12 / 15
地上の天王
しおりを挟む
雨の吹き込みを防ぐための長い庇は、暖かい陽射しをも遮って、座敷の奥に明るみを届かせない。泊瀬部は、王となってよりこのかた、五年間の暮らしを振り返ると、軒の落とす影の暗さばかりを想い出す。
王としての生活は、不便なものであった。人との面会は制限されるし、外へ出る時は輿に押し込まれる。たまには巻き狩りで青空の下に出られることもあるが、多勢の家来に取り巻かれては、思うままに獲物を追う愉しさは味わえない。
日々は、形ばかりの政事と、型にはまった祭祀、その合間の食事と睡眠の繰り返しであった。何でも有司が手はずを整えてくれる。初めはいたれりつくせりで楽だと思った。その代わりに、自分で決められることは一つも無い。身の回りの種々の品物も、おおよそ王朝の財産であり、自分の私有に帰する物はほとんど無かった。
倉梯宮の奥の庭に、泊瀬部は小さい離れを建てさせていた。ここには、蘇我馬子大臣や厩戸王子から贈られた仏像などを置いてある。経巻はほとんど繙きもしない。冒頭の如是我聞という句だけは、甥に教わって、その音も、
「是の如く我は聞きけり」
という意味も憶えた。その後はさっぱり判らない。それでも巻物を積んでおくだけでありがたい感じがする。
一日の公務を終えると、泊瀬部はこの離れに籠もる。この窮屈な空間だけに自由がある。香を焚いて仏の姿に向かっていると、穏やかな心で現状を受け容れるという気もちになる。しかし床に就き眠りに落ちると、遊び回っていた頃を夢に見る。時には二人の兄の王の、まさに病に死なんとするきわに遭遇する。そして目を覚ますと、自分もそう遠くないうちに死ぬのだという念が湧く。瘡の病が自分にも取りつくような気がしてくる。
瘡の病は、ひところの猛威は失ったとはいえ、時々息を吹き返して、そのたびごとに人々を苦しめた。そうした折りには、海石榴市宮はしばし閉鎖されて、朝議の場は豊浦宮に移った。豊浦宮は、海石榴市から南西へずっと行った所で、倉梯宮へはなお遠い。馬子にとって良いことは、ここが建設中の法興寺には近いということだ。作事の現場では、金堂と回廊がようやく姿を現しつつある。
馬子の胸には、仏教を政治の道具として扱う冷徹さと、父から受け継いだ念願がやっと叶えられるという熱いものが同居している。何としても、この仕事をもっとどしどしと進めたいものだ。海石榴市と倉梯、あるいは豊浦と倉梯、四つの蹄を音高く鳴らして、二つの宮の間を往復しながら、馬子はあらゆる可能性に思いを巡らせる。
馬子が次世代の倭王として期待する本命は、何といっても厩戸王子である。しかしまだ歳は弱冠ばかり、これから政治家としての経験を積ませなければなるまい。
――もし炊屋姫がまことに王にておわせば、いかほど仕事がしやすくならむか。
と馬子は、秘かに何度も同じことを考えた。仏教導入の推進という点では、二人の意志は固く一致している。
女性が王位を継承することは、不可能というわけではない。かつて旧王家の白髪王という人が没した後に、飯豊青尊という姫が、仮りのことながら倭王となったことがある。その時は白髪王に子が無く、跡継ぎが定まらなかった。そのように、女性が公的な地位に就けるのは、ふさわしい男子が存在しない時に限ると、世間では誰もがそう思っている。
炊屋姫がもし王位に即こうとすれば、厩戸王子がもう少し成長するよりも前に、泊瀬部王が死ななければならない。
ところがこのごろ、炊屋姫は近習の者に自分のことを、
「天王」
という美称で呼ばせるようになった。
仏教では、大梵天、帝釈天、四天王など、天界で三宝を守護する神を、天王、と呼んでいる。それになぞらえて、仏教を擁護する地上の王者をもそう呼ぶことがある。天王の類いには、弁才天という女神もある。
炊屋姫が自ら天王になぞらえたことから、馬子はその構想が思いがけず大きいものであることを知った。馬子は、仏教をもっぱら最新の技術や知識を摂取するための媒介として考えている。それは炊屋姫も同じだと思っていた。
炊屋姫は、国家と秩序を造り替えることを目指している。倭国にも、同盟する吉備、阿波、出雲、筑紫、東などの諸国にも、それぞれの地域に不文の慣習法というものがある。だからその国の事情を熟知した者でなくてはその国を治めることはできず、倭王が諸国の盟主であるといっても、各地の政治に介入できる範囲はごく限られている。そこで仏教の権威を裏付けとした総合的な法規を確立し、各地の慣習法をこれに沿わせることで、もっと大きくて強い、統一された国家を建設する。そのためには、自分が人間界の天王となって、弘法を後押ししようと考えているのだ。
――されば、天王と倭王、炊屋姫と泊瀬部の順序はいかなることになるや?
