記憶喪失のフリをしたあざといスパイですが、全部お見通しの皇帝陛下に「嘘の婚約者」として閉じ込められています

たら昆布

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1話

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「……え、これ。死んだ?」

 それが、ロロの意識が浮上した瞬間の第一声――もとい、第一思考だった。
 まぶたの裏側がやけに明るい。死後の世界というものは、案外日当たりが良いらしい。

 ロロの記憶は、ひどく寒くて暗い独房から始まっていた。
 彼は隣国から送り込まれたスパイだった。……といっても、大それた国家機密を盗むようなエリートではない。不景気な故郷で食い詰め、なんとなく「給料がいい」という募集要項に釣られて潜入しただけの、いわゆる下っ端だ。
 案の定、あっさりと捕まった。

 審判を下したのは、このゼノス帝国の若き皇帝、ヴァグレール・フォン・ゼノス。
 銀髪をなびかせ、氷の楔のような冷徹な碧眼でロロを見下ろした彼は、一言こう吐き捨てたのだ。

『間諜に慈悲は不要だ。明朝、処刑場へ送れ』

 あー、終わった。
 ロロはガタガタと揺れる護送馬車の中で、自分の短い人生を振り返っていた。
 せめて最後にお腹いっぱい美味しいパイを食べたかったな、なんて呑気なことを考えていたその時――。

 ――凄まじい衝撃。
 馬のいななきと、御者の叫び声。
 崖下の急斜面を馬車が転げ落ちていく浮遊感の中で、ロロの意識はプツリと途絶えた。

(それなのに、なんでこんなに体が軽いんだろう。しかも、なんだかいい匂いがする)

 おずおずと目を開けると、そこには天国というにはあまりに実体感のある光景が広がっていた。
 高い天井。繊細な彫刻が施された柱。
 そしてロロが横たわっているのは、雲の上かと思うほどふかふかのシルクのシーツだった。

「…………夢?」

「――目が覚めたか」

 低く、どこか湿り気を帯びた艶のある声。
 ロロが弾かれたように顔を向けると、そこには豪華な椅子に腰掛けた一人の男がいた。

 銀の髪。鋭い碧眼。
 整いすぎた容姿は、まるで冷たい彫刻のようだ。
 間違いない。ロロに死罪を命じた張本人、皇帝ヴァグレールだ。

(ヒッ……! 処刑、まだだったの!? ていうかここどこ!?)

 ロロは心臓が口から飛び出しそうなほど驚いたが、ふと冷静になる。
 皇帝の様子がおかしい。
 かつての冷徹な眼差しはどこへやら、彼は今にも泣き出しそうな、それでいて必死に何かを堪えているような、複雑な表情でロロを見つめていた。

 ヴァグレールは椅子から立ち上がると、ロロの枕元に膝をついた。
 大きな、熱を持った手が、ロロの頬をそっと撫でる。

「気分はどうだ? どこか痛むところはないか……ロロ」

(……ロロ? 呼び捨て? 処刑対象を名前で呼ぶなんて、この国の流行りか何か?)

 ロロは混乱した。
 しかし、スパイとしての本能が警鐘を鳴らす。ここで「お前、僕を殺そうとしただろ!」と突っかかるのは得策ではない。
 状況を把握しなければ。とりあえず、定番のあれで行こう。

「あ……。あなたは……だれ、ですか?」

 我ながら、なかなかの名演技だと思う。
 潤んだ瞳で首をかしげるロロ。
 するとヴァグレールは、一瞬だけ痛みに耐えるように顔を歪め、それから優しく微笑んだ。

「そうか……やはり、記憶が。無理もない、あんな事故に遭ったのだからな」

 彼はロロの手を両手で包み込み、耳元で甘く囁いた。

「俺はヴァグレール。お前の婚約者だ」

「…………はい?」

 ロロの思考が真っ白に染まった。
 えーっと、聞き間違いかな。
 こんやくしゃ?
 皇帝と、隣国のスパイが?

