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厩戸王子の詠唱
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厩戸王子は、橘王と間人王女の子で、蘇我馬子大臣からすれば甥と姪の子、炊屋姫尊からは甥に当たる。幼い頃より文史をよくして抜群の頭脳を示し、他田王の晩年に馬子が私邸に仏殿を作った頃からは、仏教にも一方ならぬ関心を寄せた。亡き橘王もことにかわいがって、上宮という屋敷を与えたので、上宮王子という別名でも呼ばれている。特にこの頃は、次世代の王位継承候補の筆頭として期待された押坂王子の体調がすぐれないこともあって、世上の注目を集めている。
王子たちが見守る後方の陣営に、馬子は逐一戦況の報告にやってくる。泊瀬部王子は一同の年長者として、代表してその説明を受ける。馬子の言うことはどうも毎回変わりがないようで、状況はよく呑みこめない。もっと攻め込めば良いのにという気はするが、まあ任せておけば何とかなるだろう。泊瀬部はそう思って、ただウンウンと話しを聞いていた。
厩戸王子はそこへ口を挟んだ。
「はた敗られなんとするにはあらずや。願を発すにあらざれば成し難かるにはありけん」
と言って、司馬鞍部多須奈を呼んで急ぎ四天王の像を作らせよ、と馬子に命じた。四天王というのは、持国天王、広目天王、多聞天王、増長天王といい、いずれも仏法を守護する天界の神で、また仏教を尊ぶ王者の治める国を鎮護するとも云われる。
馬子は攻め急がず、物部勢の守り疲れる時を待って、最も少ない労力で勝つ計算をしている。敵に食糧の蓄えがどれだけあるかも探り、陣容に乱れがないかなども刻々と窺い、もう何日という見通しも立てている。そこで馬子は多須奈に、いついつまでは持ってくるなという条件付きで、厩戸王子の発願による四天王像の制作を課した。
それから三日、六日、九日と経つうちに、馬子の読みの通りに、守屋の兵営からは、逃亡する者がようよう出るし、餓えの色が見え、有用の牛馬を殺して食う有様となった。十日目に、多須奈は四天王像を厩戸王子に捧げた。樹齢百年の白檀を散らして材としたその姿は、さすが名人の作だけあって、舶来の仏像に学んだ精妙なできばえ。これまでこの国の人々が祭儀に用いた土の人形などは、児戯にも等しいと思わせるものであった。
馬子は、前線の陣営に部将や兵士を整列させて、後方から王子たちを迎えた。厩戸王子は壇に上って、四天王像を順にうやうやしく押し戴き、
「今もし我をして敵に勝たしめたまわば、護国四天王の為に、寺をば起てまつらん」
と誓いを立てると、金光明経の巻物を手に取って、その序品を読誦しはじめた。
「如是我聞、一時薄伽梵、在王舍城鷲峯山頂、於最清浄甚深法界、諸仏之境如来所居、与大苾芻衆九万八千人、皆是阿羅漢、能善調伏如大象王、諸漏已除、無復煩悩、心善解脱、慧善解脱、所作已畢、捨諸重担、逮得己利、尽諸有結、得大自在、住清浄戒、善巧方便、智慧荘厳、証八解脱、已到彼岸……」
何を言っているのか誰にも分からない。物知り顔をつくろうのが得意な貴族たちも、唖然とした感情を眉に浮かべている。
「……是人当澡浴、応著鮮潔衣、於此妙経王、甚深仏所讃、専注心無乱、読誦聴受持、由此経威力、能離諸災横、及余衆苦難、無不皆除滅、護世四王衆、及大臣眷属、無量諸薬叉、一心皆擁衛、大弁才天女、尼連河水神、訶利底母神、堅牢地神衆、梵王帝釈主、龍王緊那羅、及金翅鳥王、阿蘇羅天衆」
ただ王子の朗詠する声の美しさに、耳を寄せるばかりである。
「如是天神等、并将其眷属、皆来護是人、昼夜常不離、我当説是経、甚深仏行処、諸仏秘密教、千万劫難逢、若有聞是経、能為他演説、若心生隨喜、或設於供養、如是諸人等、当於無量劫、常為諸天人、龍神所恭敬、此福聚無量、数過於恒沙、読誦是経者、当獲斯功徳……」
君主がこの経を捧持し、正法を以て統治すれば、諸天善神がその国を護るという意味を、理解しているのは馬子だけであった。泊瀬部王子は、異国のまじないでもするのだろうとだけ思って、ただぼんやりとその容子を眺めていた。
厩戸王子が経を詠み終えると、馬子も壇に登って四天王像に跪拝し、
「およそ諸天王、大神王たち、我を助け衛りて利益を獲しめたまわば、願わくは寺をば建てて、仏の法を伝えまつらむ」
と誓った。そして、
「かたじけなくも厩戸王子の御祈りを賜わりて、わが軍が仏の護りを受けることは必じ。この上は敗られることありやとの気遣いも無くなりぬぞ。いざ!」
と全軍進撃を命じた。守屋の兵士たちは、もう戦意を阻喪しつつある時だから、寄せ手が意気盛んに迫るのを見て、矢をつがえるより逃げる算段をする。守屋はまた榎に登り、弓を鳴らして陣を励ます。
ここに、迹見首赤檮という人があった。押坂王子の近習で、王子に代わって成り行きを見届けるために来ていたが、一つ体の悪い主人に手柄でも土産にしようと思い立ち、腕を撫して弓矢を執った。赤檮は何人にも遅れじと弓を掲げ、守屋に狙いを定め、エイと矢を放って、榎の根もとに射堕とした。守屋の軍勢は散り散りになり、一家眷属は氏を改め名を変えて野に落ちていった。
