文字の大きさ
大
中
小
9 / 15
厩戸王子の詠唱
厩戸王子は、橘王と間人王女の子で、蘇我馬子大臣からすれば甥と姪の子、炊屋姫尊からは甥に当たる。幼い頃より文史をよくして抜群の頭脳を示し、他田王の晩年に馬子が私邸に仏殿を作った頃からは、仏教にも一方ならぬ関心を寄せた。亡き橘王もことにかわいがって、上宮という屋敷を与えたので、上宮王子という別名でも呼ばれている。特にこの頃は、次世代の王位継承候補の筆頭として期待された押坂王子の体調がすぐれないこともあって、世上の注目を集めている。
王子たちが見守る後方の陣営に、馬子は逐一戦況の報告にやってくる。泊瀬部王子は一同の年長者として、代表してその説明を受ける。馬子の言うことはどうも毎回変わりがないようで、状況はよく呑みこめない。もっと攻め込めば良いのにという気はするが、まあ任せておけば何とかなるだろう。泊瀬部はそう思って、ただウンウンと話しを聞いていた。
厩戸王子はそこへ口を挟んだ。
「はた敗られなんとするにはあらずや。願を発すにあらざれば成し難かるにはありけん」
と言って、司馬鞍部多須奈を呼んで急ぎ四天王の像を作らせよ、と馬子に命じた。四天王というのは、持国天王、広目天王、多聞天王、増長天王といい、いずれも仏法を守護する天界の神で、また仏教を尊ぶ王者の治める国を鎮護するとも云われる。
馬子は攻め急がず、物部勢の守り疲れる時を待って、最も少ない労力で勝つ計算をしている。敵に食糧の蓄えがどれだけあるかも探り、陣容に乱れがないかなども刻々と窺い、もう何日という見通しも立てている。そこで馬子は多須奈に、いついつまでは持ってくるなという条件付きで、厩戸王子の発願による四天王像の制作を課した。
それから三日、六日、九日と経つうちに、馬子の読みの通りに、守屋の兵営からは、逃亡する者がようよう出るし、餓えの色が見え、有用の牛馬を殺して食う有様となった。十日目に、多須奈は四天王像を厩戸王子に捧げた。樹齢百年の白檀を散らして材としたその姿は、さすが名人の作だけあって、舶来の仏像に学んだ精妙なできばえ。これまでこの国の人々が祭儀に用いた土の人形などは、児戯にも等しいと思わせるものであった。
馬子は、前線の陣営に部将や兵士を整列させて、後方から王子たちを迎えた。厩戸王子は壇に上って、四天王像を順にうやうやしく押し戴き、
「今もし我をして敵に勝たしめたまわば、護国四天王の為に、寺をば起てまつらん」
と誓いを立てると、金光明経の巻物を手に取って、その序品を読誦しはじめた。
「如是我聞、一時薄伽梵、在王舍城鷲峯山頂、於最清浄甚深法界、諸仏之境如来所居、与大苾芻衆九万八千人、皆是阿羅漢、能善調伏如大象王、諸漏已除、無復煩悩、心善解脱、慧善解脱、所作已畢、捨諸重担、逮得己利、尽諸有結、得大自在、住清浄戒、善巧方便、智慧荘厳、証八解脱、已到彼岸……」
何を言っているのか誰にも分からない。物知り顔をつくろうのが得意な貴族たちも、唖然とした感情を眉に浮かべている。
「……是人当澡浴、応著鮮潔衣、於此妙経王、甚深仏所讃、専注心無乱、読誦聴受持、由此経威力、能離諸災横、及余衆苦難、無不皆除滅、護世四王衆、及大臣眷属、無量諸薬叉、一心皆擁衛、大弁才天女、尼連河水神、訶利底母神、堅牢地神衆、梵王帝釈主、龍王緊那羅、及金翅鳥王、阿蘇羅天衆」
ただ王子の朗詠する声の美しさに、耳を寄せるばかりである。
「如是天神等、并将其眷属、皆来護是人、昼夜常不離、我当説是経、甚深仏行処、諸仏秘密教、千万劫難逢、若有聞是経、能為他演説、若心生隨喜、或設於供養、如是諸人等、当於無量劫、常為諸天人、龍神所恭敬、此福聚無量、数過於恒沙、読誦是経者、当獲斯功徳……」
君主がこの経を捧持し、正法を以て統治すれば、諸天善神がその国を護るという意味を、理解しているのは馬子だけであった。泊瀬部王子は、異国のまじないでもするのだろうとだけ思って、ただぼんやりとその容子を眺めていた。
厩戸王子が経を詠み終えると、馬子も壇に登って四天王像に跪拝し、
「およそ諸天王、大神王たち、我を助け衛りて利益を獲しめたまわば、願わくは寺をば建てて、仏の法を伝えまつらむ」
と誓った。そして、