(いやいやいや! 絶対に嘘だろ! 僕は君に昨日「死ね」って言われた記憶がはっきりあるよ!?)

 心の中で猛烈なツッコミを入れるロロだったが、ヴァグレールの瞳は真剣そのものだった。
 いや、真剣すぎてちょっと怖い。
 彼はロロの手を愛おしそうに握りしめ、言葉を続ける。

「お前は俺の最愛の恋人であり、この国の次期皇妃だ。事故で馬車が襲われた時、俺は……お前を失うかと思って、目の前が真っ暗になった」

(え、何この設定。盛り盛りすぎない?)

 ロロは瞬時に状況を分析した。
 理由はわからない。
 だが、この皇帝は「ロロが記憶を失った」と確信し、その隙に「自分たちが恋人同士だった」という真っ赤な嘘を植え付けようとしている。

 なぜ?
 スパイの技術が惜しくなった? それとも、実はこいつ、めちゃくちゃ面食いで僕の顔がタイプだったとか?
 いや、どんな理由であれ、答えは一つだ。

(ここで「記憶あります!」なんて言ったら、即・処刑場行き。逆に「婚約者ですぅ」って顔をしておけば……このふかふかのベッドと、多分出るであろう豪華な食事が保障される!)

 決まりだ。
 ロロは一瞬で「あざとい記憶喪失の婚約者」を演じ抜く決意を固めた。

「こんやくしゃ……。ヴァル、さま……?」

 舌を噛みそうな名前を略し、少し舌足らずに呼んでみる。
 その瞬間、ヴァグレールの碧眼が驚愕に大きく見開かれた。
 みるみるうちに、彼の白い頬が赤く染まっていく。

「……っ、今、なんと呼んだ?」

「えっと……ヴァル様、じゃ……ダメでしたか?」

 ロロはわざとらしく不安げに、上目遣いで彼を見つめた。
 さらに、握られている手に少しだけ力を込める。

 ヴァグレールは息を飲み、片手で顔を覆った。

「……いや。以前はそう呼ばれていた。……そうか、名前を呼んでくれるのか」

(嘘つけ。絶対に今初めて呼ばれただろ、その反応)

 ロロは心の中で鼻で笑ったが、顔には天使のような微笑みを浮かべ続けた。
 対するヴァグレールは、完全に動揺している。鉄血皇帝の威厳はどこへ行ったのか、今の彼はただの「好きな子に名前を呼ばれて舞い上がっている男」にしか見えない。

「ロロ、お前は何も心配しなくていい。記憶が戻るまで、いや、戻らなくても、俺が一生お前を守ってやる。この離宮でお前が不自由することはない」

「ありがとうございます、ヴァル様。……僕、なんだかお腹が空いちゃいました」

「すぐに用意させよう! パトリック! 料理長を呼べ! ロロが食べられそうな最高に消化に良くて美味いものを用意するんだ!」

 ヴァグレールが部屋の外に向かって怒鳴る。
 かつての処刑命令と同じくらい力強い声だったが、その内容は「お粥の注文」だった。

 こうして、偽りの記憶を持つ皇帝と、記憶があるフリをするスパイの、奇妙な同居生活が幕を開けた。

(ふふん。とりあえず死罪は回避。あとは、この皇帝を適当に転がして、隙を見て逃げ出すか、それとも飽きられるまで贅沢三昧するか……)

 ロロはふかふかの枕に頭を沈め、これからの「あざとい計画」を練り始めた。
 一方、ヴァグレールは。
 扉を閉めた瞬間、壁に手をついて荒い息を吐いていた。

「……可愛い。記憶がないのをいいことに、あんな顔で俺を……。ああ、絶対に離さないぞ。お前が何者であろうと、俺のロロにしてやる……」

 皇帝の独り言は、幸いなことにロロの耳には届かなかった。
 もし聞いていたら、ロロもこれほど余裕ではいられなかっただろう。

 皇帝の愛は、ロロの想像よりもずっと、重くて深いものだったのだから。
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