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2話
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皇帝が直々に注文した「消化に良い最高のもの」を待つ間、ロロは改めて自分の置かれた状況を観察することにした。
仰向けに寝たまま視線を巡らせると、この部屋がただの客間ではないことがわかる。壁には繊細な糸で織られたタペストリーが飾られ、窓辺には職人の手による彫刻が施されたマホガニーのチェスト。そして、ロロを包んでいるシーツは、おそらく隣国の特産品である最高級の天蚕糸だろう。
(スパイとして潜り込んでいた時のボロ宿とは雲泥の差だなぁ……。あそこは南京虫との戦いだったし。それに比べて、この『婚約者』扱いの快適さと言ったら!)
ロロが内心でホクホクしていると、部屋の重厚な扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、恰幅のいい白髪の男だ。真っ白なコックコートに身を包み、銀のトレイを恭しく捧げている。彼がこの離宮の料理長、パトリックだ。
「陛下、ロロ様。お目覚めのお祝いに、まずは胃に優しい特製のコンソメスープと、ミルクをたっぷり使ったオートミールをお持ちしました。お口に合うとよろしいのですが」
パトリックがトレイをサイドテーブルに置くと、部屋中にふんわりとバターとハーブの芳醇な香りが漂った。
ロロの胃袋が、情けない音を立てて鳴る。
「あ……」
恥ずかしそうに頬を染めて、ロロは自分の腹部を両手で隠した。これも計算のうちだ。「お腹が空いて鳴っちゃうなんて、なんて無防備で可愛い僕!」という演出である。
案の定、横にいたヴァルが、射抜かれたような顔をして胸を押さえた。
「……パトリック、下がっていい。あとは俺がやる」
「しかし陛下、お食事の介助は我ら使用人が――」
「俺がやると言っている」
ヴァルの声に、一瞬だけ本来の皇帝としての威圧感が宿る。パトリックは「おやおや」といった様子で口元を緩め、深々と一礼して部屋を去っていった。
残されたのは、気まずい(ロロにとっては美味しい)沈黙。
「ロロ、少し体を起こせるか? 無理はしなくていい」
ヴァルがロロの背中に手を回し、ゆっくりと上体を起こしてくれる。その手つきは、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように慎重だ。ロロは「ふらつくフリ」をして、さりげなくヴァルの胸元に寄りかかった。
「う、うん……。ありがとう、ヴァル様。なんだか、まだ少しふわふわして……」
「っ……! ああ、無理もない。支えが必要なら、いつでも俺に寄りかかれ。……一生、俺がお前の杖になろう」
(重い。言葉が重いよ、皇帝陛下。これ、絶対に初めて言った台詞だよね?)
ロロは内心で毒づきながらも、ヴァルが用意してくれた山のようなクッションに体を預けた。
ヴァルは椅子を引き寄せると、銀のスプーンでスープを掬った。そして、自分の唇に近づけて、丁寧に「ふー、ふー」と息を吹きかける。
あの冷酷皇帝が、スプーンを持ってスープを冷ましている。
この光景を本国のスパイ仲間が見たら、全員腰を抜かして失神するだろう。
「さあ、あーんしろ。熱くないか?」
差し出されたスプーンを前に、ロロは一瞬だけ躊躇した。
自分で食べられる。手が折れているわけでもない。
だが、ここで「自分で食べます」と言うのは可愛くない。ここは甘やかされるのが正解だ。
「あ、あん……」
小さな口を開けて、スープを受け止める。
口の中に広がったのは、鶏の旨味が凝縮された、透き通るようなスープの味だった。滋味深く、体中の細胞が喜ぶような美味しさだ。
「おいしい……っ。こんなに美味しいスープ、初めて食べたかも……」
これは演技ではなく本心だった。
すると、ヴァルの碧眼が優しく細められた。
「そうか。気に入ったか。パトリックを呼び戻して褒めてやらねばな。……さあ、次はオートミールだ。蜂蜜を入れてある」
一口、また一口。
ヴァルは自分の食事も忘れて、ただひたすらにロロの口へ食事を運ぶ。
ロロは咀嚼しながら、ヴァルの顔をじっと観察した。
(近くで見ると、本当に綺麗な顔だなぁ。まつ毛も長いし。……でも、なんでこの人は僕なんかにこんな嘘をついてるんだろう。敵国のスパイだって、バレてないはずはないのに)
事故の混乱でロロの素性が曖昧になったとしても、皇帝が直接審理したのだ。忘れるはずがない。
なのに、彼はロロを「愛する婚約者」と呼び、自ら食事を食べさせている。
もしかして、記憶喪失なのは僕じゃなくて、この皇帝の方なんじゃないか?