「かたじけなくも厩戸王子の御祈りを賜わりて、わが軍が仏の護りを受けることは必じ。この上は敗られることありやとの気遣いも無くなりぬぞ。いざ!」
と全軍進撃を命じた。守屋の兵士たちは、もう戦意を阻喪しつつある時だから、寄せ手が意気盛んに迫るのを見て、矢をつがえるより逃げる算段をする。守屋はまた榎に登り、弓を鳴らして陣を励ます。
ここに、迹見首赤檮という人があった。押坂王子の近習で、王子に代わって成り行きを見届けるために来ていたが、一つ体の悪い主人に手柄でも土産にしようと思い立ち、腕を撫して弓矢を執った。赤檮は何人にも遅れじと弓を掲げ、守屋に狙いを定め、エイと矢を放って、榎の根もとに射堕とした。守屋の軍勢は散り散りになり、一家眷属は氏を改め名を変えて野に落ちていった。
別に守屋の難波の別荘を守っていた捕鳥部万も、守屋が敗れたのを聞いて、山に逃げた。そして名うての弓の腕前で追手を苦しめたものの、果ては膝に矢を受けて逃げ敢えず自刃した。万は狩りの供に使う犬を飼っていたから、その犬が万の首を守って飢え死にした、という噂が世に流れた。
王子たちが見守る後方の陣営に、馬子は逐一戦況の報告にやってくる。泊瀬部王子は一同の年長者として、代表してその説明を受ける。馬子の言うことはどうも毎回変わりがないようで、状況はよく呑みこめない。もっと攻め込めば良いのにという気はするが、まあ任せておけば何とかなるだろう。泊瀬部はそう思って、ただウンウンと話しを聞いていた。
厩戸王子はそこへ口を挟んだ。
「はた敗られなんとするにはあらずや。願を発すにあらざれば成し難かるにはありけん」
と言って、司馬鞍部多須奈を呼んで急ぎ四天王の像を作らせよ、と馬子に命じた。四天王というのは、持国天王、広目天王、多聞天王、増長天王といい、いずれも仏法を守護する天界の神で、また仏教を尊ぶ王者の治める国を鎮護するとも云われる。
馬子は攻め急がず、物部勢の守り疲れる時を待って、最も少ない労力で勝つ計算をしている。敵に食糧の蓄えがどれだけあるかも探り、陣容に乱れがないかなども刻々と窺い、もう何日という見通しも立てている。そこで馬子は多須奈に、いついつまでは持ってくるなという条件付きで、厩戸王子の発願による四天王像の制作を課した。
それから三日、六日、九日と経つうちに、馬子の読みの通りに、守屋の兵営からは、逃亡する者がようよう出るし、餓えの色が見え、有用の牛馬を殺して食う有様となった。十日目に、多須奈は四天王像を厩戸王子に捧げた。樹齢百年の白檀を散らして材としたその姿は、さすが名人の作だけあって、舶来の仏像に学んだ精妙なできばえ。これまでこの国の人々が祭儀に用いた土の人形などは、児戯にも等しいと思わせるものであった。
馬子は、前線の陣営に部将や兵士を整列させて、後方から王子たちを迎えた。厩戸王子は壇に上って、四天王像を順にうやうやしく押し戴き、
「今もし我をして敵に勝たしめたまわば、護国四天王の為に、寺をば起てまつらん」
と誓いを立てると、金光明経の巻物を手に取って、その序品を読誦しはじめた。
「如是我聞、一時薄伽梵、在王舍城鷲峯山頂、於最清浄甚深法界、諸仏之境如来所居、与大苾芻衆九万八千人、皆是阿羅漢、能善調伏如大象王、諸漏已除、無復煩悩、心善解脱、慧善解脱、所作已畢、捨諸重担、逮得己利、尽諸有結、得大自在、住清浄戒、善巧方便、智慧荘厳、証八解脱、已到彼岸……」
何を言っているのか誰にも分からない。物知り顔をつくろうのが得意な貴族たちも、唖然とした感情を眉に浮かべている。
「……是人当澡浴、応著鮮潔衣、於此妙経王、甚深仏所讃、専注心無乱、読誦聴受持、由此経威力、能離諸災横、及余衆苦難、無不皆除滅、護世四王衆、及大臣眷属、無量諸薬叉、一心皆擁衛、大弁才天女、尼連河水神、訶利底母神、堅牢地神衆、梵王帝釈主、龍王緊那羅、及金翅鳥王、阿蘇羅天衆」
ただ王子の朗詠する声の美しさに、耳を寄せるばかりである。
「如是天神等、并将其眷属、皆来護是人、昼夜常不離、我当説是経、甚深仏行処、諸仏秘密教、千万劫難逢、若有聞是経、能為他演説、若心生隨喜、或設於供養、如是諸人等、当於無量劫、常為諸天人、龍神所恭敬、此福聚無量、数過於恒沙、読誦是経者、当獲斯功徳……」
