7 / 15
空位の陥穽
しおりを挟む
物部守屋大連は、怏々とさせられるような雰囲気を感じて、たまらず朝堂を後にした。池辺宮から外に出ると、家来の捕鳥部万が馬を引いて馳せつける。
「恐れながら、大連を謗るかの噂ぞ流れあるやに見ゆ」
と万は忠告した。さきほど見た人々の様子が、守屋の腑に落ちる。新嘗の儀式にあって、橘王に進める神饌に毒を盛るとか、厭魅の呪いをするなどということが、もし誰かにできるとすれば、それはこの守屋しかいない。しかしそれは守屋にとってありえないことだ。自分が先祖から受け継いだ祭儀を穢すようなことなどは、たとえ王を裏切ることはあるにしても、するはずがないのだ。
その時、向こうの道を、騎馬に率いられた一団が、松明を掲げて小駆けに走っていく。その道は守屋の家に通じている。
「あれは誰ぞや」
と守屋が問うと、
「さては土師連八嶋にあるかと」
と万は答えた。土師連八嶋は、蘇我馬子大臣の配下である。とっぷり暮れた空の下で、守屋は疑いを募らせる。あの噂にしても、馬子がわしを陥れようとしてのものだ。いま八嶋が馳せていったのも、わしの退路を断とうというのに相違あるまい。守屋はその場で集められるだけの手勢を集めて、馬を河内国の渋河の別荘に走らせる。また別に万を難波の別荘にやって、衆を集めてそこを守らせることとした。
橘王の病は軽くならず、のち七日して世を去った。炊屋姫尊は、今年もまた葬礼を執行する身となった。今度の殯は、その後すぐに始められた。守屋も渋河の家で哀哭の礼を行って、叛心なきことを示した。しかし馬子の罠があろうと疑って、倭国へは戻らない。
五月になると、馬子は守屋の消息を覗いに、信を出した。守屋は、漢字という紋がびっしり並んでいるのなどは、ごく嫌いな方である。口と耳があるのだから、筆やら紙など必要ないではないか。馬子の使者が、文面を読み上げる。
「ようよう暑くなり、いかが過ごしあるや。こちらは穏やかなり。
このほど大きに幸なきことあり、王は永く逝きたまう。されば葬礼を行うべき所、大連こそあらねば進むことならず。何でか戻られずあるや。……」
云々と。守屋は返事を書かない。伝えたいことは使者をやって伝えさせれば良い。そういう昔ながらのやり方で、守屋は少しの不便も感じていないつもりである。守屋の使者は馬子の所へ行って、主人の言葉を正確に伝える。
「ようよう暑くなるも、こちらは常と変わりあらず。
我河内国に退けるは、臣連どもの誰なるか、吾を陥れむとして謀りあると聞けばなり。倭国に還ること望まざるにはあらず。もしそれ根もなき噂に過ぎざれば、願わくば大臣の敏き計らいありて、身の安きを得たしとこそ欲う……」
云々と。
こんなやりとりで時間を稼ぐ一方、守屋は穴穂部王子を河内国に迎えようと画策している。王座が空いている今の内に、穴穂部を擁して諸国に号令すれば勝算が立とう。倭王の金印は炊屋姫に押さえられているが、それは後で良い。物部の祭儀で即位さえさせてしまえば、海外へはともかく、倭人の間では立派に倭王で通用するのだ。
守屋は穴穂部の所へ密使を放った。王子には狩りの装いをして家を出てもらい、そのまま西へ峠を越えて河内入りさせるという計画だ。ところが馬子は馬子で抜かりなく警戒をしていた。守屋の密使は、馬子の手の者によって捕らえられた。謀は漏れ、守屋と穴穂部には、太后に弓を引いて国を傾けようとした、という疑いがかけられた。
六月七日、炊屋姫は馬子をしてその配下の部将に命令を伝えさせた。
「穴穂部王子は、広庭王の子にてあり、当に王の位をば継ぐべくある。しかるに性格は粗放しく、日々いよいよ甚だしくありき。妾しばしば教え諭して、行いの改まることを待てども、むしろ平らかならずと訴えて妾を謗ることありける。去る年にも、殯の宮の奥の殿に押し入りて、狼藉をさえ働こうともせり。
今また物部大連と共に謀りて、宗廟に矢を向けむとする。されば国を保つこともならず、死にて父上やわが夫に合わせる面とて無くあらむことを懼れる。穴穂部王子を誅するもやむなし。汝ら速やかに征くべし」
馬子は部将らとともに兵を率いて、この日の夜半に穴穂部王子の宮を包囲した。空には雲が出て、上弦の月に目隠しをしている。穴穂部が異変に気付き、櫓に登って周囲を見回した時には、塀の外にはどこもかしこも松明がうごめいていた。
「那辺!」
という声が響いたかと思うと、穴穂部の肩を鋭い衝撃が襲った。穴穂部は一本の矢とともに転げ落ちて、建物に逃げ入り、そのまま立て篭もった。
屋敷の周りには濠が巡っていて、外とは橋一つでつながっている。正面の門には、こういう場合のために、まっすぐ走り込めないように工夫がしてある。そこを虎口と呼ぶのである。
もし寄せ手が虎口から攻め入ろうとすれば、いかに多勢に無勢であるとしても、穴穂部方は守り手の利を活かして、勝てないまでも痛手を与えることができる。それを避けるなら、馬子方の作戦としては火攻めが考えられた。しかし王子を焼き殺してしまうと、確かに本人が死んだかどうか判らなくなる場合がある。後々、本当は生きのびているといった噂が立ったり、自分がその王子だと詐称する者が現れたりして、騒乱に発展する懸念もある。
そこで馬子は池辺直氷田を呼び寄せて、一つの仕事を命じた。
「恐れながら、大連を謗るかの噂ぞ流れあるやに見ゆ」
と万は忠告した。さきほど見た人々の様子が、守屋の腑に落ちる。新嘗の儀式にあって、橘王に進める神饌に毒を盛るとか、厭魅の呪いをするなどということが、もし誰かにできるとすれば、それはこの守屋しかいない。しかしそれは守屋にとってありえないことだ。自分が先祖から受け継いだ祭儀を穢すようなことなどは、たとえ王を裏切ることはあるにしても、するはずがないのだ。
その時、向こうの道を、騎馬に率いられた一団が、松明を掲げて小駆けに走っていく。その道は守屋の家に通じている。
「あれは誰ぞや」
と守屋が問うと、
「さては土師連八嶋にあるかと」
と万は答えた。土師連八嶋は、蘇我馬子大臣の配下である。とっぷり暮れた空の下で、守屋は疑いを募らせる。あの噂にしても、馬子がわしを陥れようとしてのものだ。いま八嶋が馳せていったのも、わしの退路を断とうというのに相違あるまい。守屋はその場で集められるだけの手勢を集めて、馬を河内国の渋河の別荘に走らせる。また別に万を難波の別荘にやって、衆を集めてそこを守らせることとした。
橘王の病は軽くならず、のち七日して世を去った。炊屋姫尊は、今年もまた葬礼を執行する身となった。今度の殯は、その後すぐに始められた。守屋も渋河の家で哀哭の礼を行って、叛心なきことを示した。しかし馬子の罠があろうと疑って、倭国へは戻らない。
五月になると、馬子は守屋の消息を覗いに、信を出した。守屋は、漢字という紋がびっしり並んでいるのなどは、ごく嫌いな方である。口と耳があるのだから、筆やら紙など必要ないではないか。馬子の使者が、文面を読み上げる。
「ようよう暑くなり、いかが過ごしあるや。こちらは穏やかなり。
このほど大きに幸なきことあり、王は永く逝きたまう。されば葬礼を行うべき所、大連こそあらねば進むことならず。何でか戻られずあるや。……」
云々と。守屋は返事を書かない。伝えたいことは使者をやって伝えさせれば良い。そういう昔ながらのやり方で、守屋は少しの不便も感じていないつもりである。守屋の使者は馬子の所へ行って、主人の言葉を正確に伝える。
「ようよう暑くなるも、こちらは常と変わりあらず。
我河内国に退けるは、臣連どもの誰なるか、吾を陥れむとして謀りあると聞けばなり。倭国に還ること望まざるにはあらず。もしそれ根もなき噂に過ぎざれば、願わくば大臣の敏き計らいありて、身の安きを得たしとこそ欲う……」
云々と。
こんなやりとりで時間を稼ぐ一方、守屋は穴穂部王子を河内国に迎えようと画策している。王座が空いている今の内に、穴穂部を擁して諸国に号令すれば勝算が立とう。倭王の金印は炊屋姫に押さえられているが、それは後で良い。物部の祭儀で即位さえさせてしまえば、海外へはともかく、倭人の間では立派に倭王で通用するのだ。
守屋は穴穂部の所へ密使を放った。王子には狩りの装いをして家を出てもらい、そのまま西へ峠を越えて河内入りさせるという計画だ。ところが馬子は馬子で抜かりなく警戒をしていた。守屋の密使は、馬子の手の者によって捕らえられた。謀は漏れ、守屋と穴穂部には、太后に弓を引いて国を傾けようとした、という疑いがかけられた。
六月七日、炊屋姫は馬子をしてその配下の部将に命令を伝えさせた。
「穴穂部王子は、広庭王の子にてあり、当に王の位をば継ぐべくある。しかるに性格は粗放しく、日々いよいよ甚だしくありき。妾しばしば教え諭して、行いの改まることを待てども、むしろ平らかならずと訴えて妾を謗ることありける。去る年にも、殯の宮の奥の殿に押し入りて、狼藉をさえ働こうともせり。
今また物部大連と共に謀りて、宗廟に矢を向けむとする。されば国を保つこともならず、死にて父上やわが夫に合わせる面とて無くあらむことを懼れる。穴穂部王子を誅するもやむなし。汝ら速やかに征くべし」
馬子は部将らとともに兵を率いて、この日の夜半に穴穂部王子の宮を包囲した。空には雲が出て、上弦の月に目隠しをしている。穴穂部が異変に気付き、櫓に登って周囲を見回した時には、塀の外にはどこもかしこも松明がうごめいていた。
「那辺!」
という声が響いたかと思うと、穴穂部の肩を鋭い衝撃が襲った。穴穂部は一本の矢とともに転げ落ちて、建物に逃げ入り、そのまま立て篭もった。
屋敷の周りには濠が巡っていて、外とは橋一つでつながっている。正面の門には、こういう場合のために、まっすぐ走り込めないように工夫がしてある。そこを虎口と呼ぶのである。
もし寄せ手が虎口から攻め入ろうとすれば、いかに多勢に無勢であるとしても、穴穂部方は守り手の利を活かして、勝てないまでも痛手を与えることができる。それを避けるなら、馬子方の作戦としては火攻めが考えられた。しかし王子を焼き殺してしまうと、確かに本人が死んだかどうか判らなくなる場合がある。後々、本当は生きのびているといった噂が立ったり、自分がその王子だと詐称する者が現れたりして、騒乱に発展する懸念もある。
そこで馬子は池辺直氷田を呼び寄せて、一つの仕事を命じた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる