倭王が殺されるまでの事

敲達咖哪

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地上の天王

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 雨の吹き込みを防ぐための長いひさしは、暖かい陽射しをもさえぎって、座敷の奥に明るみを届かせない。泊瀬部はつせべは、王となってよりこのかた、五年間の暮らしを振り返ると、のきの落とす影の暗さばかりを想い出す。
 王としての生活は、不便なものであった。人との面会は制限されるし、外へ出る時は輿こしに押し込まれる。たまには巻き狩りで青空の下に出られることもあるが、多勢の家来に取り巻かれては、思うままに獲物を追うたのしさは味わえない。
 日々は、形ばかりの政事と、型にはまった祭祀、その合間の食事と睡眠の繰り返しであった。何でも有司が手はずを整えてくれる。初めはいたれりつくせりで楽だと思った。その代わりに、自分で決められることは一つも無い。身の回りの種々の品物も、おおよそ王朝の財産であり、自分の私有に帰する物はほとんど無かった。
  倉梯宮くらはしノみやの奥の庭に、泊瀬部はつせべは小さい離れを建てさせていた。ここには、蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみ厩戸王子うまやとノみこから贈られた仏像などを置いてある。経巻はほとんどひもときもしない。冒頭の如是我聞にょぜがもんという句だけは、甥に教わって、その音も、
かくの如くわれは聞きけり」
 という意味も憶えた。そのあとはさっぱり判らない。それでも巻物を積んでおくだけでありがたい感じがする。
 一日の公務を終えると、泊瀬部はつせべはこの離れに籠もる。この窮屈な空間だけに自由がある。香を焚いて仏の姿に向かっていると、穏やかな心で現状を受け容れるという気もちになる。しかしとこき眠りに落ちると、遊び回っていた頃を夢に見る。時には二人の兄の王の、まさにやまいに死なんとするきわに遭遇する。そして目を覚ますと、自分もそう遠くないうちに死ぬのだという念が湧く。かさやまいが自分にも取りつくような気がしてくる。
 かさやまいは、ひところの猛威は失ったとはいえ、時々息を吹き返して、そのたびごとに人々を苦しめた。そうした折りには、海石榴市宮つばきちノみやはしばし閉鎖されて、朝議の場は豊浦宮とゆらノみやに移った。豊浦宮とゆらノみやは、海石榴市つばきちから南西へずっと行った所で、倉梯宮くらはしノみやへはなお遠い。馬子うまこにとって良いことは、ここが建設中の法興寺ほうこうじには近いということだ。作事の現場では、金堂こんどう回廊かいろうがようやく姿を現しつつある。
 馬子うまこの胸には、仏教を政治の道具として扱う冷徹さと、父から受け継いだ念願がやっと叶えられるという熱いものが同居している。何としても、この仕事をもっとどしどしと進めたいものだ。海石榴市つばきち倉梯くらはし、あるいは豊浦とゆら倉梯くらはし、四つのひづめを音高く鳴らして、二つの宮の間を往復しながら、馬子うまこはあらゆる可能性に思いを巡らせる。
 馬子うまこが次世代の倭王やまとノきみとして期待する本命は、何といっても厩戸王子うまやとノみこである。しかしまだ歳は弱冠はたちばかり、これから政治家としての経験を積ませなければなるまい。
 ――もし炊屋姫かしきやひめがまことにきみにておわせば、いかほど仕事がしやすくならむか。
 と馬子うまこは、秘かに何度も同じことを考えた。仏教導入の推進という点では、二人の意志は固く一致している。
 女性が王位を継承することは、不可能というわけではない。かつて旧王家の白髪王しらかノおおきみという人が没した後に、飯豊青尊いいどよノあおノみことという姫が、仮りのことながら倭王やまとノきみとなったことがある。その時は白髪王しらかノおおきみに子が無く、跡継ぎが定まらなかった。そのように、女性が公的な地位にけるのは、ふさわしい男子が存在しない時に限ると、世間では誰もがそう思っている。
 炊屋姫かしきやひめがもし王位にこうとすれば、厩戸王子うまやとノみこがもう少し成長するよりも前に、泊瀬部王はつせべノおおきみが死ななければならない。
 ところがこのごろ、炊屋姫かしきやひめ近習きんじゅの者に自分のことを、
 「天王てんのう
 という美称で呼ばせるようになった。
 仏教では、大梵天だいぼんてん帝釈天たいしゃくてん四天王してんのうなど、天界で三宝を守護する神を、天王てんのう、と呼んでいる。それになぞらえて、仏教を擁護する地上の王者をもそう呼ぶことがある。天王てんのうたぐいには、弁才天べんざいてんという女神もある。
 炊屋姫かしきやひめが自ら天王てんのうになぞらえたことから、馬子うまこはその構想が思いがけず大きいものであることを知った。馬子うまこは、仏教をもっぱら最新の技術や知識を摂取するための媒介として考えている。それは炊屋姫かしきやひめも同じだと思っていた。
 炊屋姫かしきやひめは、国家と秩序を造り替えることを目指している。倭国やまとノくににも、同盟する吉備きび阿波あわ出雲いずも筑紫つくしあずまなどの諸国にも、それぞれの地域に不文の慣習法というものがある。だからその国の事情を熟知した者でなくてはその国を治めることはできず、倭王やまとノきみが諸国の盟主であるといっても、各地の政治に介入できる範囲はごく限られている。そこで仏教の権威を裏付けとした総合的な法規を確立し、各地の慣習法をこれに沿わせることで、もっと大きくて強い、統一された国家を建設する。そのためには、自分が人間界の天王てんのうとなって、弘法ぐほうを後押ししようと考えているのだ。
 ――されば、天王てんのう倭王やまとノきみ炊屋姫かしきやひめ泊瀬部はつせべ順序つぎてはいかなることになるや?
 天に二つの日は無く、民に二りの王は無いという。天王てんのう、という炊屋姫かしきやひめに対する尊号が、もっと広く用いられることになれば、両者の地位は衝突を起こすに違いない。重い決断の時が迫っていることを、馬子うまこは感じずにはいられなかった。
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