君主がこの経を捧持し、正法を以て統治すれば、諸天善神がその国を護るという意味を、理解しているのは馬子だけであった。泊瀬部王子は、異国のまじないでもするのだろうとだけ思って、ただぼんやりとその容子を眺めていた。
厩戸王子が経を詠み終えると、馬子も壇に登って四天王像に跪拝し、
「およそ諸天王、大神王たち、我を助け衛りて利益を獲しめたまわば、願わくは寺をば建てて、仏の法を伝えまつらむ」
と誓った。そして、
「かたじけなくも厩戸王子の御祈りを賜わりて、わが軍が仏の護りを受けることは必じ。この上は敗られることありやとの気遣いも無くなりぬぞ。いざ!」
と全軍進撃を命じた。守屋の兵士たちは、もう戦意を阻喪しつつある時だから、寄せ手が意気盛んに迫るのを見て、矢をつがえるより逃げる算段をする。守屋はまた榎に登り、弓を鳴らして陣を励ます。
ここに、迹見首赤檮という人があった。押坂王子の近習で、王子に代わって成り行きを見届けるために来ていたが、一つ体の悪い主人に手柄でも土産にしようと思い立ち、腕を撫して弓矢を執った。赤檮は何人にも遅れじと弓を掲げ、守屋に狙いを定め、エイと矢を放って、榎の根もとに射堕とした。守屋の軍勢は散り散りになり、一家眷属は氏を改め名を変えて野に落ちていった。
別に守屋の難波の別荘を守っていた捕鳥部万も、守屋が敗れたのを聞いて、山に逃げた。そして名うての弓の腕前で追手を苦しめたものの、果ては膝に矢を受けて逃げ敢えず自刃した。万は狩りの供に使う犬を飼っていたから、その犬が万の首を守って飢え死にした、という噂が世に流れた。
感想 0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】上海新選組 原田左之助 山崎烝 明治冒険譚 ──Shanghai samurai dad&son──
小海倫明治。死んだはずの新選組十番隊長・原田左之助は、大陸の租界・上海にいた。
その傍らには、京都新選組時代の諜報に利用し、奇怪な家伝の秘薬の副作用で幼い子供の姿となってしまった元新選組監察・山崎烝。
二人は偽りの「実業家 松山誠親子」として暮らしながら、大陸の租界を彷徨い、謎を追う──
洋装で槍を振るいつつ【坂本龍馬殺害】の濡れ衣に追われる原田。
大人の意識を保ち、手には武器の毒針、推理に鋭い頭脳を働かながら、肉体が少しずつ幼くなっていく恐怖に怯える山崎。
租界都市・上海からサイゴン、漢口。
そして天津での「ラスボス対決」へ。
果たして彼等2人を追うラスボスとはいったい誰なのか?
過去の史実エピソードやアクション、ミステリー要素を含めた新選組の生き残りたちが辿る、歴史伝奇冒険譚!
永倉新八、土方歳三も登場。
完結済。
「お姉様の刺繍は素人ね」と笑った義妹の婚礼衣装——裏地を見た女官十二人が、一斉に針を置いた
歩人(あゆと)「お姉様の刺繍は、素人の手習いに見えますわね」――王太子妃となる異母妹アデリーナは、王宮女官たちの前で姉ローゼを笑った。翌週の婚礼の朝。式典装の最終確認のため、十二人の女官が衣装の裏地を検めた瞬間――一人、また一人と、針を置いた。裏地に縫い込まれていたのは、女官たちが十二年間ずっと探していた一筆の銀糸。即位式の絹外套、二人の王女の婚礼ドレス、亡き王太后の弔意の喪服。王家儀礼衣装のすべての裏地に、同じ手で、同じ糸で、同じ銀の花が縫い込まれていた。「アデリーナ様、これは――あなた様の手では、ございません」縫い手は、ずっと一人だった。それを十二年間、誰の名でも呼べなかっただけのこと。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
そして誰もいなくなった
希臘楽園王太子オーギュストの傲慢な振る舞いに耐え続けた公爵令嬢シャーリーと宮廷の女性たちは、婚約破棄を機に一斉に姿を消した。「代わりはいくらでもいる」と罵った王太子を待っていたのは、王国そのものの崩壊だった。AIに書かせてみた第23弾は再び追放ざまぁ作品!
可愛らしい人
はるきりょう「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」