倭王が殺されるまでの事

敲達咖哪

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虚ろな王座

 秋七月、穴穂部王子あなほべノみこと物部守屋大連もののべノもりやノおおむらじを討った紛争が終わると、橘王たちばなノおおきみの遺骸は埋葬された。葬礼は略式に済まされた。王座は、四月からまだ空位のままであった。
 八月二日、泊瀬部王子はつせべノみこは、炊屋姫尊かしきやひめノみことの名で倉梯宮くらはしノみやに呼び出された。倉梯くらはしという土地は、倭国やまとノくにの南東部、平野から山すそに入り込み、多武嶺とうノみねのふもと、尾根の入り組んだ合間に在る。ここは王室の保養地でもあった。泊瀬部はつせべの幼い頃は、夏ごとに遊びに来ていた。その時は、父の広庭王ひろにわノおおきみと、多くの妃や兄弟たちが一緒だった。記憶をたぐってみれば、たしか父には、六人の妃との間に、十六男九女の子があったはずだ。最も親しい兄だった穴穂部王子あなほべノみこもそこにいた。
 今は仲秋の倉梯宮くらはしノみやに、想い出の夏の賑わいはなく、どこか物憂げな影が差している。案内されるままに奥の間に入ると、かつて父が座っていた所には、腹違いの姉、太后おおきさきという立場でもある人が構えている。
「汝いましぞ次に当たるべし」
 と炊屋姫かしきやひめは、倭王わおうの金印を、泊瀬部はつせべの前に置いた。それは祖父彦太王ひこふとノおおきみがこの倭国やまとノくにを征服するより前に、旧王家の若建王わかたけノおおきみという人が、はるか大海の西、呉くれの天子より授かったもので、その後も伝国の宝器となっている。
 泊瀬部はつせべは、はたと困惑した。はて自分の上には、まだ適当な兄がいるような気がしていたが、考えてみればそうでもないらしい。そういえば先日の戦陣を思い返せば、そこに呼ばれた王子たちはみな甥なのだった。確かに自分に相続権が回ってきたのだ。
 泊瀬部はつせべは金印を手に取った。そうするより他に仕方がない。炊屋姫かしきやひめは、このままここに留とどまり王宮とせよ、と言い付け、極めて簡略な即位式をさせた。今まで王権の儀礼を一手にまかなってきた物部もののべ氏の長者が失脚した後なので、正式な式典を執とり行う見通しは立っていない。それについては追って沙汰する、と言い残して、炊屋姫かしきやひめは新たなる王を置いて去った。
 新たな王が立った後も、その年の内は前の王の治世に属するものと見なし、翌年を元年とするのが習わしである。年が明けて、泊瀬部王はつせべノおおきみの治世第一年となった。
 倉梯くらはしは、交通の便の良い所ではない。炊屋姫かしきやひめは、疫病のために閉鎖していた海石榴市宮つばきちノみやを開かせた。蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみを初めとする朝臣たちは、海石榴市宮つばきちノみやに参集して、倉梯くらはしは遠いのでここで朝議を行わせて欲しい、と願い出た。議事次第と決議は、炊屋姫かしきやひめのお墨付きで倉梯宮くらはしノみやへ送られる。泊瀬部王はつせべノおおきみはそれに承認を与えて海石榴市つばきちへ返す。政事は海石榴市つばきちにおいて執行される。
 炊屋姫かしきやひめと馬子うまこにとっては、大きな障害なく仏教の導入を進められる日が来た。仏教を媒介とすれば、最新の知識と技術をばしばしと移入できる。それには仏の道を実践する人と、そのための場が必要だ。今までも名ばかりの仏殿や舎利塔を作ったことはあったが、それはほんとうの仏教建築ではない。改めて百済国くだらノくにに頼んで、僧侶や寺大工らの一団を招聘する。そして飛鳥あすかの真神ヶ原まがみガはらに初の本格的な伽藍がらんの建築を始めた。これはやがて法興寺ほうこうじと法号を名づけられ、口では通わして飛鳥寺あすかでらとも呼ばれることになるはずだ。
 その一方で馬子うまこは、海外の政情にも注意を怠らない。特にここ数年の気遣いは、呉くれの天朝の徳が衰え、北の狄えびすの隋ずい氏なる者が力を伸ばしていると聞こえることだ。こうした情報の経路には、筑紫つくしの嶋の民で海を往来する者や、呉国くれノくにから渡って来る異人によったり、百済くだらや高麗こまを経るものなどがある。
 泊瀬部王はつせべノおおきみの第二年、隋ずいの軍船一艘が、漂流して聃羅国たむらノくにに着いた。聃羅国たむらノくにというのは、百済国くだらノくにの附庸ふようで、その西の海中に在る。その船は百済くだらを経て大陸へ還ったが、そこから隋ずい氏がとうとう呉くれを滅ぼしたということが、倭国やまとノくににも報しらされた。その意気盛んな軍情は、直じかに彊域きょういきを接している高麗国こまノくにからも伝えられてきた。
 そんな時勢にも、美しい山なみに抱かれた倉梯くらはしの里は道ゆく人もまれで、表面は穏やかに見える。
 泊瀬部王はつせべノおおきみにとっては、政治の現場から遠ざけられていることは、その方面の才能に恵まれていないという自覚があるだけに、むしろ有りがたいほどだった。海石榴市宮つばきちノみやから承認を求める使いが来ると、泊瀬部王はつせべノおおきみはこの国で最も上等な服に着替えて迎える。人が少ない代わりに、綺麗な着物や輝く宝物は手元に多い。政策の講釈を受けるのは退屈なだけで、別に苦しくはない。他に王者の務めとしては、時節ごとの祭祀がある。これも面白くはないというだけだ。王家の末っ子という身分を楽しんだ時期は懐かしいが、それももう十分に享受したと思えば、諦められないこともなかった。
 だが呉国くれノくにが滅ぼされたと聞いてからは、物事の感じが変わってきた。懐ふところにはいつも倭王わおうの金印を入れている。泊瀬部はつせべには、これをおいて他に王者の証となるものは無い。これは呉くれの天子という人の徳によって、証明としての効力を持つということになっている。しかしその大元の存在が消えてしまったとなると、どうもその重みがすっと抜けてしまったような気がするのだ。金印そのものは、ゴロリとした金属の塊に過ぎないではないか。
「汝いましぞ次に当たるべし」
 とあの時に言った姉の言葉が、違った意味に思えてくる。あれは相続の順序だけを言ったのであったろうか。
「汝いましぞ次に当たるべし」
 その響きが、何か暗いものを泊瀬部はつせべの心に投げかけるのであった。
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