別に守屋の難波の別荘を守っていた捕鳥部万も、守屋が敗れたのを聞いて、山に逃げた。そして名うての弓の腕前で追手を苦しめたものの、果ては膝に矢を受けて逃げ敢えず自刃した。万は狩りの供に使う犬を飼っていたから、その犬が万の首を守って飢え死にした、という噂が世に流れた。
王子たちが見守る後方の陣営に、馬子は逐一戦況の報告にやってくる。泊瀬部王子は一同の年長者として、代表してその説明を受ける。馬子の言うことはどうも毎回変わりがないようで、状況はよく呑みこめない。もっと攻め込めば良いのにという気はするが、まあ任せておけば何とかなるだろう。泊瀬部はそう思って、ただウンウンと話しを聞いていた。
厩戸王子はそこへ口を挟んだ。
「はた敗られなんとするにはあらずや。願を発すにあらざれば成し難かるにはありけん」
と言って、司馬鞍部多須奈を呼んで急ぎ四天王の像を作らせよ、と馬子に命じた。四天王というのは、持国天王、広目天王、多聞天王、増長天王といい、いずれも仏法を守護する天界の神で、また仏教を尊ぶ王者の治める国を鎮護するとも云われる。
馬子は攻め急がず、物部勢の守り疲れる時を待って、最も少ない労力で勝つ計算をしている。敵に食糧の蓄えがどれだけあるかも探り、陣容に乱れがないかなども刻々と窺い、もう何日という見通しも立てている。そこで馬子は多須奈に、いついつまでは持ってくるなという条件付きで、厩戸王子の発願による四天王像の制作を課した。
それから三日、六日、九日と経つうちに、馬子の読みの通りに、守屋の兵営からは、逃亡する者がようよう出るし、餓えの色が見え、有用の牛馬を殺して食う有様となった。十日目に、多須奈は四天王像を厩戸王子に捧げた。樹齢百年の白檀を散らして材としたその姿は、さすが名人の作だけあって、舶来の仏像に学んだ精妙なできばえ。これまでこの国の人々が祭儀に用いた土の人形などは、児戯にも等しいと思わせるものであった。
馬子は、前線の陣営に部将や兵士を整列させて、後方から王子たちを迎えた。厩戸王子は壇に上って、四天王像を順にうやうやしく押し戴き、
「今もし我をして敵に勝たしめたまわば、護国四天王の為に、寺をば起てまつらん」
と誓いを立てると、金光明経の巻物を手に取って、その序品を読誦しはじめた。
「如是我聞、一時薄伽梵、在王舍城鷲峯山頂、於最清浄甚深法界、諸仏之境如来所居、与大苾芻衆九万八千人、皆是阿羅漢、能善調伏如大象王、諸漏已除、無復煩悩、心善解脱、慧善解脱、所作已畢、捨諸重担、逮得己利、尽諸有結、得大自在、住清浄戒、善巧方便、智慧荘厳、証八解脱、已到彼岸……」
何を言っているのか誰にも分からない。物知り顔をつくろうのが得意な貴族たちも、唖然とした感情を眉に浮かべている。
「……是人当澡浴、応著鮮潔衣、於此妙経王、甚深仏所讃、専注心無乱、読誦聴受持、由此経威力、能離諸災横、及余衆苦難、無不皆除滅、護世四王衆、及大臣眷属、無量諸薬叉、一心皆擁衛、大弁才天女、尼連河水神、訶利底母神、堅牢地神衆、梵王帝釈主、龍王緊那羅、及金翅鳥王、阿蘇羅天衆」
ただ王子の朗詠する声の美しさに、耳を寄せるばかりである。
「如是天神等、并将其眷属、皆来護是人、昼夜常不離、我当説是経、甚深仏行処、諸仏秘密教、千万劫難逢、若有聞是経、能為他演説、若心生隨喜、或設於供養、如是諸人等、当於無量劫、常為諸天人、龍神所恭敬、此福聚無量、数過於恒沙、読誦是経者、当獲斯功徳……」
君主がこの経を捧持し、正法を以て統治すれば、諸天善神がその国を護るという意味を、理解しているのは馬子だけであった。泊瀬部王子は、異国のまじないでもするのだろうとだけ思って、ただぼんやりとその容子を眺めていた。
厩戸王子が経を詠み終えると、馬子も壇に登って四天王像に跪拝し、
「およそ諸天王、大神王たち、我を助け衛りて利益を獲しめたまわば、願わくは寺をば建てて、仏の法を伝えまつらむ」
と誓った。そして、
「かたじけなくも厩戸王子の御祈りを賜わりて、わが軍が仏の護りを受けることは必じ。この上は敗られることありやとの気遣いも無くなりぬぞ。いざ!」
と全軍進撃を命じた。守屋の兵士たちは、もう戦意を阻喪しつつある時だから、寄せ手が意気盛んに迫るのを見て、矢をつがえるより逃げる算段をする。守屋はまた榎に登り、弓を鳴らして陣を励ます。
ここに、迹見首赤檮という人があった。押坂王子の近習で、王子に代わって成り行きを見届けるために来ていたが、一つ体の悪い主人に手柄でも土産にしようと思い立ち、腕を撫して弓矢を執った。赤檮は何人にも遅れじと弓を掲げ、守屋に狙いを定め、エイと矢を放って、榎の根もとに射堕とした。守屋の軍勢は散り散りになり、一家眷属は氏を改め名を変えて野に落ちていった。
別に守屋の難波の別荘を守っていた捕鳥部万も、守屋が敗れたのを聞いて、山に逃げた。そして名うての弓の腕前で追手を苦しめたものの、果ては膝に矢を受けて逃げ敢えず自刃した。万は狩りの供に使う犬を飼っていたから、その犬が万の首を守って飢え死にした、という噂が世に流れた。
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