それとも、何か恐ろしい罠があるのか。
「……ロロ? どうした、口の横に付いているぞ」
「えっ?」
ヴァルが指先で、ロロの唇の端についたミルクを拭った。
そしてその指を、あろうことか自分の唇で舐めとったのだ。
ドクン、とロロの心臓が大きく跳ねた。
「……っ!」
「お前は昔から、食べ方が下手だったな。可愛いところは変わらない」
(嘘つけーーー!! 昔なんて無いだろ! 僕たち会ってから数日しか経ってないだろ!)
ロロは顔が真っ赤になるのを抑えきれなかった。
あざとい演技で彼を翻弄してやるつもりだったのに、逆にヴァルの「捏造された過去の思い出」に基づいた自然な(?)色気に圧倒されてしまう。
「ヴァ、ヴァル様は……食べないんですか?」
「お前が満足そうに食べているのを見るのが、俺の食事だ」
「……それ、絶対にお腹空きますよ?」
「ふっ、お前に心配されるのも悪くない」
ヴァルは嬉しそうに笑うと、空になった器を片付けた。
「少し休んでいろ。食後の薬と、着替えを用意させる。今日は天気がいいから、午後は庭園を少し散歩しよう。お前の好きだった『銀雪草』が咲いている」
「銀雪草……。あ、はい。楽しみです」
(そんな花、初めて聞いた。……けど、まあいいか。お庭で美味しいお茶でも出るかもしれないし)
ヴァルが部屋を出ていくまで、ロロは「名残惜しそうな顔」で見送った。
パタンと扉が閉まった瞬間、ロロはふかふかの枕に顔を埋めて、じたばたと足を動かした。
「な、なんなの……。あの皇帝、キャラが崩壊しすぎじゃない……!? 嘘つきは泥棒の始まりって言うけど、あんなの心臓泥棒だよ……」
演技なのか、本気なのか。
お互いに大きな嘘を抱えながら、離宮での生活はまだ始まったばかり。
ロロの「記憶喪失(のフリ)」という名のサバイバルは、想像以上に糖度が高く、そして前途多難になりそうだった。
仰向けに寝たまま視線を巡らせると、この部屋がただの客間ではないことがわかる。壁には繊細な糸で織られたタペストリーが飾られ、窓辺には職人の手による彫刻が施されたマホガニーのチェスト。そして、ロロを包んでいるシーツは、おそらく隣国の特産品である最高級の天蚕糸だろう。
(スパイとして潜り込んでいた時のボロ宿とは雲泥の差だなぁ……。あそこは南京虫との戦いだったし。それに比べて、この『婚約者』扱いの快適さと言ったら!)
ロロが内心でホクホクしていると、部屋の重厚な扉が静かに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、恰幅のいい白髪の男だ。真っ白なコックコートに身を包み、銀のトレイを恭しく捧げている。彼がこの離宮の料理長、パトリックだ。
「陛下、ロロ様。お目覚めのお祝いに、まずは胃に優しい特製のコンソメスープと、ミルクをたっぷり使ったオートミールをお持ちしました。お口に合うとよろしいのですが」
パトリックがトレイをサイドテーブルに置くと、部屋中にふんわりとバターとハーブの芳醇な香りが漂った。
ロロの胃袋が、情けない音を立てて鳴る。
「あ……」
恥ずかしそうに頬を染めて、ロロは自分の腹部を両手で隠した。これも計算のうちだ。「お腹が空いて鳴っちゃうなんて、なんて無防備で可愛い僕!」という演出である。
案の定、横にいたヴァルが、射抜かれたような顔をして胸を押さえた。
「……パトリック、下がっていい。あとは俺がやる」
「しかし陛下、お食事の介助は我ら使用人が――」
「俺がやると言っている」
ヴァルの声に、一瞬だけ本来の皇帝としての威圧感が宿る。パトリックは「おやおや」といった様子で口元を緩め、深々と一礼して部屋を去っていった。
残されたのは、気まずい(ロロにとっては美味しい)沈黙。
「ロロ、少し体を起こせるか? 無理はしなくていい」
ヴァルがロロの背中に手を回し、ゆっくりと上体を起こしてくれる。その手つきは、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように慎重だ。ロロは「ふらつくフリ」をして、さりげなくヴァルの胸元に寄りかかった。
「う、うん……。ありがとう、ヴァル様。なんだか、まだ少しふわふわして……」
「っ……! ああ、無理もない。支えが必要なら、いつでも俺に寄りかかれ。……一生、俺がお前の杖になろう」
(重い。言葉が重いよ、皇帝陛下。これ、絶対に初めて言った台詞だよね?)
