君、来たか。見てくれ、これが君の魔力と、僕が持ち込んだ『忘却の種』が交じり合って生まれた、新しい奇跡だ。名を『風呼びの追憶草』と名付けたよ」
シリルは隈のひどい目で不気味に微笑みながら、ガラスケースの中を指差した。ユアンがその芽にそっと指先を近づけると、微かな風が巻き起こり、温室全体にどこか懐かしく、そして切ない、甘酸っぱい香りが広がっていく。
「追憶草……。なんだか、胸の奥がぎゅっとするような、不思議な香りがしますね」
「この香りは、嗅ぐ者の最も深い場所にある『記憶の澱』に干渉するんだ。君が指を触れれば、君が今まで言葉にできずに溜め込んできた想いが、魔力の波となって花を咲かせるはずだ」
ユアンが好奇心と少しの不安を抱きながら、その銀色の双葉に触れようとした、その時だった。
「……待て。その花、ユアンに苦痛を与えるものではないだろうな」
背後に立っていたアルヴィスが、ユアンの手首を優しく、しかし確実に掴んで引き止めた。アルヴィスの鋭い鼻は、その香りに混ざる「悲しみ」の成分を敏感に嗅ぎ取っていた。
「痛みはないよ、アルヴィス。むしろ逆だ。抑え込んできた感情を解き放つことで、心が浄化されるんだ。……ユアン君、大丈夫。僕を信じて」
シリルに促され、ユアンはアルヴィスを安心させるように一度頷くと、静かに双葉に触れた。
瞬間、視界が白く染まる。
(……気味が悪い。風を操るなんて、マクレーンの家の恥だ)
(お前は屋根裏部屋にいろ。客人の前に出るな。お前はただ、いつか高く売るためだけの『お飾り』なんだから)
遠い過去の声。実家の冷たい石畳の感触。どれだけ努力しても一度も向けられることのなかった、父や兄たちの愛情。ユアンの心に深く刺さっていたトゲが、香りに誘われて一気に溢れ出した。ユアンの目から、自分でも気づかないうちに一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……っ、う……」
「ユアン!!」
アルヴィスが咆哮に近い声で叫び、ユアンを正面から抱き寄せた。彼は即座にシリルを睨みつけ、温室のガラスが震えるほどの殺気を放った。
「貴様……! ユアンに何を見せた! あのクズども――マクレーンの連中が植え付けた呪いを、今更ほじくり返して何になる!」
「アルヴィス、落ち着きたまえ! 見てくれ、花を!」
シリルの叫びで、アルヴィスはユアンを抱き締めたまま、足元の鉢植えに目を落とした。
そこには、ユアンの涙を吸い取った銀色の芽が、目にも止まらぬ速さで成長し、燃えるような紅い花を咲かせていた。その紅は、昨夜二人が見た『共鳴の恋蓮』よりもさらに深く、力強い色をしていた。
「……悲しみの記憶を糧に、今の君の『愛』が花を咲かせたんだ。ユアン君、過去はもう、君を縛る鎖ではなく、今の君を彩るための肥料に変わったんだよ」
ユアンはアルヴィスの胸の中で、ゆっくりと目を開けた。涙は止まっていた。不思議と、あんなに怖かった過去の声が、もう遠い国の出来事のように色褪せて感じられた。
「……アルヴィス様。大丈夫です。僕、もう、悲しくありません。……このお花が、全部連れて行ってくれました」
ユアンが微笑むと、アルヴィスは、その柔らかな表情に胸を突かれた。
そして彼は、決然とした表情でユアンを抱き上げたまま、温室のさらに奥、代々のロストック公爵家が大切に守ってきた『一族の聖域』へと歩き出した。
「アルヴィス様? どこへ……」
「シリル、研究はここまでだ。あとは立ち入りを禁ずる。……ユアン、お前に必要なのは観察日記ではない。真実の『誓い』だ」
アルヴィスが辿り着いたのは、雪を魔法で弾き、一年中瑞々しい緑を湛える小さな隠し庭だった。そこには、ロストック家の象徴である漆黒の石碑が立っている。
アルヴィスはユアンを優しく地面に降ろすと、その石碑の前で、ユアンの前に膝をついた。
