倭王が殺されるまでの事

婚嫁と因縁

　この静かな倉梯宮くらはしノみやに、蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみも時には自身で奏上をしに参内する。山々の懐ふところへ入って行く道を、馬子うまこは騎馬で往く。馬を駆けさせはしない。供回りの者たちは徒歩だからだ。馬のおかげで遠い道が楽にはなるが、速くはならない。
　法令は、名分として倭王やまとノきみの認可を必要とする。政策の決定は海石榴市宮つばきちノみやでなされても、倉梯宮くらはしノみやへ持って行って、泊瀬部王はつせべノおおきみにくどくどと説明し、その形式的な承認を得ねばならない。こんな形式は能率の悪いものとして破りたくなるところだが、馬子うまこはそう急がない。馬子うまこは形式というものの効能をよく知っている。形式が権威を作り、王が権威を象徴する。王とは屋根を飾る千木ちぎのようなものかもしれない。千木ちぎを高く上げた御殿の中で上座を占めれば、それだけ多く権力を振るうことができる。屋根の粗末な家に人は集わないものである。
　だから最も優れた王者とは、高い実力と象徴性を兼ね備えた人物である。しかし王の子に生まれさえすれば、誰もが立派な王になれるというものではない。血統は象徴としての資格を与えるが、政治家としての能力を保証してはくれない。政治の才能に欠けていることが、血統の貴さを台なしにしてしまうこともある。そこで王が資質不十分であるときのためには、昔からいろいろな担ぎ方が考え出された。いま泊瀬部王はつせべノおおきみの場合には、政治そのものから離れてもらうことである。
　たとえ政治的無能者でも、王位継承の権利を持つ者である限り、王として担がねばならないのだ。
　――されど、いつまでか？
　とも、馬子うまこは思う。各地への伽藍がらんの建築、法師の招聘、出家者の育成、貴族の子弟への教育――などなど、やりたいことは山積している。もっと速く、もっと急げ。そういう焦りが胸のうちにはある。
　――はた、もしものことやあらば？
　馬子うまこの思案は、次の王位継承者へと飛躍する。秀才として期待された押坂王子おしさかノみこは、不幸にして早世した。厩戸王子うまやとノみこはといえば、仏教には驚くほど理解を進めているものの、政治についてはまだまだこれから学習する必要がある。
　泊瀬部はつせべも、頭が政治向きではないというだけで、決して馬鹿というわけではない。自分がどう見られているのかは分かっている。政治の才能がないのは生まれつきだから諦めるとして、象徴として少しでも立派になるためにはどうすれば良いか。それには妃を多く持つことだ。
　祖父の彦太王ひこふとノおおきみには、王女が四人、貴族からは五人、合わせて九人の妃があった。父の広庭王ひろにわノおおきみには、王女の妃が三人、蘇我そが氏の夫人が二人、春日かすが氏の夫人が一人あった。兄の他田王おさだノおおきみも、王女である炊屋姫かしきやひめのほか、王族から一人、他に二人の貴族の妃を娶めとっていた。
　泊瀬部はつせべは、もともと王位に即つくことなど考えていなかった。だから妃は、大伴連糠手おおともノむらじあらての女むすめ、小手子こてこの一人しかない。王となってみると、父や兄と比べても不安を感じる。自分も王女や貴族の妃をもっと娶めとりたいものだ。
　しかし王になってしまうと不自由なもので、身一つで嫁探しに行くことなど許されない。泊瀬部はつせべは方々へ使者をやって妃にふさわしい女性を探させた。もちろん蘇我そが氏もその中に含まれる。泊瀬部はつせべ自身が母から蘇我そがの血を受けているし、今や唯一の大貴族となった馬子うまことの結びつきをより強くして、身の安全を図らねばならないという気がするのである。
　馬子うまこは、王からの申し入れにどう対応するか迷った。馬子うまこには、河上娘かわかみノいらつめという未婚の女むすめがある。河上娘かわかみノいらつめを王の側室に輿入れするのは、馬子うまこにとってやぶさかでない。だが炊屋姫かしきやひめが、王族の女性が王に嫁がぬよう、裏から手を回していることは、それとなく知らされている。炊屋姫かしきやひめは馬子うまこに、どうせよとも言わないが、馬子うまこは炊屋姫かしきやひめの内意を察しなくてはならない立場にある。
　泊瀬部はつせべは、再三通婚を請うた。馬子うまこは、河上娘かわかみノいらつめの病気を理由として辞退し、代わりに、
「物部大連もののべノおおむらじの妹で布都媛ふつひめなる者あり、兄の罪に坐つらなりて嫁がれずにあります。これを納いれられてはいかがなる。世の人どもも心寛き王おおきみなりと言うことにはあらずや」
　との提案を伝えさせた。何ということだろうか。泊瀬部はつせべはムッとした。昔から王者が貴族の女性を求めるのは、その父親と一族の力を得たいがためである。それが凋落した物部もののべの孤児など何になろう。
　馬子うまこは、河上娘かわかみノいらつめを納いれられないことの詫びとして、王に仏像や香炉、白檀の香粉、それに維摩詰所説経ゆいまきつしょせつきょうの巻物などを贈った。泊瀬部はつせべもこの所、厩戸王子うまやとノみこの勧めもあって、仏教に関心を持つようになっていた。仏具には不思議な魅力を感じる。同じ金や銅を用いてはいても、昔からある冠や剣、鏡などの宝が、心を駆り立てるのとは違う。仏は、むしろ心に立つ波を鎮めるものだと思う。
　泊瀬部はつせべは、布都媛ふつひめを納いれた。考えてみれば物部もののべの氏名うじなにはまだ価値があるし、妃は多い方が良い。それでもまだ折に触れて、馬子うまこへの問い合わせは続けた。馬子うまこの方でも含むことがあって、王に気を持たせておいた。
　時はいつのまにか、泊瀬部王はつせべノおおきみの治世第五年を迎えていた。