ロロは内心で毒づきながらも、ヴァルが用意してくれた山のようなクッションに体を預けた。
ヴァルは椅子を引き寄せると、銀のスプーンでスープを掬った。そして、自分の唇に近づけて、丁寧に「ふー、ふー」と息を吹きかける。
あの冷酷皇帝が、スプーンを持ってスープを冷ましている。
この光景を本国のスパイ仲間が見たら、全員腰を抜かして失神するだろう。
「さあ、あーんしろ。熱くないか?」
差し出されたスプーンを前に、ロロは一瞬だけ躊躇した。
自分で食べられる。手が折れているわけでもない。
だが、ここで「自分で食べます」と言うのは可愛くない。ここは甘やかされるのが正解だ。
「あ、あん……」
小さな口を開けて、スープを受け止める。
口の中に広がったのは、鶏の旨味が凝縮された、透き通るようなスープの味だった。滋味深く、体中の細胞が喜ぶような美味しさだ。
「おいしい……っ。こんなに美味しいスープ、初めて食べたかも……」
これは演技ではなく本心だった。
すると、ヴァルの碧眼が優しく細められた。
「そうか。気に入ったか。パトリックを呼び戻して褒めてやらねばな。……さあ、次はオートミールだ。蜂蜜を入れてある」
一口、また一口。
ヴァルは自分の食事も忘れて、ただひたすらにロロの口へ食事を運ぶ。
ロロは咀嚼しながら、ヴァルの顔をじっと観察した。
(近くで見ると、本当に綺麗な顔だなぁ。まつ毛も長いし。……でも、なんでこの人は僕なんかにこんな嘘をついてるんだろう。敵国のスパイだって、バレてないはずはないのに)
事故の混乱でロロの素性が曖昧になったとしても、皇帝が直接審理したのだ。忘れるはずがない。
なのに、彼はロロを「愛する婚約者」と呼び、自ら食事を食べさせている。
もしかして、記憶喪失なのは僕じゃなくて、この皇帝の方なんじゃないか?
それとも、何か恐ろしい罠があるのか。
「……ロロ? どうした、口の横に付いているぞ」
「えっ?」
ヴァルが指先で、ロロの唇の端についたミルクを拭った。
そしてその指を、あろうことか自分の唇で舐めとったのだ。
ドクン、とロロの心臓が大きく跳ねた。
「……っ!」
「お前は昔から、食べ方が下手だったな。可愛いところは変わらない」
(嘘つけーーー!! 昔なんて無いだろ! 僕たち会ってから数日しか経ってないだろ!)
ロロは顔が真っ赤になるのを抑えきれなかった。
あざとい演技で彼を翻弄してやるつもりだったのに、逆にヴァルの「捏造された過去の思い出」に基づいた自然な(?)色気に圧倒されてしまう。
「ヴァ、ヴァル様は……食べないんですか?」
「お前が満足そうに食べているのを見るのが、俺の食事だ」
「……それ、絶対にお腹空きますよ?」
「ふっ、お前に心配されるのも悪くない」
ヴァルは嬉しそうに笑うと、空になった器を片付けた。
「少し休んでいろ。食後の薬と、着替えを用意させる。今日は天気がいいから、午後は庭園を少し散歩しよう。お前の好きだった『銀雪草』が咲いている」
「銀雪草……。あ、はい。楽しみです」
(そんな花、初めて聞いた。……けど、まあいいか。お庭で美味しいお茶でも出るかもしれないし)
ヴァルが部屋を出ていくまで、ロロは「名残惜しそうな顔」で見送った。
パタンと扉が閉まった瞬間、ロロはふかふかの枕に顔を埋めて、じたばたと足を動かした。
「な、なんなの……。あの皇帝、キャラが崩壊しすぎじゃない……!? 嘘つきは泥棒の始まりって言うけど、あんなの心臓泥棒だよ……」
演技なのか、本気なのか。
お互いに大きな嘘を抱えながら、離宮での生活はまだ始まったばかり。
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