「ユアン。……かつてお前を売ったマクレーンの血など、もはやお前には一滴も流れていないと思え。今日、この場所で、お前を正式に『ロストックの魂』として迎え入れる」
アルヴィスは自分の指先をわずかに切り、その一滴の血を、先ほど咲いた紅い花へと垂らした。
ユアンも導かれるように、自分の指先を重ねる。
二人の血が混ざり合い、花がまばゆい光を放って、石碑に刻まれた一族の名簿の末尾に、ユアンの名を黄金の文字で刻み込んでいった。
「……これは、ロストック家に伝わる『血の刻印』。形だけの婚姻ではない。魂そのものが一つの家族になった証だ。……ユアン、お前はもう、独りではない。お前の過去も、未来も、この私が、ロストックの歴史が、すべてを守り抜く」
アルヴィスの力強い言葉。それは、マクレーン家から与えられた「お飾り」という呪縛を、根底から粉砕する真実の魔法だった。
「……アルヴィス……。ありがとうございます。僕……、マクレーンじゃなくて、ロストックのユアンとして……、あなたと一緒に生きていきたいです」
ユアンが泣き笑いのような表情でアルヴィスの首に抱きつくと、アルヴィスはその細い体を壊れ物を扱うように抱きしめ、何度も何度も、その髪に愛おしげな口づけを落とした。
「……そうだ、ユアン。……私の、愛しい家族。……もう、誰にもお前を傷つけさせない。……お前の悲しみはすべて、私が焼き尽くしてやるからな」
温室の影から、シリルがそっと鼻を啜りながら、その光景をノートに記していた。
『愛による過去の昇華。聖なる緑の指は、真実の家族を得て、その真価を発揮する――』
ロストック城に吹く風は、今、冷たい冬の記憶を遠くへと運び去り、二人の「永遠」を祝福する温かな春の息吹へと変わり始めていた。
ユアンはいつものように、アルヴィスの大きな腕の中から這い出すと、寝巻きの上に厚手のガウンを羽織って中庭の温室へと足を運んだ。アルヴィスは、まだ眠気が残っている様子だったが、ユアンが部屋を出る気配を感じるなり、吸い寄せられるようにその背中を追って歩き出している。
温室の奥にあるシリルの「移動研究室」兼、特設の植え替え場。そこには、シリルが昨夜から一睡もせずに見守り続けていた、小さな銀色の芽が揺れていた。
「……ユアン君、来たか。見てくれ、これが君の魔力と、僕が持ち込んだ『忘却の種』が交じり合って生まれた、新しい奇跡だ。名を『風呼びの追憶草』と名付けたよ」
シリルは隈のひどい目で不気味に微笑みながら、ガラスケースの中を指差した。ユアンがその芽にそっと指先を近づけると、微かな風が巻き起こり、温室全体にどこか懐かしく、そして切ない、甘酸っぱい香りが広がっていく。
「追憶草……。なんだか、胸の奥がぎゅっとするような、不思議な香りがしますね」
「この香りは、嗅ぐ者の最も深い場所にある『記憶の澱』に干渉するんだ。君が指を触れれば、君が今まで言葉にできずに溜め込んできた想いが、魔力の波となって花を咲かせるはずだ」
ユアンが好奇心と少しの不安を抱きながら、その銀色の双葉に触れようとした、その時だった。
「……待て。その花、ユアンに苦痛を与えるものではないだろうな」
背後に立っていたアルヴィスが、ユアンの手首を優しく、しかし確実に掴んで引き止めた。アルヴィスの鋭い鼻は、その香りに混ざる「悲しみ」の成分を敏感に嗅ぎ取っていた。
「痛みはないよ、アルヴィス。むしろ逆だ。抑え込んできた感情を解き放つことで、心が浄化されるんだ。……ユアン君、大丈夫。僕を信じて」
シリルに促され、ユアンはアルヴィスを安心させるように一度頷くと、静かに双葉に触れた。
瞬間、視界が白く染まる。
(……気味が悪い。風を操るなんて、マクレーンの家の恥だ)
(お前は屋根裏部屋にいろ。客人の前に出るな。お前はただ、いつか高く売るためだけの『お飾り』なんだから)
遠い過去の声。実家の冷たい石畳の感触。どれだけ努力しても一度も向けられることのなかった、父や兄たちの愛情。ユアンの心に深く刺さっていたトゲが、香りに誘われて一気に溢れ出した。ユアンの目から、自分でも気づかないうちに一筋の涙がこぼれ落ちる。
「……っ、う……」
「ユアン!!」
アルヴィスが咆哮に近い声で叫び、ユアンを正面から抱き寄せた。彼は即座にシリルを睨みつけ、温室のガラスが震えるほどの殺気を放った。
「貴様……! ユアンに何を見せた! あのクズども――マクレーンの連中が植え付けた呪いを、今更ほじくり返して何になる!」
「アルヴィス、落ち着きたまえ! 見てくれ、花を!」
シリルの叫びで、アルヴィスはユアンを抱き締めたまま、足元の鉢植えに目を落とした。
そこには、ユアンの涙を吸い取った銀色の芽が、目にも止まらぬ速さで成長し、燃えるような紅い花を咲かせていた。その紅は、昨夜二人が見た『共鳴の恋蓮』よりもさらに深く、力強い色をしていた。
「……悲しみの記憶を糧に、今の君の『愛』が花を咲かせたんだ。ユアン君、過去はもう、君を縛る鎖ではなく、今の君を彩るための肥料に変わったんだよ」
ユアンはアルヴィスの胸の中で、ゆっくりと目を開けた。涙は止まっていた。不思議と、あんなに怖かった過去の声が、もう遠い国の出来事のように色褪せて感じられた。
「……アルヴィス様。大丈夫です。僕、もう、悲しくありません。……このお花が、全部連れて行ってくれました」
ユアンが微笑むと、アルヴィスは、その柔らかな表情に胸を突かれた。
そして彼は、決然とした表情でユアンを抱き上げたまま、温室のさらに奥、代々のロストック公爵家が大切に守ってきた『一族の聖域』へと歩き出した。
「アルヴィス様? どこへ……」
「シリル、研究はここまでだ。あとは立ち入りを禁ずる。……ユアン、お前に必要なのは観察日記ではない。真実の『誓い』だ」
アルヴィスが辿り着いたのは、雪を魔法で弾き、一年中瑞々しい緑を湛える小さな隠し庭だった。そこには、ロストック家の象徴である漆黒の石碑が立っている。
アルヴィスはユアンを優しく地面に降ろすと、その石碑の前で、ユアンの前に膝をついた。
「ユアン。……かつてお前を売ったマクレーンの血など、もはやお前には一滴も流れていないと思え。今日、この場所で、お前を正式に『ロストックの魂』として迎え入れる」
アルヴィスは自分の指先をわずかに切り、その一滴の血を、先ほど咲いた紅い花へと垂らした。
ユアンも導かれるように、自分の指先を重ねる。
二人の血が混ざり合い、花がまばゆい光を放って、石碑に刻まれた一族の名簿の末尾に、ユアンの名を黄金の文字で刻み込んでいった。
「……これは、ロストック家に伝わる『血の刻印』。形だけの婚姻ではない。魂そのものが一つの家族になった証だ。……ユアン、お前はもう、独りではない。お前の過去も、未来も、この私が、ロストックの歴史が、すべてを守り抜く」
アルヴィスの力強い言葉。それは、マクレーン家から与えられた「お飾り」という呪縛を、根底から粉砕する真実の魔法だった。
「……アルヴィス……。ありがとうございます。僕……、マクレーンじゃなくて、ロストックのユアンとして……、あなたと一緒に生きていきたいです」
ユアンが泣き笑いのような表情でアルヴィスの首に抱きつくと、アルヴィスはその細い体を壊れ物を扱うように抱きしめ、何度も何度も、その髪に愛おしげな口づけを落とした。
「……そうだ、ユアン。……私の、愛しい家族。……もう、誰にもお前を傷つけさせない。……お前の悲しみはすべて、私が焼き尽くしてやるからな」
温室の影から、シリルがそっと鼻を啜りながら、その光景をノートに記していた。
『愛による過去の昇華。聖なる緑の指は、真実の家族を得て、その真価を発揮する――』
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