天に二つの日は無く、民に二りの王は無いという。天王、という炊屋姫に対する尊号が、もっと広く用いられることになれば、両者の地位は衝突を起こすに違いない。重い決断の時が迫っていることを、馬子は感じずにはいられなかった。
王としての生活は、不便なものであった。人との面会は制限されるし、外へ出る時は輿に押し込まれる。たまには巻き狩りで青空の下に出られることもあるが、多勢の家来に取り巻かれては、思うままに獲物を追う愉しさは味わえない。
日々は、形ばかりの政事と、型にはまった祭祀、その合間の食事と睡眠の繰り返しであった。何でも有司が手はずを整えてくれる。初めはいたれりつくせりで楽だと思った。その代わりに、自分で決められることは一つも無い。身の回りの種々の品物も、おおよそ王朝の財産であり、自分の私有に帰する物はほとんど無かった。
倉梯宮の奥の庭に、泊瀬部は小さい離れを建てさせていた。ここには、蘇我馬子大臣や厩戸王子から贈られた仏像などを置いてある。経巻はほとんど繙きもしない。冒頭の如是我聞という句だけは、甥に教わって、その音も、
「是の如く我は聞きけり」
という意味も憶えた。その後はさっぱり判らない。それでも巻物を積んでおくだけでありがたい感じがする。
一日の公務を終えると、泊瀬部はこの離れに籠もる。この窮屈な空間だけに自由がある。香を焚いて仏の姿に向かっていると、穏やかな心で現状を受け容れるという気もちになる。しかし床に就き眠りに落ちると、遊び回っていた頃を夢に見る。時には二人の兄の王の、まさに病に死なんとするきわに遭遇する。そして目を覚ますと、自分もそう遠くないうちに死ぬのだという念が湧く。瘡の病が自分にも取りつくような気がしてくる。
瘡の病は、ひところの猛威は失ったとはいえ、時々息を吹き返して、そのたびごとに人々を苦しめた。そうした折りには、海石榴市宮はしばし閉鎖されて、朝議の場は豊浦宮に移った。豊浦宮は、海石榴市から南西へずっと行った所で、倉梯宮へはなお遠い。馬子にとって良いことは、ここが建設中の法興寺には近いということだ。作事の現場では、金堂と回廊がようやく姿を現しつつある。
馬子の胸には、仏教を政治の道具として扱う冷徹さと、父から受け継いだ念願がやっと叶えられるという熱いものが同居している。何としても、この仕事をもっとどしどしと進めたいものだ。海石榴市と倉梯、あるいは豊浦と倉梯、四つの蹄を音高く鳴らして、二つの宮の間を往復しながら、馬子はあらゆる可能性に思いを巡らせる。
馬子が次世代の倭王として期待する本命は、何といっても厩戸王子である。しかしまだ歳は弱冠ばかり、これから政治家としての経験を積ませなければなるまい。
――もし炊屋姫がまことに王にておわせば、いかほど仕事がしやすくならむか。
と馬子は、秘かに何度も同じことを考えた。仏教導入の推進という点では、二人の意志は固く一致している。
女性が王位を継承することは、不可能というわけではない。かつて旧王家の白髪王という人が没した後に、飯豊青尊という姫が、仮りのことながら倭王となったことがある。その時は白髪王に子が無く、跡継ぎが定まらなかった。そのように、女性が公的な地位に就けるのは、ふさわしい男子が存在しない時に限ると、世間では誰もがそう思っている。
炊屋姫がもし王位に即こうとすれば、厩戸王子がもう少し成長するよりも前に、泊瀬部王が死ななければならない。
ところがこのごろ、炊屋姫は近習の者に自分のことを、
「天王」
という美称で呼ばせるようになった。
仏教では、大梵天、帝釈天、四天王など、天界で三宝を守護する神を、天王、と呼んでいる。それになぞらえて、仏教を擁護する地上の王者をもそう呼ぶことがある。天王の類いには、弁才天という女神もある。
炊屋姫が自ら天王になぞらえたことから、馬子はその構想が思いがけず大きいものであることを知った。馬子は、仏教をもっぱら最新の技術や知識を摂取するための媒介として考えている。それは炊屋姫も同じだと思っていた。
炊屋姫は、国家と秩序を造り替えることを目指している。倭国にも、同盟する吉備、阿波、出雲、筑紫、東などの諸国にも、それぞれの地域に不文の慣習法というものがある。だからその国の事情を熟知した者でなくてはその国を治めることはできず、倭王が諸国の盟主であるといっても、各地の政治に介入できる範囲はごく限られている。そこで仏教の権威を裏付けとした総合的な法規を確立し、各地の慣習法をこれに沿わせることで、もっと大きくて強い、統一された国家を建設する。そのためには、自分が人間界の天王となって、弘法を後押ししようと考えているのだ。
――されば、天王と倭王、炊屋姫と泊瀬部の順序はいかなることになるや?
天に二つの日は無く、民に二りの王は無いという。天王、という炊屋姫に対する尊号が、もっと広く用いられることになれば、両者の地位は衝突を起こすに違いない。重い決断の時が迫っていることを、馬子は感じずにはいられなかった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
死んだはずの貴族、内政スキルでひっくり返す〜辺境村から始める復讐譚〜
のらねこ吟醸
ファンタジー
帝国の粛清で家族を失い、“死んだことにされた”名門貴族の青年は、
偽りの名を与えられ、最果ての辺境村へと送り込まれた。
水も農具も未来もない、限界集落で彼が手にしたのは――
古代遺跡の力と、“俺にだけ見える内政スキル”。
村を立て直し、仲間と絆を築きながら、
やがて帝国の陰謀に迫り、家を滅ぼした仇と対峙する。
辺境から始まる、ちょっぴりほのぼの(?)な村興しと、
静かに進む策略と復讐の物語。
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる