倭王が殺されるまでの事

敲達咖哪

文字の大きさ
8 / 15

揺れる炎

しおりを挟む
 池辺直氷田いけべノあたいひたは、蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみの命を受けて、穴穂部王子あなほべノみこの宮へ潜入する。警戒の薄い裏手から、夜陰やいんに紛れてほりに板を渡し、塀を越えて忍び込む。氷田ひたは、大臣おおおみの供をして内裏などへも出入りしているから、主な王族の容姿や風采は見知っている。逆に貴公子流はこんな従者の顔など視もしないから都合が良い。暗い庭に潜んで時を待つ。
 東の空がかすかに白みかけるころ、折良く宮の正面に向けて微風が吹いた。
 にわかにタタタという物音が外から聞こえて、正門側の塀に火矢が立つ。木材の焼ける匂いが庭に流れ込む。虎口こぐちを固めていた衛兵は退かざるを得ない。さらに火種が邸内に投げこまれて、雨戸の隙間へも紅い光を差しこむ。こうなると中の人々は、まだ暗い内にどこかへ落ち延びてしまおうという思いつきで、火のない方をめがけてわっと動き始める。氷田ひたはとっくに暗がりに目が慣れているので、慌てる人々の内に穴穂部王子あなほべノみこの姿をもう見分けた。
王子みこみことや、こちらへいでましませや」
 と氷田ひたはいかにも下人げにんらしい口ぶりを作って、穴穂部あなほべに接近して声を掛ける。高貴な王子はいやしい召使いのことなど気にかけたことがなく、どんな顔が何人いるのかも頓着とんちゃくしていない。
ほりに浮き橋をかけてありますんでな、裏口からお逃げんなりませや」
 氷田ひたを自分の下男げなんと思って疑わず、言われるままに裏手の戸をくぐり、ほりに浮けた板を踏んで走った。寄せ手は正面に集中していて、裏側は包囲を欠いている。
さいわいあることかな!)
 と穴穂部あなほべは胸をおどらせる。このまま物部守屋大連もののべノもりやノおおむらじの所へ抜けられれば、どうにか生きる道が開ける。下男げなんに導かれて、太陽に追われるように西へ走る。
「おい、人目に立たずして河内国かうちノくにへ通れる道やあるか」
 と穴穂部あなほべは問うた。
「へえ、こちらに」
 と下男げなんの姿は答える。木々の生い茂ったなだらかな地形に入ったが、どこの山だか分からない。一緒に逃げてきたはずの人々は、いつの間にやら散り散りになって、自分を連れ出した男だけが前を歩いている。もし立ち止まれば、すぐにも追っ手の矢がかかりそうな気がする。振り向けば立ちのぼる煙が見える。
 とにかく歩いて行くと、このあたりの猟師でも使うのだろうむろが、森の中に一軒だけある。しばしこちらにお隠れなさい、とその男は言って戸を開け、かしこまって先に入るようにと促す。誰か先に辿たどりついたものか、中には何か煮炊きでもする気配がある。穴穂部あなほべは思わず空腹を感じて、そこへ頭を入れたが、
王子みこ、待ちてはべりまつる」
 と中から知った声で迎えられた。
「あっ」
 と叫んで、喉を震わせ、おう、おれは何も悪い考えは持っていない、どうか姉上に取りなしてくれよ、と声になったかどうか、一瞬、首筋に冷たいものを感じて、ドウと前のめりに倒れた。馬子うまこはその場で穴穂部あなほべの死を確かめた。
 
 炊屋姫尊かしきやひめノみこと馬子うまこは、守屋もりや追討ついとうには、なお慎重に手数てかずをかける。物部もののべの縁者は諸国に多い。彼らが守屋もりやのために動けば厄介なことになるかもしれない。馬子うまこは監視や根回しを怠らない。守屋もりやは王子の擁立に失敗したが、馬子うまこには太后おおきさきを後ろ盾とする強みがある。馬子うまこ守屋もりやの打とうとする手を、一つ一つ未然に潰していった。その一方で、善信尼ぜんしんノあまらを百済国くだらノくにへ留学させる手続きなども忘れなかった。
 七月、馬子うまこは、紀臣男麻呂きノおみおまろ巨勢臣比良夫こせノおみひらぶ膳臣賀拕夫かしわでノおみかたぶ葛城臣烏那羅かづらきノおみおなら、さらには大伴連噛おおともノむらじくい阿倍臣人あへノおみひと平群臣神手へぐりノおみかむて坂本臣糠手さかもとノおみあらて春日臣仲君かすがノおみなかつきみなどの、おもだった貴族連に、炊屋姫かしきやひめの名において号令し、いよいよ実力を行使する軍を興した。
 泊瀬部王子はつせべノみこは、竹田王子たけだノみこ難波王子なにわノみこ春日王子かすがノみこ、それに厩戸王子うまやとノみこらとともに、軍に随行することを炊屋姫かしきやひめより命じられた。
 軍勢は、倭国やまとノくに平群へぐりより発して、信貴しぎ高安たかやすの峰に臨み、倭川やまとがわを下って、河内国かうちノくに志紀しきみ、守屋もりやの待つ渋河しぶノかわを目指した。
 馬子うまこはとっくに勝算は固めている。どちらが有利かは明らかだ。しかしもし功を焦って攻め急げば、それだけ守屋もりやに守り手の利点を活かした作戦の幅を与えることになる。馬子うまこにとっての問題は、どれだけ少ない損失で勝つかにあった。守屋もりやは自らえのき枝間またに登って矢を射かけたりして、しきりに攻め手を挑発した。馬子うまこは乗らない。矢も矛も無駄に費やすつもりはないのだ。
 王子らは、軍陣のはるか後方で戦況を眺めるという位置にとどめられていた。泊瀬部はつせべは、なぜここに自分が呼ばれたのか判らなかった。せんだって親しい兄がなぜ太后おおきさきから死をたまわったのか、それとこれがどうつながっているのかも知らない。とにかく争いが起きているという事実が見て取れるだけで、それが何を意味しているのかもよく解っていない。
 年かさの泊瀬部はつせべよりもずっと鋭敏に事件の意味を感じ取っているのは、厩戸王子うまやとノみこであった。額で結う髪型は、まだ年の頃せいぜい十五、六であることを表している。この紅顔の美少年は、他の誰よりも前に立ち、瞳を煌々こうこうと燃やして西のかたを望んでいた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。 佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。 幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。 ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。 又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。 海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。 一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。 事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。 果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。 シロの鼻が真実を追い詰める! 別サイトで発表した作品のR15版です。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-

ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。 1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。 わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。 だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。 これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。 希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。 ※アルファポリス限定投稿

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...